盟友3人による「私の近藤誠論」養老孟司・和田秀樹・上野千鶴子
2022年8月13日、がん、健診、ワクチン、そして新型コロナに至るまで、多岐にわたるジャンルにおいて、真の医療のあり方、そしてその問題点を問い続けた医師、近藤誠先生が、虚血性心不全でこの世を去りました。
それから1年——。
近藤先生が追求し続けた「患者のための医療」の本質とは何だったのか。日本の医療界の見過ごせない罪とは何なのか。そうしたことを改めて見つめ直すべく、本書を刊行しました。
この本の特徴はふたつ。ひとつは自らの生い立ちから、医療への疑問の出発点となった大学病院時代、そしてがん治療を含む「患者第一の医療」をめぐる闘いの日々を語った、幻の近藤先生取材原稿で構成された第1~3章。
そして、もうひとつは、近藤先生の考えに強く共鳴する3人の盟友、解剖学者の養老孟司先生、精神科医の和田秀樹先生、そして社会学者の上野千鶴子先生による、追悼論考「私の近藤誠論」です。
近藤先生は医療界、論壇において孤立無援のように見えましたが、決してそんなことはありませんでした。当初は近藤先生の考え方に共感を寄せていたにもかかわらず、自らの地位が上がるや、いつの間にか真逆の立場に転じた人もいたと、近藤先生は本書で語っています。その一方で、「私の近藤誠論」を寄せていただいた3人の先生方をはじめ、自らも批判の対象になるかもしれないリスクを負いながら、なお近藤先生の考えを支持し続けた人たちもいたのです。
そこで、このnoteでは、上記の3人の先生による「私の近藤誠論」の一部を紹介していきましょう。
そのうえで本書全体をお読みいただければ、いわゆる「近藤理論」の何が優れていたのか、人間近藤誠のどこが唯一無二だったのか、きっとおわかりになられるとともに、真の医療のあり方について、今一度、考え直すきっかけになるはずです。是非ご味読ください。
「私の近藤誠論」①和田秀樹
「近藤理論」と医療界の不都合な真実
最期まで貫き続けた自分らしさ
尊敬する近藤誠先生が亡くなりました。電車のなかで気分が悪くなり、タクシーに乗り換えたときには心肺停止だったそうです。まさに突然死で、死因は虚血性心不全と聞きました。
私は、近藤先生との共著を準備中だったこともあり、編集者から訃報を伝えられた際、あまりのショックで言葉が出ませんでした。
近藤先生の業績は、膨大な文献を読み、エビデンスに基づいた医学提言を続けたこと、がんの乳房温存療法を日本に伝え、独自の理論で切りすぎ、化学療法の使いすぎというがんの標準治療に一石を投じたことです。
多くの人は、がんを早期発見して切除すれば、転移を防げると考えています。この世間の常識に、真っ向から異を唱えました。
がんには、転移するがんと転移しないがん「がんもどき」の2種類がある。転移するがんは、早期発見で見つかっても、最初のがん細胞が見つかるほどの大きさになるまでに、ほかのさまざまな臓器に転移しているので手遅れ。一方、転移しない「がんもどき」は、放置しても大丈夫という、「近藤理論」と呼ばれる「がん放置療法」を確立しました。
私とは、『やってはいけない健康診断』(SB新書、2018年)、『コロナのウソとワクチンの真実』(ビジネス社、2021年)という2冊の共著を出しています。
これらの本や雑誌の対談などで、近藤先生と私は、がん検診などの健康診断が無効であるどころか、かえって命を縮める結果につながっていること、正常値や基準値への「信仰」がクスリ漬けの過剰な医療介入を生んでいることなど、さまざまな日本の医療界の不都合な真実を語り合ってきました。
近藤先生はマニアックなぐらい、世界中の論文やデータを読み漁っていました。「データ偏重主義だ」と言われることもありましたが、学問的真実を絶対に譲らず、妥協をしなかった人でした。立派な人だったと思います。人間はウソをつくけれども、正しい手順を踏んだデータはウソをつきません。
近藤先生は、臨床が業績にならない現状や、さまざまな大学病院の問題点も訴えました。いまでも「近藤理論」は、医学界で”キワモノ”のように扱われていますが、 海外の一流医学誌のデータにきちんと基づいて主張しているわけですから、遠巻きに批判し続けた医者たちは、近藤先生ともっと学問的な議論をすべきだったでしょう。
また長年、慶應大学病院に勤務され、慶應大学では、定年まで講師の肩書のままでした。そのことも、権威におもねらない近藤先生らしい矜持の表れだと思います。
