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なぜ伊勢神宮の神官は熱烈な仏教徒だったのか?

<伊勢神宮では仏教を隔離していた>
前回は、伊勢神宮の神仏隔離を取り上げました。内宮、外宮など伊勢神宮で斎行される神事の場では、仏教を遠ざけるという原則のことです。
具体的には、伊勢神宮への僧尼の参拝や、神前での読経、転読、護摩などの仏事は禁止。仏教に関する言葉も「忌詞」としてそのまま口にすることを憚り、別の名詞に替えて言い表していました。
こうした神仏隔離は、延喜式や皇大神宮儀式帳などが成立した8世紀末から9世紀初め、奈良時代の末期から平安時代の初期に明確化され、それ以降も引き継がれていくことになります。

しかし、一方で、平安時代は奈良時代以上に、仏教が大きく発展した時代でもありました。最澄や空海が唐から最新の理論である密教を日本に持ち込むと、仏教の理論深化や実践が一層広まって、精神世界に深い影響を与えるようになります。延暦寺や東寺などの寺院が天皇や貴族の圧倒的な崇敬を集めるようになりました。
平安時代半ばの社会思潮である「末法思想」の影響も見逃せません。釈迦の入滅後2000年を過ぎると、世の中は堕落腐敗した末法の世となり、正しい仏法は行われず、人々も苦しみから救済されなくなる、という思想です。この時代は全国で地震や風水害、飢饉、疫病、戦乱が相次ぎ、社会不安が大きかったこともあって、阿弥陀如来信仰など、仏教への人々の関心と信仰が一気に高まったのでした。

奈良国立博物館 源信展より

この歴史の大きな流れは、どれほど神仏隔離を大原則としていた伊勢神宮であろうと、押し止めようがなかったのです。

<神職(神官)たちの熱烈な仏教信仰>
伊勢神宮の神仏隔離原則が大きく揺らぎだすのも、こうした平安時代の半ばからでした。高級神職(神官)たちによる仏教帰依が続発するようになったのです。この先例が、伊勢神宮の祭事を主宰する「祭主」による氏寺の建立です。
大中臣(おおなかとみ)家は朝廷の神祇官僚の家柄で、代々伊勢神宮祭主や大宮司を担ってきました。しかし、正暦2年(991年)から長保2年(1000年)まで祭主を務めた大中臣永頼という人物は、神仏隔離を守るべき立場ながら仏教への信奉が厚く、ついに十一面観音菩薩を本尊とした蓮台寺という寺を内宮と外宮の中間地点、鼓ケ岳の山麓に建立しました。

その後の12世紀も、大中臣輔親による釋尊寺の建立(11世紀初め)、大中臣親定による寺院(名称不詳ながら岩出堂と推定されています)の建立が続き、内宮の禰宜を世襲する一族の荒木田家、同じく外宮の禰宜一族の度会家も伊勢神宮の周縁部にいくつもの氏寺を建立しています。
それだけではありません。祭主や禰宜が出家剃髪して僧になる事例も頻繁に生まれました。神職の出家禁止についてはたびたび禁令が出ているほどなので、反対に言えば、法的に禁止する必要があるほど、伊勢神宮の神職たちの仏教信仰は高まっていたようなのです。

<なぜ神職が仏教信仰?>
それではなぜ、祭主や禰宜たちは厚く仏教に帰依したのでしょうか。
理由はいくつか考えられますが、まず当然ながら、平安京での朝廷中枢における仏教の興隆の事実は外せません。
祭主という、普段は都に在住していて、神事の際のみ伊勢神宮に下向してくる立場の人にとって、仏教はもはや身近な生活の一部になっていたはずです。仏教を忌避している内宮や外宮は望ましいことではなく、ぜひこの地でも仏教を興隆させるべきだと考えていたのかもしれません。
また、10世紀後半の天候不順による伊勢神宮周辺の農村の疲弊も考えられます。伊勢神宮の神郡である宮川右岸から五十鈴川流域にわたる地域では、平安時代の前期(9世紀後半から10世紀前半)にかけて、ほとんどの集落遺跡が消失していることが近年の研究で明らかになりました。気象歴史学上も10世紀は少雨の時代だったことが分かっており、おそらくは干ばつによる農業の壊滅で、この地で古代から続いていた集落もいったん消滅状態となったのでした。
宮川右岸から五十鈴川流域での新たな集落の再生は10世紀後半から始まっており、これはまさしく岩出堂や荒木田家、度会家による氏寺の創建などと時代が重なります。耕作復興と集落コミュニティの再構築には、寺院や仏教が何らか深くかかわっていたのかもしれません。(「仏教の浸透からみら古代伊勢の宗教世界」斎宮歴史博物館 大川勝宏)

