島崎とあ

母の在宅介護が終わり、改めて1日1日を出来るだけ大事にしたいと思っている60代です。 古い物事や昭和の家族の想い出を大切にしながらも不要なものは手放し、新しい物事にも挑戦する日々をnoteしていきたいと思っています。時々90代の母が書きたかった事も代理で書いていく予定です。

島崎とあ

母の在宅介護が終わり、改めて1日1日を出来るだけ大事にしたいと思っている60代です。 古い物事や昭和の家族の想い出を大切にしながらも不要なものは手放し、新しい物事にも挑戦する日々をnoteしていきたいと思っています。時々90代の母が書きたかった事も代理で書いていく予定です。

最近の記事

【昭和的家族】庭の柿の木

ずっと長い間実家の庭の表側の一番隅にあった柿の木は、苗木から父が育てたものだ。私はその苗木を父が買って来て私達に見せてくれた時を覚えている。父はその木が柿の木で、いつか柿の実をつけると説明してくれた。 私は、その本当に頼りないくらいに細い木の枝から、あのしっかりと重みのあるオレンジ色の柿の実が採れるというのが想像できなくて、父に聞いた。 「お父さん、これいつ位になったら柿の実をつけるようになるの?」 「そうさな、〇〇(弟の名前)が、社会人として仕事をするようになる頃かな」

    • 【昭和的家族】父の告白(実は白玉が嫌い)

      私の父は、小さい頃から甘い物が大好きだったそうだ。そんな父が良く話してくれた父の子供の頃の想い出話の中で、私が好きだったのは、父の母、つまりは私の祖母が父が小学生の頃のある日、お弁当としてお弁当箱一杯に和菓子を入れて持たせてくれたというものだ。父の子供の頃は第二次戦争を挟み今よりも甘い物が大変貴重な時代だったからこそ尚更、その話は父から見て、祖母の父に対する強い愛情表現と感じたのかと思う。山中で育った父にとっては、当時なかなか手に入らない驚きのプレゼントがぎっしり入ったお弁当

      • 【昭和的家族】家族で買い物

        私の両親は私が小さい頃こそ、そんなに遠くない場所にたまに家族旅行に連れて行ってくれたけれど、私が成人を超える前頃から、そんな滅多にしかない旅も一緒にしなくなった。それでも週末、父母が近所のスーパーマーケット等に車で行く時、”出掛けるな”という気配を察知し私や弟が一緒に車に乗り込んで家族で出掛ける事は良くあった。今思うとそれもある意味小さな家族旅行のようなノリだった。 行く場所は大抵広めの食料売り場のある近所のスーパーマーケットのどこかで、両親はカートの上下にカゴを入れてその

        • 【昭和的家族】仕事帰りのチョコレートパフェ

          私の父は昔、長い間煙草は吸っていたがお酒はとても弱く、お付き合いでビールなどをコップ半分飲んだ位ででも、顔が真っ赤になった上にかなりな笑い上戸になった。いつだったか酔った父が家に帰った時に丁度、ドリフターズのお笑い番組を家族で観ていたのだけれど、途中参加した父が余りにもちょっとした所で度々大笑いし過ぎてかつ都度都度、「どうだ、こりゃあ面白いな、〇〇だってよ!!わはははは!!!」と普段より数倍も大きな声で激しく同意を求められ過ぎて、とても迷惑に感じた事もあった位だ。 お酒が弱

          【母の代筆】シルバーコーラス

          最近の私は、昔の母のノートを引っ張り出して時々読んでいます。余りに量が多いので、読んだものをもう一度見返そうと思っても、どこに書いてあったのかなかなか見つからなかったりします。母がノートを書いた時期もバラバラなので、いつのメモだったのかを推測するのも難しかったり、時間が掛かったりします。それでもふと急に、”あぁ、そう言えば母が昔ノートにメモしていたな”と想い出す事が多い事柄がいくつかあります。その中でも私が良く想い出すのは、母が60代中頃から80代前半位迄頑張って通っていた『

          【母の代筆】シルバーコーラス

          【昭和的家族】天ぷらの出前追加

          実家では、後年ご馳走と言うと出前を取ることが多くなっていった。良く頼むお店は数件あって、だいたいのメニューは私達の頭に入っていた。出前を頼む切っ掛けは、誰かの誕生日やお客さまがいらした時等が多かったけど、時たま、特に理由があるわけではなく、ちょっとしたお楽しみのご褒美のように家族だけの食事のために出前を取ることもあった。 ある時、私が実家で夕ご飯に出前を取る事を提案した。両親は直ぐに賛成し、いくつかの候補の中から良く頼んでいたお蕎麦屋さんにお願いしようという話になった。この

          【昭和的家族】天ぷらの出前追加

          【昭和的家族】母のコメント

          私の母は、私達兄弟が小さい頃から無条件な愛情表現は薄いタイプだっと思う。私自身は飼い犬等可愛いと思う対象には、日々「可愛いー!」だとかの自然発生的な掛け声をつい頻繁にしてしまうのだけど、母は昔からそんな表現は発しなかった。ついては我が家の場合、子供の頃は父の方が「可愛い!」を連発していて、特に家族写真を父が撮る場合は、そんな呟きで父が喜んでいるのがとても分かりやすくて私達は時に過剰サービスで変顔をしたり、時に不自然なポーズを意図的にしていたような記憶もある。 一方の母は、子