大学病院で教授の肩書を誇示し、「患者に多少のウソをついても、教授の言うことは、みんな信じるから大丈夫」などと過信している傲慢な医者とは、真逆な人でした。
ただし、実は近藤先生と私の意見が違う点がひとつだけありました。健康診断のうち、私は心臓ドックだけは役に立つと思っているのに対し、近藤先生はそれさえも必要ないと言っていたのです。
そうした近藤先生ご自身が心不全で亡くなってしまった。心臓ドックを受けて冠動脈狭窄が起きていないかチェックしていたら、もしかすると病気を防げたかもしれません。
しかし、日頃、健康診断はムダだと言っていたお方です。予防的に手術でステントを入れたり、血液をサラサラにするクスリを飲むとはとても思えない。仮に冠動脈の狭窄がわかっていたとしても、「天命だよ」と言われたような気がします。
近藤先生の遺作となったのは、『どうせ死ぬなら自宅がいい』(エクスナレッジ、2022年)というタイトルの本でした。「在宅死ではなかったのは皮肉だ」と思われるかもしれませんが、それでも苦しまずに自然に亡くなったのは、まさしく近藤先生らしいき方でした。
長生きしたければ病院に近づくな
私が初めて近藤誠先生とお会いしたのは、いまから20年ほど前、月刊『文藝春秋』2002年10月号の対談でした。「医者のからくり」と銘打った特別企画で、私が選んだ名医の先生方のトップバッターとして登場していただいたのです。
当時、近藤先生は、『成人病の真実』(文藝春秋、2002年)という本を出していました。
私は、この『成人病の真実』を読み、がん以外のことでも鋭いことを言っているいい本だ、と大変感銘を受けたのです。近藤先生は当時、がんだけでなく、日本の医療全体の不信へと言論活動のテーマを広げていました。
ちなみに、近藤先生が『患者よ、がんと闘うな』(文藝春秋)を出したのは、1996(平成8)年のこと。抗がん剤は効かない、手術偏重に異議あり、がん検診は有害など、常識を覆す主張で、医学界に大論争を巻き起こしました。
一方、私が医療界のいわゆる「検査値至上主義」の批判を始めたのは、奇しくも近藤先生が『患者よ、がんと闘うな』を出されたのと同じ1996(平成8)年のこと。『老人を殺すな!』(KKロングセラーズ)という本においてでした。
この本で私は、高齢者に関して言えば、血圧や血糖値などは、むしろ高めのほうがいい、間違った検査値至上主義や、いきすぎた専門分化の臓器別診療ではダメだと主張しました。
私は長年、高齢者の医療に携わっています。血圧や血糖値、コレステロールなど、検査の数値に振り回される日本の予防医学的な医療では、医療費がかさむだけで、患者のメリットはないと痛感していました。
そして、『文藝春秋』の最初の対談で近藤先生と私は意気投合し、近藤先生にがん治療でも同様の実態があることや、大学病院に居座る、病気を知らないひどい医者の実情についても教えていただいたのです。
近藤先生は、「病院に行く人ほど、クスリや医療で命を縮めやすい」という信念を持っていました。医者にかかればかかるほど検査が増えて異常が見つかり、クスリを飲んだり、手術をするはめになる。そもそも健康診断で「患者」に仕立て上げるために、きわめて低く設定された基準値自体がおかしい、ということです。医者や患者が、検査値、基準値に振り回される愚かさを指摘してきました。
これには、私もまったく同意見です。健康診断で使われる基準値(血圧140/90㎜Hg、血糖値100mg/㎗未満、コレステロール値120〜220mg/㎗)を信用してはいけません。
クスリを売るために、医療業界が結託して基準値を低めに設定しているのです。
長生きするためには、安易に医者には近づかないこと。近づいたせいで不幸になる人は数多くいるのですから。
「私の近藤誠論」②養老孟司
矛盾だらけの医療界を突いた「医学の常識」
医療そのものと真摯に対峙した稀有な医師
近藤誠さんはとても体格のいい人でした。初めてお会いしたのは、2012(平成14)年、菊池寛賞を取られた授賞式のときです。ちらりとお顔を見て挨拶しただけですが、背が高く、頑丈な体が印象的でした。
