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掃き溜め(2024.4)

祝詞的な何かになって欲しいと思いこの記事をば。

いよいよ年度も明け、授業期間が再びやってきた。

終ぞ春休み期間は研究は全くと言っていいほど進まなかった。

こればかりは言ってもしょうがない。ぶっちゃけそれまでの10ヶ月、慣れない環境で難しいゼミについて行ったり、研究案を考え続けて申請書なども書いたりした。どこかしらで焦って生活していた。今思えばそんな気がしている。
きっと休みが必要だったのであろう。むしろ就活も始めた中で学会行ったり研究のこと考えてるだけ、拍手もの。
(というかそう思わないとまた1ヶ月くらいメンタルが焼け死ぬ。)

ただ、改めて先生・先輩方のアドバイスを基にして研究テーマを考え直したことで、何故自分がこんな分野に手を出したのか、とかそこいらの原点みたいなものを思い出すきっかけになったりなど、色々見過ごしていたことに目を向けられた。

結論から言うと、やはり自分は人が好きなのだと思い直した。だからこそ文化や営み、それが失われかねないことに必要以上に喪失感を感じる。それ故の研究・勉強なのであろう。

そしてそれは、何も研究に限ったことではない。

人生哲学を中心に今までの生活の中で色々な人が言っていたこともまた思い返すようになった。改めて自分自身の身の回りにその時々で関わった人たちは、皆素晴らしい人であり、それと同時に変な人たちであることも思い出した。彼らに比べれば私の個性は平々凡々そのものである。ただ、そうした人たちと短いながらも時間を過ごせたこと、なるほど、私の人好きな点はこういうところもまた要因になっているのであろう。そんな風に思えた。

直近で言うと、私の中では特に次の三人とのやりとりがとても頭に残っている。

Aさんが「やりたいことをやるためにやらないといけないことをやる」とあっけらかんと言っていたこと。

Bさんが「自信がないのなら自信がつくように頑張るだけ」と何気なく言っていたこと。

Cさんに「あんまり思いつめなさんな」と励まされたこと。

聞いた当時は、それが出来ていない自分にとてつもない劣等感を感じたりしていたのだが、今ではこの三人に対して「そうですな」と安い日本酒片手に笑いながら返せる、そんな気がしている。

このほか色々な人の言葉を思い出したりもしたが、そのどれもに対して今になってようやくちょっとだけ笑いながら受け止められるようになってきた気がする。この点だけ見ると私は人より成長するのに時間がかかるタイプなのかもしれない。まあ、小さいころに子供として振舞えてなかったんだししょうがないしょうがない、てへぺろ。私は自分に甘いし都合がいいようにふるまうだけである。

私の友人先輩後輩師匠ほど私はメンタルが強くはないし、彼らの素敵な部分は相変わらず眩しい限りである。私はどうも思い込みが激しい性分であるが故、その眩しさに目を奪われすぎて目を灼いてしまうときがある。おそらく今後も私は必要以上に太陽を見すぎてしまう時が来るだろう。ただ、そういう人たちと同期や友人であれた、という時点で多分私も捨てたものではないのかもしれない。きっと。ロマンチックな言い回しはあまり好きではないが、私は月のような人間だからこそ、太陽のような友人諸氏をどこかしらで常に見ているようなことをしてしまうのだろう。我ながら言い回しである。それがいいのか悪いのか、今の私には判断がつかないので判断する行為を放棄させてもらう。

それにかつての呪詛に込めた思い自体が完全に無くなったわけではない。
相変わらず社会の大半は面倒くさいと思うし、勝手に産んどいて「父としての負担に耐えられない」と言って家を出て行った元父に対しては今でも会ったら一発殴っても許されると思っているし、今でも雑用がまず自分のところに流れてくるのに対して苛立ちを感じるときもある。新入生の歓迎会の飲み会も多分私が予約とることになるだろうし。就活もはっきり言って面倒なことこの上ないし。
そういう部分での暴走はこれからも起きてくるだろう。
今だって偶々何個かの企業で書類選考通ったり、新年度始まったりと気分が上向いているからそう思えてるだけであって、多分余裕がなくなってきたら、またこんなことを考え出す。そういうものなのである。そういう時に彼らの言葉をまた思い出せるか、そんなものなのであろう。

ただ、せめて次、友人や先輩後輩師匠に色々なところで出会った際に彼らに臆することなく交流がしたい、そういった考えが改めて強くなってきた。
そして、私が未熟だった時に、色々振り回してしまい迷惑をかけた点について改めて謝罪したく思う。たとえ彼らがそれを気にしていないのなら別にそれはそれで良い。謝罪してそういうこと言われたら頑張ってそれっきりにする。一方で、この遠回りで被害を被らせたことについてこう見えて私は物凄く気にしているのである。私が臆することなく友人を「友人」として捉えきるため、そんなことに執心する。表立って許せとは言いたくないし、言ったところで知らねえよという話でもあると思うので言う必要もないでしょ。

恐らく今まで会ってきた人で、生きている間に再会できる人数はそう多くはないであろう。現に、小学生のころ世話になった剣道の師範など私と最初に出会った時点で最早おじいちゃんと言って差し支えなかった人たちについては最近になって次々と訃報が耳に舞い込んでくる。死んでほしくない人間はさっさと死ぬのである。それならそれで、三途の川で待っててください、という懇願をば。皆様と違って私は地獄行きが決まっているので、極楽行く前に三途の川で話聞かせてくれると嬉しい限りです。

突発的で申し訳ないが、先日「夜もすがら君想ふ (10th Anniv.) feat.GUMI SV / TOKOTOKO(西沢さんP)」として、「夜もすがら君想ふ」の10年記念盤が公開された。
西沢さんP氏の作品は、割と人類賛歌みたいな曲が多く、その点でいえばこれもまたそうした内容であると、個人的にとらえている。
この歌の歌詞「時代柄暗い未来が待ち受けど、愛を謳う」というフレーズがまたいいものなのである。
こういうのも多分どこかしらで私の目を覚まさしてくれるのだろう。

新年度、皆無理せずに


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