犬がお伊勢参りに来た(伊勢神宮と犬 その3/了)
伊勢神宮は明治時代に国家神道化してから、それまでの伝統ではあったものの、やや呪術的とも思えるような禁忌は多くが廃止されました。ペットが家族の一員のように扱われる21世紀の今から見れば、伊勢神宮の犬に対する強い禁忌の伝統はやや理解しがたいほどです。
三重大学の塚本明先生による「近世伊勢神宮における動物の穢れと生類憐み」という論文を参考に読み解いてみたいと思います。
そもそも伊勢神宮で動物、特に犬を忌み嫌うのはなぜだったのでしょうか。昭和初期の「宇治山田市史資料」によれば
・・・お木曳前には宮中の犬狩といえることあり。当市は神宮ご所在の霊地なるにより、古来清浄を尚(とうと)び、触穢禁忌の法度の厳重なりしのみならず、六畜(馬、牛、羊、犬、豚、雉)の他の禽獣は宮川内に入るを禁じせしが、六畜の中にても犬は飼い主あるも、その監守甚だ困難にして、自由に四方に奔走し、随所に放尿脱糞し、動もすれば宮中をも汚すことあり。
とあって、オシッコやウンチが伊勢神宮の清浄を汚すことが理由に挙げられています。伊勢神宮にとって20年に一度の大イベントであり最重要の神事である「式年遷宮」に備えた「お木曳行事」で、市内に運び込まれる大量の木材を汚すようなことがあっては絶対にならないので、犬の駆除さえ行っていたのです。
ただ、塚本さんは、犬の糞尿は主な理由ではなく、別の文献にある「床下へ子産など致し候わば、不浄に候」のように、出産の穢れ(これも現代では想像できないことですが)や、「当地墓所山野に構え候ゆえ、墓所を掘出し死人の頭骨手足など咥え持ち来たり候わば、触穢になり申す儀・・・」とあるように、犬は死体の一部を伊勢神宮内に持ち込む可能性があり、これが伊勢神宮の清浄を汚すことが最大の理由だった、と説明されています。
ここでいう「触穢」とは、穢れに触れてしまうことで伊勢神宮への奉仕ができなくなることです。祭事を司る神官にとっては重大事ですし、この触穢観念は神官以外の宇治山田の住民も厳守が求められていたので、触穢が明ける期間中は、神事はもちろん外出もできず、生業も果たせない事態に陥りました。したがって、触穢は町ぐるみで予防しておく必要があったのです。
江戸時代には、式年遷宮のお木曳行事が近づくと、宇治山田の住民自治組織から山田奉行、つまり幕府に対して犬狩りの出願が行われ、町を挙げた犬狩りが実施されました。
ところが、ここで伊勢神宮と宇治山田の街に衝撃的な出来事が起こります。5代将軍の徳川綱吉が「生類憐みの令」を発布したのでした。貞享3年(1686年)、「神領中にて犬を殺すこと、打擲すること」を禁止する命令が使えられると、市中には大きな混乱が起こります。
放し飼いの犬をつなぎとめる(飼い主を特定する)、犬小屋を建設して野良犬を収容する、式年遷宮の神木が汚されぬよう囲う施設を作る、の3つの対策が直ちに取られました。犬を神木から遠ざけるために作られた「矢来」は、内宮一の鳥居の内側に20mから90mもの長さがありました。
そうした対策の一方、やはりこれが伝統だったからでしょうか、伊勢神宮から山田奉行に対しては、伊勢神宮の通常の神事や遷宮のために暗に犬狩りを継続したい旨の願書がたびたび出されています。幕府へ配慮してか、「形ばかりの犬狩り」であることや「今までのように犬を打ちたたく」やり方ではない、とも念を押しています。
一方、江戸から派遣されてくる山田奉行は「犬が不浄なら猫でも同じではないか」、「犬の糞尿が問題だとするなら、(空からする)鳥はどうするのか」といった尋問を次々行います。この時期、江戸では犬を殺した罪で死罪になった者さえ出ているのです。幕府の中枢から見れば、伊勢神宮のこの犬への認識はただただ緊張感を欠いたものに見えたことでしょう。
伊勢神宮側の奉行所への苦しい言い訳など、こうした押し問答の古文書が今に残っているのが面白いところです。
宝永6年(1709年)、将軍綱吉は死去し、生類憐みの令も順次撤回されていくことになりました。この年はちょうど式年遷宮の年でしたが、このときは犬狩りは実施されず板囲いでの犬対策が行われました。
しかしその20年後、享保14年(1729年)の式年遷宮では、山田奉行は犬狩りの復活を認めています。
そして、江戸時代終末まで式年遷宮の一環として犬狩りは、100年以上にわたって継続されました。江戸時代通算では、その回数は40回以上にも及びます。
明治5年(1872年)に明治政府が「宮川内御規則改正」によって触穢を全廃したことで、ようやく伊勢神宮の犬狩りも消滅したのでした。
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