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アートに”障がいがある”を付加する価値は?
こんばんは。
各地で、大雨の被害が続いております。
皆さま、何をおいても命を守る行動を。
今回は、アートについて、日々思うことの中から。
今、「エイブル・アート」などの呼称で、障がいのある人が制作した平面作品や立体作品が注目を集めています。
作品はときにスマートフォンのカバーやタペストリーなど生活必需品として商品化され、一般にも浸透するようになりました。
私の周囲にも芸術活動を推奨する福祉施設がいくつかあり、彼らの作品に触れる機会が多くあります。
そんなとき、私はいつもこう感じています。
彼らは紛れもなくーティストであり、障がいの有る無しはもはや付加する必要のないことだ、と。
このテーマについて深く考えるようになったのは、数年前のことです。
私は美術の専門家ではありませんが、仕事柄、自分の住む地域のアーティスト(音楽家や演劇家や美術家など、アートに関わるさまざまな人たち)の話を聞いたり、活動を見たりする機会を得ていました。
幸いなことにその人たちの多くは、障がいのある人たち(あえてこの言い方をしますが)について、「『障がい』は、『個性』。彼らの個性を最大限に生かして作品を作り上げたい」、という思いから活動している人たちでした。
その人たちを通して、私は「アーティスト」たちに会い、彼らの作品に触れ、考えや思いに触れ、アートにかける「熱」を感じてきました。
ある時、先天性の脊椎側彎症、二分脊椎症で、義足の俳優・ダンサーとしても活動している森田かずよさんのワークショップに参加する機会がありました。
森田さんは、劇団で俳優としても活動している脳性まひの女の子が長年憧れ続けた人で、その女の子が公的施設の事業担当者に企画書を持ち込み、何度も足を運んだ熱意が伝わって実現したものでした。
当日集まったのは脳性まひの人や聴覚障がいの人、福祉施設の介護者、演劇人などを中心に15人ほど。
森田さんのアドバイスのもと、パントマイムで伝言ゲームをしたり、輪になってボールを投げ合ったりと、体全体を使って「動く」ことを楽しみました。
森田さんの情熱あふれる指導も素晴らしかったのですが、中でも印象に残ったのは、指一本だけを触れ合わせて、相手を意思通りに動かしていくゲームでした。
普段は言葉を発することができない人が、指一本で伝えてくる喜怒哀楽、その躍動感。
「生きている」ということを全身で感じる体験でした。
そのときに、この世に生きている人の間には何一つ境界線はない。アートもまたしかり。
そう感じ始めたのです。
私は「健常」という言葉が好きではありませんが、今回はあえて使います。
アートの世界に「健常」や「障がい」という区別は、もはや付加する価値がまったくない。
そもそも、そういったフィルターは存在すべきではなかったのですが。
そう考え始めて以降、美術的なことで言えば、たとえば色彩感覚、空間認知の力、造形の発想。「なるほど、こんな視点があったのか」とその鋭敏な感覚に舌を巻きます。
演劇的なことで言えば、ふと見やる視線の先に延びる感情、何もない空間に意図をもって特定の背景を出現させる繊細なパントマイム。彼らが全身のあらゆるセンサーを使って、日常のこまごまとした変化を捉えているのがよく分かります。
音楽の世界でも、奏でる音になんら違いはないことは、皆さんもきっとご存じですね。
彼らのアートは、いわゆる「アール・ブリュット」や「アウトサイダー・アート」など、西洋芸術の正統なる修練を積んでいない人が生み出すアートの一つとして捉えられていますが、近年この分野の作品が、正当な評価を得て世界中で発表されています。
日本でも、彼らのアート展示に積極的に取り組み、まだ光の当たっていないアーティストの発掘とその地位向上に力を入れている人たちもいます。
イベント等の自粛がまだまだ続いていますが、状況が落ち着き、皆さんの周りでアートイベントが開かれていたら、ぜひその場に足を踏み入れてみてください。
フィルターを外して作品を観たときに、何を感じるのか。心と心の対話が、きっとそこにはあるはずです。
今後、このnoteでは、私の身近にいるアーティストたちの活動状況やインタビューなども、ソーシャル・ディスタンスを保ちながらご紹介していきたいと思います。