菊池寛賞は、「乳房温存療法のパイオニアで、抗がん剤の毒性、拡大手術の危険性など、がん治療における先駆的な意見をわかりやすく啓蒙してきた功績」というのが受賞理由です。その後、近藤さんは、がん治療にとどまらず、健康や医療そのものに対する論争を日本の医療界に仕掛けました。十分な体力がないと、あのような仕事はできません。
僕は近藤さんと意気投合し、『ねこバカ いぬバカ』(小学館、2015年)、『孟司と誠の健康生活委員会』(文藝春秋、2019年)という2冊の対談本を出しました。
近藤さんの業績の大きな特徴は、海外の論文など、議論のもとになる膨大なデータ、エビデンスをていねいに読み込み、自分なりの結論を出したことです。そこが、非常に評価されるところです。
臨床の研究データを取るのは、多額のお金がかかります。近藤さんには、臨床試験をする組織もお金もなく、自分でデータをとる余裕もありません。そのなかで、独自の手法で医療そのものとに対峙した。近藤さんのような人は、なかなかいないでしょう。
詳細は後述しますが、コロナ禍が始まって間もない2020(令和2)年6月、僕は体調の変化を感じて久しぶりに病院に行ったところ、たまたまが見つかって入院しました。しかしながら、普段は病院には行かないし、クスリも飲みません。40代から糖尿病ですが、血糖値のコントロールなどしていない。健康診断に反対なのも近藤さんと同じです。近藤さんの言われたことは、僕は「医学の常識」だと思っています。
医者の世界において、近藤さんは”奇異な人物”として扱われました。ですが、近藤さんの主張が医学界で通らないほうがおかしい。
近藤さんは20年ものあいだ、ほとんど眠れなかったそうです。私との対談のなかで、「『患者よ、がんと闘うな』という本を書いたり、『乳がんは切らずに治せ』と言ったり、論争を呼ぶようなことをやり始めたら眠れなくなった」と打ち明けてくれました。
あれだけ激しく相手に突っかかれば、体力がいるし、疲れます。感情が入っていますから、カッカしてきて睡眠を妨害します。ストレスで眠れなくなるわけです。
たしかにああいう仕事を続けていたら、長生きはしないでしょう。いかにも急性心不全という亡くなり方でした。
やはり、近藤さんが大きな業績を遺せたのは、頑丈な体の持ち主で、体力があったからこそです。同じ条件に身を置くとしたら、僕はとてもやってられない。近藤さんほど真面目ではありませんし。
自分の死ぬところに注文をつけてはいけない
2022(令和4)年8月に亡くなられた近藤誠さんが最後に執筆した本が、『「健康不安」に殺されるな』(ビジネス社、2023年)でした。
日本人の7割は、自分が健康でないと思っているそうです。OECD(経済協力開発機構)の調査(2013年発表)によると、自分が健康だと思っている人は3割くらいで、OECD34カ国中最下位です。
体は人工物ではないから、本当はコントロールできません。それでも頭で何とかしようとするのが人間です。70歳や80歳にもなって健康でいたいというのは、正直みっともない。もう手遅れです。健康なわけがありません。
下手にクスリを飲んだりしていじくるのではなく、素直に自分の体に任せておけばいいのです。血圧が高くても、高血圧の基準がどこにあるのかわかりません。高血圧の根拠がわからないのです。統計で「これが血圧の正常値ですよ」と言われたところで、自分に当てはまる保証などありません。
また、大して調子が悪くなくても、すぐに医者に行くような風潮は、患者の側の不安によるものです。何かをしなければ不安になる。この不安は、誰もが持っている現代の病気です。近藤さんの『「健康不安」に殺されるな』も、そこを突いたのでしょう。
この本は、もともと免疫をテーマにスタートした本だと聞きます。免疫は大変です。僕は触りたくもありません。要するに、人間の体の世界は網の目のように複雑だと、よくいわれる典型が免疫システムなのです。単純に考えても、なかなかよく理解できません。医学の世界でも、いちばん最後にわかってきたのが免疫の分野でした。
人はいつ、どこで死ぬのかわかりません。東南海の地震にあって死んでしまうかもしれないし、虫を採集していたら崖から落ちて亡くなってしまうこともあるでしょう。あるいは、森のなかで蛇に嚙まれてしまうかもしれない……。
近藤さんは、常々「どうせ死ぬならがんにかかり、家で死ぬのがいちばんいい」と言っていました。でも、近藤さん自身もそうですが、なかなかそうはうまくいかないのが人間です。自分の死ぬところに注文をつけてはいけません。
