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【昭和的家族】父の手作りうどん

私の父は、兼業農家の生まれで、繁忙期には小さい頃から家族の食事の世話等をしていたそうだ。だからなのか私が物心つく頃には既に、父は基本的な家事は一通りできたし、料理に関しても私より遥かに上手だった。特に父が得意とする料理はいくつかあったが、良くお客さまが来る時に、父が張り切って作っていたのは、手作りのうどんだった。

もともと誰に習ったのか聞いた事はなかったけど、昔、父の田舎を訪ねると親戚の家で手打ちのうどんを度々ご馳走になったので、父の故郷では本来家で作る料理だったのかと思う。なので多分父は家庭を持つ前にも、もう自分で充分うどんを打てたのではと思うのだけど、父が膨大に残した日記(私の父も母も相当のメモ魔だった)を見ると、生涯何度もうどんの試作を繰り返していたようだ。何故ならば父の日記には度々、「今日のうどんはいつもより長めに生地を寝かせていたら我ながら上手に出来た」とか「今日のうどんは茹でたら切れてしまってイマイチだった」というように、自分が作ったうどんについての感想が書かれていたからだ。そんな反省と工夫の賜物か、後年父が作るうどんは、私にとってはそこら辺のお店で出されるものより見た目も美しく、丁度良くコシがあるその味も、とてもお気に入りの美味しいご馳走だった。

特に、私は父がつくるうどんの端っこの平べったい不揃いなところが好きで、一般的なうどん屋さんでは滅多に出てこないこの端っこの個所を、『幅広うどん』と呼んで狙っていつも一番最初に拾い上げて食べていた。そんな私の行動に気が付いた父は、この『幅広うどん』を徐々に沢山つくってくれるようになった。だいたいにおいて、父はうどんをいつも文字通り山のように作った。2人分の食卓位あるような大きなうどん用のまな板を使い、普通の家庭ではあまり見かけないくらい大きな、業務用らしきアルミ鍋でダイナミックにうどんを茹でる。出来上がったうどんをこれまた大きな竹でできたザルに入れていき、量が少ない時でさえ、少なくとも3つのザルはうどんで山盛りになった。私の記憶では当初『幅広うどん』は、この3つのザルの1つの端の方に少し置かれているくらいだったのが、最後の方はまるまる1つのザルが『幅広うどん』だけの山盛りになっていた。

父はうどんのお汁も自分で味付けしていた。基本的にはカツオ節と昆布のお出汁と薄目のお醤油味で、そこに玉ねぎと椎茸も出汁として入れられていた。味付けは不思議なくらい全くしょっぱくなくて玉ねぎだろうか後味に甘さがほのかに残る。客人の中には、うどんとともに、是非このお出しもお土産に欲しいと希望される方が多く、父は良くうどんとお汁をそれぞれの使い捨ての何らかの入れ物に入れ、包装紙などで包み込んで、客人が帰る時に他のお土産と一緒に手渡しをしていたものだ。

通常のうどんとは別に父は、冬になると『おっきりこみ』という秩父郷土料理も作つてくれた。こちらはあくまでも寒い日に家族で食べる鍋的なうどん料理で客人に振る舞う事は無かったように思う。きのこや人参、長葱や大根等の色々な野菜を少し炒め、油揚げも入れて良く煮込んだ(味付けは醤油ベースに少しお味噌を入れていたように思う)後、父は切りたての生のうどんをその鍋の中に入れて更に煮込む。うどんの打ち粉がふんわりと溶け、トロミがついたその料理は、冬の寒い日にお椀に移してもいつまでも温かく、フーフー吹きながら食べると身体が芯から温まった。

私は社会人になって暫くして一時期大阪に住んでいた事があって、関西のうどんの出汁も含めた美味しさに大変びっくりして今でも関西のうどんも大好きではあるけれど、今、懐かしく食べたいなとより強く思うのは、春夏であれば父が作ってくれた山盛りの『幅広うどん』で、秋冬であれば大きな鍋一杯に父が作った『おっきりこみ』だ。


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