坐らなきゃ
ここ数日思うのは、坐禅は坐らなきゃ何もわからないということです。
頭で考えると、その考えたログを投稿出来るので、利他という意味では良いのですが、やはり本当のところは言葉ではありません。
坐禅というのは、両足組んで腕組んで、正しく呼吸をしていくうちに自然と悟りの世界へ自分を運んでくれる便利な乗り物です。
乗り物は、乗らなければ目的地へは到着させてくれないのです。
その乗り物の楽しさやカッコよさを熱弁して、なんとか興味を持ってもらうということが布教であり法施です。
このようなことは法華経にも説かれています。
我々は煩悩という炎で火事になっている家で、それに気づかず遊んでいる子どもだというのです。
その子どもを救うために、それぞれが興味を持ちそうな車を仏様が用意する、という話があります。