2024/11/8 (ホモ・サピエンスの子ども)
子供が産まれた。
出産の一部始終に立ち会うことができた。
以下、立ち会った男性側の感想を残そうと思う。
立ち会った、というか、見守っていたというか。正直、本格的な陣痛が始まったあとは、なかなかできることがなかった。
基本的に呼吸のタイミングやいきみ方は助産師さんが率先して指示してくれる。
(人によって、声を出していい出さないほうがいい、とか、どっちの体勢が生まれやすいとかの流儀が違うのが若干気になりはしたけど、何もかもが初めての初産婦は従った方が吉だ。)
最初の方は、背中をさすろうとしていたが、あまりの痛みでさすられると逆に気が散るようで早々にやめた(たしかにふくらはぎが腓返りを起こしているときにさすられても痛いだけだ)、手を握ろうにも分娩台のレバーを掴んでいた方がはるかに力が入ると思われるので躊躇した。助産師さんは「上手だね」とか「あとちょっと」とかしきりにポジティブ声をかけてくれるが、自分にはそもそも上手い下手の区別もお産の進行度合いも把握できないので、ただがんばれ、と囁くしかなかった。
(そのがんばれ、もこれ以上どう頑張ればいいのかというくらいがんばっているので、あんまり声に出す気にもならなかった。)
そんなこんなで、ただ順調にことが進んでくれるのを願いながら眺めている時間がしばらくあった。
最終的に落ち着いたのは、右手はいきむタイミングで頭の枕を押し上げるのを手伝い、左手は足が閉じないように軽く支え、それ以外は汗を拭いたりあおいだりというような仕事だった。
お産の時に感じていた感情はとても複雑だった。
代われるなら代わってあげたいという気持ち、そしてそんなことを考え出すくらい感情移入するのもよくない、というジレンマがあった。
あの凄まじい痛がり方を見ると、よくもまあ社会が今までこれを当然のものとして受け入れてきたなと感心する。
思春期に、「男性器を女性器に挿入する」、という生殖のカラクリのあまりのヘンテコさに唖然としたのに少し近い。
女性に負担が寄り過ぎている。
よくもまあ助産師の人たちも、横で突っ立っている男に反感を感じないと思う。逆の立場だったら、嫌味のひとつを言いたくなるかもしれない。
この差は、簡単には埋まらない。あとで交渉材料として持ち出そうと思えばいくらでも持ち出せるくらいの差分なのだと思う。助産師の人に、育休を2ヶ月とる、というと少し感心されることが多い。単に日本社会で男性育休が進んでいないことも大きいが、もしかすると、「旦那さんは仕事で忙しい」という理解の方が、女性側の負担を多く見ている人たちにとっては受け入れやすい理解なのかもしれない(これで女性の方が働いていたりしたら不公平だから。)
そのくらい、壮絶で、一方的だった。
産後の縫合の処置も目にしたが、まるで交通事故で運ばれてきたのかと思うような様子だった。
普段自分が親密さをもって言葉を交わしている妻は、実はそれを感じさせないくらい非常に精巧な肉の塊であることを静かに実感した。
そして、むしろこの事実は隠された方がいいのではないか、とすら思った。
「無痛分娩」といった触れ込みで少しでも出産のハードルを下げなければ、今の「周りが産んでない」「ネットで先回りできる」社会で、この経験を通る意識がなかなか働かないようにすら思う。
と、いろいろと感じたところを書いたけれど、そんな懸念はもうどうでもよくなってしまうくらい、生まれてきた子どもが、本当に可愛い。
出てきた瞬間は、正直言うと、「は?」となった。見たことない生き物がいきなり現れるから。
しばらく、秤にかけられたり身長を測られたりするのを、遠目から見守っていた。
けれど顔を見ると自分に似ている気がするし、妻にも似ている気がするし、一生懸命に泣くし、怪訝そうにみんなの動きを観察して、なされるがままになっている。
手を握ってくると、守らなきゃいけない。という気持ちになる。
自分自身の人生の重要性は絶対的には落ちていないが、この子の命に比べれば相対的には下がらざるを得ない、というくらい、愛着の気持ちが湧く。
自分が守るものはその2つくらいだ。
妻は、出産後に、「産んでるときに乱暴な言い方をしてたらごめんね」と謝ってきた。
いつだって、僕の優しさをかたちづくっているのは妻なのだ。
妻のような人間だから、優しくなれているのだ。
分娩の中盤で、実は自分は少し活躍した。
あぐらで座った方が楽ということで、妻の寄り掛かる頭を肩に抱き、腕をレバー代わりに力いっぱい握らせた。
そのとき僕はただの肉になった気分だった。彼女の好きなようにさせ、握るには程よく柔らかく、支えるには程よく硬い、分娩補助の肉になっていた。
そのとき、今彼女が行なっていることの尊さに触れ、涙が出た。
P.S.
僕がこの文章を書いた意図を残しておく。
まず言いたいのは、より多くの人に、この何物にも代え難い感情を経験してほしいと思う。
数日経って、妻と一緒に育児をするなかで、静かな波のように押し寄せる幸福がある。
けれども同時に、自分と妻の片方でも欠けたら、途端に大きな負荷になってしまうであろう危うさも感じている。
昼夜問わない3時間おきの授乳、突然始まる夜泣き、自分の両手にわずかに沈み込む命の重さ。これらは、ひとりきりで請け負うには、やや大きすぎるように思う。認知は簡単に変わる。同じオムツ替えも、ふたりでは笑いの種だが、ひとりでは孤独な作業になりうる。
ホモ・サピエンスは頭脳が発達しすぎた。メスの産道を、会陰を、裂いて生まれてくる。そして、か弱い。
ホモ・サピエンスのオスは、メスと子の非常時に、極力リソースを確保しておく必要がある。
この教訓を覚えていなければならない。
ーーー人間は、21世紀も、動物である!
有り難いことに、人類はどんどん痛みに慣れなくなった。人が死ぬことも、痛みを感じることも、理不尽に苛まれることも、そのインパクトと確率が減った社会に生きている。
けれど、それでもいつかは痛みは間違いなく来る。
振動する波のように、プラスの値があればマイナスの値も取る。
幸か不幸か、僕たちは、その振幅を限りなく小さくする選択肢を与えられている。痛みの少ない穏やかな生。
けれど、それは同時に、圧倒的な快も放棄することを意味するのではないか。
どちらが我々が望むものなのか。
そのことについて、最近よく考えている。