何故、支援学校の教師になったのか?
支援学校で28年間教師をしていました。とてもいい仕事をさせてもらえたなと思っています。
その間のことは、いくつかは記事にしましたが、私なんかの過去のことを書いても、読まれる方も退屈で、得るものも無かろうと思い、あまり書きませんでした。
しかし、この度、ある方から、書いてと言われましたので、突然ですが書かせていただくことにしました。
何故、支援学校の教師になったかというより、最初は、小学校の教師になるつもりでした。
大学を出て製薬会社の営業職になって5年目のある日、小学校の脇とは知らずに、木陰で車を止めて休憩していると、「キンコ〜ン カンコ〜ン 」とチャイムが鳴り、続いて
「うわぁーん」
という子どもたちの声の塊が、聞こえてきました。
何故かとてもそれが耳に心地よく、
その声の塊を聞いているうち、ふと、「教師になるのもええなぁ」と思いました。
おそらく、小学校の教員の仕事は、当時の妻が以前やっていた仕事で、よく話を聞いていて興味があったこと、
また、給料はとてもいいけど、人のためになってる実感のない、今の製薬会社の仕事を続けて年を取ったとき、お金以外、何が残るんやろかと思っていたことが、そんなふうに思った原因だと思います。
その後、辞表を書き、会社をやめましたが、教員免許が無かったので、3年かけて、通信教育で教員免許を取りました。
しかし、教員免許がとれる頃には、教師になる熱が、冷めていました。
アルバイト先のうどん屋さんの出前の仕事が性に合っていて、楽しかったのです。
でもそんなとき、ある出来事が起こりました。
教員免許が取れた1ヶ月後、お店の車で配達中、バイクと接触事故を起こしてしまい、運転免許が停止になってしまったのです。
このままでは仕事が続けられないと、思っていたとき、女房のもとへ一本の電話がかかってきました。「支援学校で講師を探しているがしてみないか」ということでした。
女房は、当時仕事がありましたので、ダンナでも良ければということになり、私が面接に行くことになりました。
とれたての教員免許を持って、面接に行くと、髪を背中の真ん中まで伸ばした私に、支援学校の年配の先生は、にこやかに対応してくださり、働くことが決まりました。
でも、初めは、支援学校なんて聞いたこともないし、第一、目指していたのは小学校の教師で支援学校じゃない、と思っていました。
仕事は、楽しかったのですが、講師という不安定な身分も嫌で、毎年、小学校教員採用試験を受け続けていましたが、いつも惜しいところで、不合格になっていました。
そんなとき、また、大きな出来事があり、私の第一志望は支援学校になりました。
当時担任していた、小学5年生のN君が自宅で発作を起こし、突然亡くなったのでした。
N君は、気管切開をしていて、重度の障がいはありましたが、表情が豊かで、とびきり素敵な笑顔を見せてくれる男の子でした。
私は、N君が大好きでしたし、N君を支えるご家族を
大変尊敬していました。
肢体不自由の支援学校でしたので、そのN君を私は、ほぼマンツーマンで担当していました。
日曜日、学年主任の先生から自宅に、連絡があり、N君がなくなったことを知りました。
その日は、ちょうど私の誕生日でした。
悲しいというより「なんで」という思いと、「神様、N君をこんなに早く連れて行かないでください」という思いでした。
お葬式がすみ、遺影に手を合わせていたとき、写真の向こうのN君に「せんせい、ぼくの後輩のこと、たのむよ」と言われた気がしました。
大バカな私は、N君に教えてもらい、その時やっと、自分の進むべき道が小学校ではなく、支援学校の教師だったのだと、気付くことができたのです。
その翌年、同じ学年に、他校から大変賢い先生が赴任してこられ、教員採用試験の勉強の仕方を一から教えてもらい、支援学校教員枠で、教員採用試験に合格することができました。
これが、私が支援学校の教師になった、理由と経緯です。
思い返すと、何かその時々に、必要なことが起こり、助けてくれる人が現れ、導かれるままに、支援学校の教師になっていたような気がしています。
長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。