<伊勢神宮は私幣禁断だった>
別の大きな理由として挙げられるのは、伊勢神宮は「私幣禁断」つまり、天皇本人以外が私的な願い事をすることが禁じられていたことです。
伊勢神宮は皇祖神が祀られている国家の宗廟であり、天下国家の安泰や皇室の弥栄をお祈りするべき場所とされていました。私的な願いは例え皇后や皇太子、皇族でも禁じられており、違反すれば重刑に処せられました。これはもちろん、祭主、大宮司、禰宜といった神職でも同じことで、最も身近に祭祀に関わるこれらの人々は、皮肉なことに、自分たちの願い事を伊勢神宮に祈ることはできなかったのです。必然的にこうした私的な願い事、特に来世への往生や子孫の繁栄などの願いは、伊勢神宮以外、つまり仏教へと向けられるようになりました。
このように、平安時代の半ばには、神仏隔離はあくまでも「神事における神仏の混交の禁止」に限定され、神職の「内心の自由」までには必ずしも徹底されていなかったのです。
しかし、ここが興味深いのですが、どうやら彼ら神職たちは、現代のように神と仏が別々の存在などとは考えてはいませんでした。仏教への信仰は伊勢神宮への信仰と表裏一体であると考えていたのです。それがわかるのが、蓮台寺など神職の氏寺で盛んだった観音菩薩信仰でした。

<天照大神は観音菩薩だった?>
お寺にはそれぞれ宗派があって、御本尊は釈迦如来であったり、薬師如来であったり、さまざまなのが普通です。ところがこれらの氏寺は観音(観世音)菩薩が本尊であることが多く見られました。これは、観音菩薩は日天子である、という神仏習合思想によるものでした。

日天子(ウィキペディアより)

神仏習合は、日本独特のもので他の国にはない、などと言う人が今もいますが、これは間違いです、仏教がインドで大乗仏教化する過程で、バラモン教やヒンズー教の神と習合し、さらにそれが中国で道教などとも習合して、それが日本にわたってきたのです。したがって6世紀に仏教が日本に伝来した時点で、梵天、帝釈天、四天王(持国天、広目天、増長天、多聞天)、十二神将、八部衆などのインドや中国の神々は仏教の中に組み込まれていました。
日天子も元々は古代インドの太陽の神であったものが、仏教と習合する過程で観音菩薩の化身と考えられるようになりました。これが密教の伝来と共に、日本にももたらされたのです。
日本で太陽の神とは,言うまでもなく天照大神です。このため、日天子=観音菩薩=天照大神の同体説は非常に理解しやすいもので、大中臣、荒木田、度会といった神職たちも、公的な伊勢神宮では天照大神(豊受大神)にお仕えするし神仏隔離を厳守する一方、私的な氏寺では観音菩薩を信仰し、時には自ら出家して仏門に入り、自分や一族の魂の救済と家門の繁栄を祈っていたのです。

<仏教聖地にもなった伊勢神宮>
このように「神様と仏様は同体であり、神様とは仏様が姿を変えたものに過ぎない」と捉える本地仏という考え方は、平安時代以降爆発的に普及し、天照大神の本地仏も、大日如来(毘盧遮那仏)、阿弥陀如来、薬師如来、不動明王、などさまざまに解釈されていくようになります。
そして、その次にやって来たのは、仏教徒による伊勢神宮の聖地化です。
自分たちの拝む御本尊が、日本では天照大神に姿を変えて伊勢神宮におられるのですから、平安時代末期から多くの著名な僧侶が伊勢神宮を参宮するようになりました。これによって、神仏隔離の原則はますます揺らいでいくことになったのです。


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