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実験寺院 寳幢寺

TO-JIBAひろみさんに教えていただいた、寳幢寺に伺いました。

京都市上京区の京都御所の近くにある、真言律宗のお寺です。

立看板がなければ、お寺ということは分からなかったもしれません。

お電話もせずに伺ったので、入っていいものか迷いましたが、インターホンでお話すると、女性の方が快く招き入れてくださいました。

生憎、何処か大きな会社の方が何人も来られていて、僧院長の松波龍源さんには、お会いできませんでしたが、お寺について、在家信者さんの女性から、お話をお伺いしました。

元々は西陣織の会社の社屋として建てられたビルを借りて、5年前から始められたそうです。

現代において仏教が目ざす役割を追求しておられるお寺です。

仏教を現代の人が生きていく上であたりまえに使えるツールとして、一人ひとりが実装することを助けてくださるお寺だそうです。

だから、普通お寺がするお葬式とか、法要とか、行事のようなものはしておられません。

調べてみても、これこれの催しをしますというのは、出てきません。

瞑想をしたい方が来られると教えて下さったり、悩みのある方のお話を聞いてくださったり、元気のない方に食事を無料で提供したり、武道を教えて下さったり。

普通お寺は宗教法人ですが、このお寺は、一般社団法人で、檀家さんも、お墓もないので、運営は、寄付によるものだそうです。

本堂をご案内いただきました。

元は、機織り機の置かれていた工場なので、天井も高く、広いお部屋でした。
僧院長様が、武道の達人なので、甲冑や、武具も置かれてありました。

須弥壇の向こうには、お釈迦様、弘法大師様、不動明王の御像と伴に、神仏習合のお寺なので左側には神道の祭壇、右側にはチベット仏教の神様が、祀られていました。

お坊様は、僧院長様と、もうお二方。そのうちお一人は、チベット仏教のお坊様だそうです。

このようなお寺の形は、ミャンマーでは、結構当たり前な感じなのだそうです。

お寺といった特別な建物ではなく、お寺の看板だけ出して、困った人や、苦しんでいる人など、助けを必要としている人が、誰でも気軽に来れるようにしておき、そこに、お坊さんがいれば、そこをお寺と呼ぶんだそうです。

お墓を作るとか、お葬式とかは、儒教の影響で中国から入ったもので、ミャンマーにはお墓はないそうです。

僧院長様が、大学でミャンマー語を学ばれた方で、そちらで修行もされているので、こういった形を日本でも、実験的になさってるそうです。

私は、ずっと以前から、お寺が、悩んでる人や、苦しんでいる人の駆け込める場所であればいのになぁと、思っていました。

お葬式や、ご法事や、お墓の管理をしたり、きれいなお庭や、仏像や、建物を拝観者に見せてくださるのも、大切なことかと思いますが、お釈迦様が目指したものとは、大きく隔たってしまっているのは事実です。(もちろん、困っている人のために、様々な活動をされておられるお寺もあることは、知っています)

しかし、こんなお寺が当たり前になれば、メンタルクリニックに行かなくても良い方もいるでしょうし、薬だけに頼ることもなくなるのではないでしょうか。

実際、私も精神的に苦しくなると、知り合いのお寺に駆け込み、お話を聞いていただいたりしていますが、

カウンセリングなどというものも、高額で予約を取って何日も待つものではなくなり、もっとハードルの低いものになるのではないかと思います。

必要なものは、現れる。
不要なものは、無くなる。

そんなことを思いました。