          【昭和的家族】母のコメント

          【昭和的家族】夏休みの想い出

          私が小学生の頃、今の時代より夏休みだからと家族旅行に行く人はそこまで多くなかったと思う。9月の夏休み明けに、「8月のお盆時期におじいちゃんやおばあちゃんのいる田舎に行った!」という話を同じクラスの友達から聞く事はあっても、私自身はそんなに羨ましいとは思わなかった。何故ならば私はどちらかというと小さい頃からインドア派だったからだ。プールに通い続けたりして真っ黒になっている同級生に比べて、どんなに頑張っても”気持ち焼けたかな?”程度の生焼け肌が少し恥ずかしいなと思う位の気持ちでい

          【昭和的家族】夏休みの想い出

          【母の代筆】好物の背景にある物語

          私の母は食いしん坊で、普通食が食べられる頃は、それこそ好きな食べ物、つまりは好物がたくさんありました。その中でも、90代という同年代の方々の中でめずらしがられたのは、どちらかと言うと和食より洋食好きというところです。母に食欲が無い時、デミグラソースのたっぷりかかったオムレツやオムライスを見せると、「食べちゃおうかな」と元気になって食欲が湧いてきていました。少し若かった頃、家族でファミリーレストランで外食をする時も、他の家族がみんな和食の定食的なものを頼む時にも、ひとりででもこ

          【母の代筆】好物の背景にある物語

          【母の代筆】童話の世界

          私の母が育った92年前の母の故郷の町は、商業が発達していてそれなりに人が多かったようです。当時の母の家はそもそも親戚が沢山集中するように住んでいて、商店街でお店を出したり、他の勤めをしたりするために遠い親戚の若い人達も移って来て、住み込み等で働いたりして大変賑やかだったと聞きました。 母の父母、つまり私の母方の祖父母は台湾で結婚し、母の5歳上の姉が生まれた後に、祖母の実家のあるこの故郷の町に戻り、そこで母が生まれたそうです。母が子供時代を語る時、「ねぇややばぁやが沢山いたの

          【母の代筆】童話の世界

          【母の代筆】お盆の提燈

          母は戸籍上は昭和7年のお正月生まれで、という事は生まれた時はまだ太平洋戦争が始まる前で終戦時には13歳だったと思います。 そんな母がその戦争前の時代の、生まれ故郷のお盆の様子を書いた古いノートを見つけ、そして本人も「是非残しておいて欲しい!」と言っていたので、メモしています。 ちなみに母の実家は、神社のすぐ横にあった『カドヤ』と呼ばれた小さな雑貨・駄菓子屋でした。小さい頃はご近所で『駄菓子屋のアッコちゃん』と呼ばれ、神社の境内の公園を自分の家の庭と思っていたという位、毎日

          【母の代筆】お盆の提燈

          【昭和的家族】初めての『スマホ』

          現在、携帯電話を持っている方は、殆どが『スマホ』を使っているのではないかと思うのだけど、昔多くの人が『ガラ携(周囲地区から隔離されて独自の生態系を維持していたガラパゴス島に例え、とっても古いという意味の携帯)』と呼ばれた携帯を持っていて、代わりにすっかり『スマホ』携帯に変更するまでには、確か2、3年位の期間があったのではなかっただろうか。私は変更が遅かった派だ。できれば一生『ガラ携』を使い続けたいとさえ思い、当初『スマホ』には妙な敵対心を持っていた。ついては通勤電車の中で、向

          【昭和的家族】初めての『スマホ』

          【母の代筆】誕生日の幸せ

          私の父は母より2歳年上でした。実家で片付けをしている時、父が81歳になった誕生日に、母が父に渡していたお祝いメッセージを見つけたものを、本人に了承を取って代理でメモしています。 この時期、父と母は介護サポート等も全く受けずに二人暮らしをしていました。両親は確か母が26歳の時に結婚したかと思うので、当時で結婚52年目位だったかと思います。 [原文は縦書きです]

          【母の代筆】誕生日の幸せ

          【昭和的家族】家を建替えるに決まってる

          私が生まれてすぐ、父は今私が住んでいる場所に土地を買って木造の家を建てた。今から60年程前の事だ。 初めは平屋の家で、その後1階に書斎を建て増しし、さらにその後2階に2部屋の和室を増築した。更に何十年も住むうちに台所やお風呂場が劣化したので数日かかるリフォームもした。父は手先が器用でかつ大工仕事が趣味だったので、そのような大きな改築以外の様々な改修は自分でもやっていた。 そんな実家の裏側には父が手造りで建てた作業小屋があり、大工道具や庭の木の剪定用の電動の器具やらなにやら

          【昭和的家族】家を建替えるに決まってる

          【昭和的家族】朝の騒ぎ

          私は今までの人生で、暫く一人暮らしをした後で、何度か実家に出戻った。大抵は何かやりたい事があり家賃代を節約したいという理由だった。木造の実家は築年数は古いけれど部屋数は多く、工夫をすれば少し家族と距離を置いて生活できる広さだったからもあったと思う。 それでも一度でも一人暮らしを経験すると、実家の暮らしは良い事ばかりではなく、面倒だったり落ち着かない事も多かった。我慢できる限度を超えると、私は何度か急に一人暮らしできる場所を確保し引っ越した。特に私が我慢できなかったのは両親に

          【昭和的家族】朝の騒ぎ

          【昭和的家族】横浜中華街

          だいぶ前の事だ。埼玉にある実家から一番近いJRの駅に、湘南ラインという列車が通るようになった。知らずに駅で初めてその列車を見かけた私は、行先が熱海だ小田原だとなっていて、驚いた。どちらの駅も自分の中では東京駅から新幹線に乗って行く場所のイメージがあったからだ。”時間が掛かるとしても、直通で行けるなんて面白そう”と、その時私は思った。 その頃の私は東京でフルタイムで働いていて、年内に振り当てられる有休を計画的に使う為、月1度くらい平日休みを取得していた。そんな休みの日は、大抵

          【昭和的家族】横浜中華街