伊勢神宮・内宮のお寺 田宮寺へ
<田宮寺に行ってきた>
昨日は、三重県度会郡玉城町にある富向山田宮寺に行ってきました。正式な読み方は「ふうこうざん でんぐうじ」だそうですが、地元では「たみやじ」と呼ばれています。
真言宗の無本寺で、現在は住職がおられず、地元の皆さんが支えて運営されているお寺でもあります。8月9日は観音会式の縁日で、ご本尊の十一面観音立像2体が拝観できる貴重な機会なので、猛暑の中、お参りに行ってきました。
<神宮寺とは>
ところで、ここ田宮寺は伊勢神宮内宮の神宮寺として広く知られていた有名なお寺でした。
6世紀に日本に伝来した仏教は、歴代の天皇が厚く信仰したことで8世紀の奈良時代以降には全国に急速に普及しました。
平安時代になると、仏教の影響は伊勢神宮にも及ぶようになります。もちろん、伊勢神宮は神仏隔離が厳しく貫かれていたので、神事自体は古来の作法が厳守されました。その一方で、神事に従事している神職(禰宜)たちの間に、仏教への信仰が広まってきたのです。
伊勢神宮の高級神官である禰宜は、内宮は荒木田家、外宮は度会家の世襲でした。そこで、それぞれの一族で氏寺を建立したり、禰宜を隠居した後に出家して僧となる事例が続出するようになります。(伊勢神宮の禰宜の出家にはたびたび禁令が発せられていたほどです。)
ここ田宮寺も、内宮(皇大神宮)の世襲禰宜であった荒木田家の二門という家流にあって、祭祀実務のトップである一祢宜を務めた荒木田氏長が、長徳年間(10世紀の終わりごろで、まさしく紫式部が活躍した時代)に創建したものだそうです。
このように伊勢神宮にゆかりが深いお寺は、一般的に神宮寺と呼ばれ、神宮と特別な関係を有していました。
<御神体の入れ物が奉納された>
田宮寺が特別な神宮寺であったのは、内宮のご神体である八咫鏡(やたのかがみ)を祀る際の容器である、御船代(みふなしろ)が奉納されるお寺であったことでしょう。
御船代は式年遷宮のたびに新しく作り替えられ、ご神体はそこに遷るわけですが、遷ったあとの古御船代は、荒木田家二門の禰宜を通じて、氏寺である田宮寺に奉納されていたのです。
ご神体はすでにないとはいえ、それを入れていた容器なので、神聖であるには違いありません。古御船代のために「御船殿」が建立され、僧によって仏式で丁重にお祀りされていました。この古御船代そのものが、一種の霊的な宝物として信仰の対象になっていたはずです。
<十一面観音はアマテラスとトヨウケの姿?>
ご本尊である2体の十一面観音立像も、創建当初の平安時代初期に作成されたものと推定されています。共に高さが167センチもあり、ヒノキの一木造りです。大正4年に国宝に指定され、戦後の法改正で昭和25年に重要文化財となりました。保存状態は極めてよく、一部に残る彩色も確認できます。
この2体の十一面観音は、優美なお姿から夫婦観音と呼ばれることもあるそうです。しかし、伊勢神宮の内宮・外宮が陰陽道の影響にあるように、この2体も陽と陰、つまり天照大神と豊受大神の2神を示唆しているのではないでしょうか。
平安時代初期に、後に世では日本人の常識となる神仏習合がすでに始まっていたのかはわかりません。しかし、同じく平安時代初期に伊勢神宮祭主である大中臣家の氏寺として伊勢市内に建立された蓮台寺の本尊も観音像であることから、アマテラスやトヨウケの本地は十一面観音であることが神職たちの間では共通理解であったのかもしれません。
<田宮寺のその後>
田宮寺には時代による盛衰はあったものの、最盛期には本堂のほかに、大師堂(これは真言宗のためか)、不動堂、大日堂、聖天堂、御船殿など多くの塔頭が建ち並んでいました。室町時代中期の内宮の資料である「氏経引付」にもたびたび田宮寺は登場し、享徳元年(1452年)には田宮寺定使殺害事件、長緑2年(1458年)には田宮寺寺田の押領事件、同3年には田宮寺住持職の補任権をめぐる伊勢国守護北畠氏との紛争があったと記録されています。
しかし、江戸時代には寺勢は衰微していたようで、儒教の影響のためか古御船代の奉納も途絶えてしまいました。境内には本堂と東之坊などがわずかに残るのみとなり、明治維新を迎えると廃仏毀釈によってついに廃寺となりました。現在は地元の皆さんが維持管理を行っていることは先に書いた通りです。
しかしながら、1000年以上も昔に作られた十一面観音像が今に伝えられ、丁寧にお祀りされ続けているのは奇跡と言っていいのではないでしょうか。玉城町の地元の皆様に本当に感謝です。
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