禅の公案の答え(20)
死後
仏教では悟りの境地に「有余涅槃」という段階と「無余涅槃」という状態を定めています。
有余涅槃というのは悟りを開いてもまだ肉体が残っている段階のことで、この状態では禅定に入れば確かに「全ておかげさま」心は全肯定の世界に入るものの、肉体的には蚊に刺されればかゆいし、棒で叩かれれば痛いという「余りの有る」悟りです。対して無余涅槃とは肉体までも滅した悟りの状態で、有余涅槃の者が死んで灰になった後の状態を指します。これであれば蚊も刺せないし棒でも叩けません。従って心が乱れることはありません。
こう書くと、死んだ後も一貫して心はあるのか、という問題が出て来ます。
円覚寺の二代前の管長、朝比奈宗源老師は「死んでも死なぬ生き通しの仏心」という表現で心のありようをあらわされました。一方で禅宗では通常死後のことを「無記」わからないので語らぬものともされています。伝統仏教の言っていることが正しいのか朝比奈宗源老師の申されていることを正しいとみるのかは、結局、その人がどう信じるか次第だと言えます。もっと別の考え方をすれば、浄土宗、浄土真宗などの念仏宗では、死後人間は永遠の極楽浄土へ往生することになっています。仏教というのはそれだけが正しい、というのはなくて、その人の機根に応じて、様々な指導者や、念仏、坐禅などの行の実践などにより自分自身の中に信じる答えを見つけ出すしかないものなのです。