死んだら意識がないので、そのときの状況など知ったことではありません。一人称の死、「私」の死です。死んだときには私はいないのだから、実際にはないのと同じです。
一方で現実を見れば、死は二人称の死で、「あなた」、つまり知っている人の死です。
これだけは無視することができません。身内とか、周りの人に必ず影響を与えますから。
ですから、僕はどこか危ないところに行くときは、必ず誰かと一緒に行きます。山に行くときも、ひとりでは行きません。事故死すると、周りの人が迷惑するだけですから、それはやはり考えます。
でも、本来的に自分の最期に関してじたばたしても、どうしようもない。これだけは確かなことだと思います。
「私の近藤誠論」③上野千鶴子
常に患者に寄り添い「女性の尊厳」を守った同志
国家を敵に回して闘った医師
2022(令和4)年8月13日、近藤誠先生がタクシーのなかで急死されました。私と同い年の73歳で、死因は虚血性心不全だそうです。
「がんもどき理論」でがん治療に一石を投じた近藤さんは、かねてより、死ぬなら無検査、無治療のがん死がいい、そして自宅がいいと公言されていました。しくも、生前最後の本になったのは、『どうせ死ぬなら自宅がいい』(エクスナレッジ、2022年)。ご自分の希望通りの死に方をされなかったのは、はなはだ残念です。
近藤さんは死ぬまで現役でした。長年積もったストレスと過労だったのでしょう。皆が注目するロールモデルとして、もう少し長生きしてほしかった。
実は2023(令和5)年2月、私は毎年受けていた乳がんのマンモグラフィ検査でひっかかり、生検の結果、クロだとわかりました。
そのとき、真っ先に頭に浮かんだのが近藤さんのこと。何かあれば、必ず近藤さんのセカンドオピニオン外来に伺おうと思っていましたし、実際にそのように近藤さんにも伝えていました。
ところが、それがかなわなくなった。ガンになったとき、診てほしい人がいなくなった。
痛恨の思いです。
「検査はするな」が近藤さんの持論でした。それにもかかわらず、私が乳がんの定期検診を受けていたのは、母を乳がんで亡くし、遺伝的にハイリスクグループだという自覚があったからです。「がんは老化現象だ」と近藤さんは言い切っておられたので、クロだという検査結果は、私も順調に加齢している証拠として「来るべきものが来た」と、冷静に受け止めました。
近藤さんは「闘う医者」でした。
ひとつは、近藤さんは「乳がんの乳房温存療法」をめぐって、「全摘」が標準治療だった乳がん医療学界、業界と闘ったことです。同じように、勤めていた慶應大学の医学部でも孤立して、ついに講師ポストのまま退職を迎えたときも、在職し続けることが闘いだとしました。さらには「がんもどき理論」「がん放置療法」「抗がん剤はいらない」で、がん医療学界、業界とも闘いました。
その後、「健康診断無用論」「医者に殺されるな」で、医療界のすべてを敵に回し、ついには「健康不安」をめぐり、製薬会社と国家をも敵に回しました。このように、近藤さんの敵は、どんどん巨大になっていきました。
さらには、2020(令和2)年からのコロナ禍においても、マスク、手洗いはいらない、 ソーシャルディスタンスも必要なく、ワクチンは打ってはいけない、と国民に警告しました。コロナ禍の日本社会のあり方に対しても、警告を発しました。
遺著となった『「健康不安」に殺されるな』(ビジネス社、2023年)は亡くなる3日前まで書き続けていた原稿をまとめたとのこと。本の帯の惹句には、「著者渾身のラストメッセージ!医者とクスリを信じてはいけない!」とあります。この本が遺著になったことは、近藤さんらしいメッセージだと思います。
これまで近藤さんが本で書かれてきたことは、臨床医というよりも社会学者、歴史家の仕事に近いです。ですから、社会学者がやっても不思議ではない仕事です。
敵は本丸にありと、どんどん奥に行くと、相手はますます巨大になっていく。近藤さんは、最後に国家を相手にして闘いました。
どの業界にも、かつて国家を相手に闘った人がいます。古くは、銅山の鉱毒事件で住民の先頭に立って闘った田中正造。明治天皇に宛てて、公害による惨状、住民の苦しみを訴えた直訴状が有名です。
また、病研究と患者救済に生涯を捧げた医師、原田正純さん。熊本大学医学部で胎児性水俣病を解明し、水俣病裁判でも常に患者に寄り添い、真実を追求しました。
