大学院入って3か月過ぎたので振り返る

〇要約するとこんな感じ

大学院に進学して3ヵ月たったので改めて振り返ってみることにする。
振りかえってみると大体次の数点に要約される

・英語を「使える前提」にしないとゼミを乗り切れない
・大学院で所属先を変えて、色々なことに気を張りすぎて疲れた反動からか途中からちょっと自分を雑にしすぎた。
・相変わらず自分は知らないことが多い
・相変わらず自分の方向性は定まってない

一個一個それなりに書いたうえで、今後の予定についてまた考える

〇英語

ありがたいことに、2つの研究室のゼミに参加させてもらって、諸先輩の発表を聞いたり、また自分自身大体月に1回くらいのペースで、15人くらいの人の前で発表する機会を頂けている。
とは言ってもまだまだ研究に対しても知識も未熟故、質疑応答の際に分からないことを聞かれた際は分からないと言わざるを得ない。そこで、せめて「発表を聞いた人はどこが気になって、そうした部分に対して何を説明できるようになっていればいいのか」という部分を、意識して掴もうとしている現状である。
ここで英語(というか母語じゃない言語でのやり取り全般)の難しさ(もっと言ってしまうと慣れてない部分?)が絡んでくる。私の参加させてもらっているゼミでは、資料も発表も英語でやるのが標準であるため、「発表を聞いた人はどこが気になって、そうした部分に対して何を説明できるようになっていればいいのか」というポイントをつかみ切れず、質問に答えれてない回答を平然と繰り出したり、ゼミが終わった後で日本語で改めて質問の内容を確認して、改めて回答する、なんてことをしているのが現状となってしまっている。
改めて確認する、という点である種、自分のやり方はいい方法なのかもしれないが、やはり英語に対してまだまだ慣れが足りてないと感じるばかりである。
発表そのものは、2回か3回やれば大体流れも頭の中に入るので本当に質疑応答との落差を感じるばかり

対策というか現状浮かぶのが
・予め質問を想定して回答を考えておく
・そもそも発表の段階で質問の釣り針を作ってしまう
というくらいだ

〇自己管理

特に1月半経ったあたりから、管理能力の低さが露呈した。
具体的には、

・生活リズムが崩れて朝起きれなくなった
・精神的に落ちる考え方をしつづけてメンタル落ち込みまくったせいで、論文読んでる合間に流した松岡修造さんの動画で号泣する
・食欲の無さを言い訳にして食べなかったりするせいで、夏バテ気味になった

原因という原因として断定できるものはまあ色々あるんだが、結局周りの人と自分を比べて無力感を感じ続けたのが根本なところに尽きる。
現状でできてないことも多いし、確かに研究に対して自分があまりマメな人間でないのもあるのもある
だがよくよく考えれば、そんなんしょうがねえだろ、というのになってしまうのもある

院進してから新しく研究テーマを探している現状、馴染みのない分野に顔を突っ込むことになるんだし、出来てない現状も仕方ない

とは言いつつ、3ヵ月たっているのも事実である。いつまでもこれに胡坐をかいているわけにもいかないのもまた事実なのである。

そこで持つべき考えとして
正しい方向に努力すれば多分道は見えてくる
というのが浮かんだ。
そう思い込むことで自分を奮い立たせるのが、所謂「強い人」なのだろうな

…うん、これ私が持ち続けるのは無理な考え方だな
悲しいことに私は自分一人でモチベを保ち続けることが出来ない。
これをどうやって他人を巻き込んで行くことで実現できるか

永遠の課題なのかもしれない…

〇無知の知

余りにも一人の人生で処理しきるには、この世界は広すぎる
経済学の分野一つとっても、知らないことが多くて、何を知る必要があるので何を勉強するのかの取捨選択が難しい

掘れば掘るほど知らない知識の必要性を痛感させられてしまう。

必要だと思ったタイミングで勉強するスタイルでやってきているが、果たしてこれでいいのやら。

〇方向性

生来の性質もあるのだが、困った事に私は決断するのが苦手である。
なぜなら私にとって、あらゆる選択肢というものは「良い面もあるし、悪い面もある。そもそも、良い悪いの軸で測れるものではない」であるからだ。
つまり、私にとってあらゆる選択肢は「等しく捨てがたい」ものなのである。
そうはいっても折り合いをつけて捨てないと生活できないのが、この社会というもの。
ひとまず今は、「これだ」と思えるものはないので、できることを増やしていって少しずつ、「次、これいけそうだな」と思えることを増やそうと思う。
私は、おそらく決断ができるタイプではない。
だからこそ、捨てていった選択肢の素晴らしさを抱え込み、引きずって生きていく他ないのだろう、とさえも思える。
私が今まで、出会ったきた人、関わってきたこと、それぞれが私にとって「かけがえのないすばらしきこと」であり、それを捨てるのではなく、掬いきれなかった、と表現する方が当てはまるのである。
何もかもにも甘くなってしまうという点で私はおそらく突出した何かが出来る事はないだろうけれど、それでも私はその感覚を大事にしてしまうのだろう。

このスタンスだからこそ、親しくなれた友人もいるし、そうした友人の別れがとてつもなく寂しくなる、という点だけはいただけないが。

○終わりに

23年も生きて漸く掴めた気がするけれど、まあええか。
書くのも疲れた

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