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仏都伊勢を行く ~神と仏の伊勢神宮~ の立ち位置につきまして

おかげさまで、この 仏都伊勢を行く ~神と仏の伊勢神宮~ のブログも立ち上げからほぼ1年がたとうとしています。観光ガイド的な伊勢神宮案内とは全く異なる、マニアックな内容にもかかわらず、少なくない方にお立ち寄りいただき、「スキ」まで頂戴していることには、ただただ感謝しかありません。
内容をお読みいただければわかっていただけるように、ここはオカルトや神秘主義を唱えているブログではまったくありません。そして当然ながら、既存宗教、新興宗教を含めて、特定の教義や宗派を推奨したり、逆に貶めたり、そんな内容でもまったくありませんし、そうした意図も全然ありません。

Noteには日々、物凄くたくさんの伊勢神宮に関する記事が掲載されています。また、旅行や観光、グルメを扱う記事にも膨大な伊勢神宮情報が載っています。
しかし、私が不思議に思うし、残念にも感じるのが、伊勢神宮の歴史や由来の説明には共通する一つのパターン(枠というか、定説というのでしょうか)があって、そのパターンを乗り越えて好奇心に応えてくれる内容のものがほとんど見当たらないことです。

日本書紀や皇大神宮儀式帳によれば、内宮は今から2000年前に創建された。止由気宮儀式帳によると、外宮はそれから約500年後に創建された。
伊勢神宮は創設以来、朝廷を始め全国民から崇敬を受けており、江戸時代には年間300万人もの参詣者が全国から押し寄せていた。今も伊勢神宮は昔と変わらない静謐な自然環境で、日々の祭事が斎行されている。

こうしたパターンはもちろんウソではありません。
しかしながら、ごく普通に考えて、それでは日本書紀が編集された奈良時代(8世紀)や止由気宮儀式帳が作られた平安時代初期(9世紀)から、庶民によるお伊勢参りが一般化する江戸時代(17世紀)までの900年間は、伊勢神宮はどんな姿だったのだろう、今と同じだったのだろうか?と不思議に思うのではないでしょうか。
昔とずーっと変わらない。何もかも900年前とまったく同じ姿。
こんなことはあるはずはないでしょうし、事実、伊勢神宮は長い歴史の中で大きく姿を変え、ある意味では「創設」のころとは全く違う形となって21世紀の今につながっています。これは歴史的な事実であり、数多くの資料や文献で確認することができます。
これを図にすると、こんな感じになります。

「パターン」では中抜け時代の伊勢神宮はほとんど説明されない

この仏都伊勢を行く ~神と仏の伊勢神宮~ では、図の中で「ほぼ中抜け」と書いた、平安時代から江戸時代くらいまでの約1000年のエピソードを紹介していこうとしています。
それも、面白がってです。
伊勢神宮の境内や周辺、そして少し足を延ばした郊外には、今もその中抜け時代の史跡がたくさん残っているので、参拝や観光のついでに立ち寄って行けば、よりいっそう伊勢神宮の長い歴史や多様な信仰の在り方が実感できるのではないかと考えるからです。

中抜け時代の特徴を一言で表せば、仏教との接近、神仏の習合、になると思います。しかし、伊勢神宮は神仏隔離を他のどの神社よりも厳格に守ってきました。なので、伊勢神宮の神仏習合は、神と仏との距離感をいかに保つかの努力と紙一重のものでした。
また、時代時代の権力者(天皇、摂関家、上皇、法皇、将軍、戦国武将など)も仏教への信仰は厚かったのですから、こうした権力者の意向を受けた仏教の浸食もまた、絶妙なバランス感覚で乗り越えなくてはいけませんでした。
こうした「中抜け」の歴史は、私にとって実に面白く、それを知ることでまた伊勢神宮に訪れたくなるような内容ばかりです。こうした史実や考察を、歴史好きな皆さんとぜひとも共有したいと思っています。

どうか今後ともよろしくお願いします。


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