1999(平成11)年、原田さんが熊本大学医学部を助教授の肩書で退職されたことに、私はショックを受けました。あれほどの業績を上げた原田さんを熊大医学部は評価できなかったのか、と。退職後、転職先の熊本学園大学で教授職に就かれましたが、医学と関係のない社会福祉学部でした。原田さんへの所属組織からの冷遇ぶりは、慶應大学医学部を講師のまま定年退職された近藤さんをほうふつさせます。
「大学内での孤高の闘い」という共通体験
さらに私にとってとても印象深いのは、近藤さんのキャリアでした。慶應大学の医学部を出て、慶應大学病院に勤めるというのは、医者としてはエリートコースです。それにもかかわらず、結局、定年まで講師のままで昇進しませんでした。
繰り返しになりますが、近藤さんは1988(昭和63)年、『文藝春秋』において「乳がんは切らずに治る」と題した論文を発表しました。そのなかの「日本では、慶大・東大をはじめ、どこの大学病院でも、乳房を切ってしまうのです」という一文で、大学病院の外科の教授の怒りを買い、病院中を敵に回すことになりました。
当然、近藤さんは大学内の主流の政治から外されました。私が近藤さんにとりわけ親近感を持っていたのは、そういう生き方への共感もありました。
こうした一連のパージについて、近藤さんに直接聞いたことがあります。私は、「なぜ、慶應大学をお辞めにならなかったのですか」と尋ねました。すると近藤さんは、こう答えたのです。
「そこに居続けることが闘いだ」と。
もちろん毎年、学内のパワーポリティクスとは無縁な若手医師が大学病院に入ってきます。そうした若手のなかには、近藤さんを慕って寄ってくる人もいました。
彼ら、彼女らのなかには、すれ違ったときに挨拶したり、立ち話をしたりする人も出てくる。そういう際、近藤さんは「『僕に近づかないほうが君のためだよ』と声をかけた」と言っていました。
これは、いわば「近藤流処世術」と言えるでしょう。慕ってくる若手にすらそう言ったというところに、近藤さんの孤独と孤立と孤高の闘いに対する覚悟が示されています。
その話を聞いた私は、近藤さんは本当に素晴らしいなと尊敬しました。
私が、そこまで近藤流処世術に共感した理由。それは、私も東京大学で同じような体験をしたからです。
政治学者の姜尚中さん、建築家の安藤忠雄さんなど、東京大学にも異色の教授がいました。姜尚中さんは、東大初の在日韓国人の教授で、安藤忠雄さんは東大初の高卒の学歴を持つ教授です。
私は、1993(平成5)年に東京大学の教員になりました。東京大学文学部で3人目の女性教員、2人目の女性教授。ちなみに最初の女性東大教授は、1970(昭和45)年に就任した中根千枝さんです。
しかし、あるときから「私は主流派から外れている」と、はっきりわかりました。たとえば、学部長や大学の評議員や理事になるコースがあります。いまでは、学部長になっている女性もいますが、そういう人たちは教務部長職や学生部長職を経験していきます。
私にそういうお役は回ってこず、「この先、学内執行部の可能性はない」ということが早い時期に推測できました。おかげさまで50代の働きざかりのときに、学内行政に時間を取られずに済み、研究活動に集中できたことは幸運でしたが。
私は外様だっただけでなく、「下ネタ」本で世間を騒がした札つきのフェミニストでした。ジェンダー論を教えていた私の学内のポジションも、フェミニズム業界内のポジションも、風当たりが強いところにありました。
ですから、いろんな人が、私を頼ってアドバイスを求めてきましたが、その人たちに情報を提供したり、人を紹介したりする際、近藤さんの若手へのひと言ではありませんが、必ずつけ加える言葉がありました。
「上野の紹介だと、おっしゃらないほうがいいですよ」と。
こんなエピソードがあります。あるとき、こうやってアドバイスをさしあげた方がしばらくしてから、私の研究室に戻ってこられました。そして笑いをこらえきれないように、こうおっしゃったのです。
「上野さんって、評判の悪い人ですねえ……」
このように、私は毀誉褒貶の激しい人間です。多くの論敵と論争をやってきた点でも、近藤さんとよく似ています。
お読みいただき、ありがとうございます。
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