【母の代筆】童話の世界
私の母が育った92年前の母の故郷の町は、商業が発達していてそれなりに人が多かったようです。当時の母の家はそもそも親戚が沢山集中するように住んでいて、商店街でお店を出したり、他の勤めをしたりするために遠い親戚の若い人達も移って来て、住み込み等で働いたりして大変賑やかだったと聞きました。
母の父母、つまり私の母方の祖父母は台湾で結婚し、母の5歳上の姉が生まれた後に、祖母の実家のあるこの故郷の町に戻り、そこで母が生まれたそうです。母が子供時代を語る時、「ねぇややばぁやが沢山いたのよ」と良く言っていたのだけれど、生活に追われて時間もお金も余裕はなさそうに見えていた当時の両親の姿からは、そんなに使用人が沢山いる生活ってどんなのか私には想像が難しかったです。
母が60歳前後に書いていた古いノートにそんな母の子供時代の自分を懐かしがるメモを二つ見つけたので、残しておきます。
まず一つ目は多分50代後半のメモです。丁度父が長く働いていた仕事を辞めてセカンドライフをどう組み立てて行くのか見通しが立たず、不安定な時期が数年あった頃と思います。
ニつ目は上記メモを書いた少し前のメモのようです。同じように幼い日のわがままで過保護にされていた自分について書いていました。当時の母は自分のわがままを表面に出さず殻に籠っていたのかなと思います。同じノートにそれから数年の間に、父の仕事も落ち着き(確か同じ事務所で行政書士として75歳位まで働いていました)子供の頃の趣味や興味(コーラス、着付け、お茶、英会話、音楽鑑賞、父や私との旅行、家族の食事イベント)に少しづつ勤しむようになった母の姿も垣間見られました。コーラスのメンバーとの食事会も母が楽しみにしていた事でした。強いて言えば、文学少女と自称していたのにも関わらず、作品的な文学の文章は作っていなかったのが後悔だったのかもしれません。それでも父が大きなケガで倒れ、自宅からいなくなってしまった後、7年の間、日常生活で起こった事、感じた事を細かくメモした日記を残し、その数はA4ノート22冊と23冊の1ページに渡りました。
母の人生を私が少し遠目で見ると、色々と悩んだり喘いだりしながら、60歳頃に一旦立ち止まり、その時点の自分の納得できない状況と心で感じる違和感を素直に感じ、その後人生の後半に少しずつと自分のしたかった事をしながら、幼い頃の自分に近い、素の自分に帰ったという経過を通ったのではないかと思います。そんな不器用で真面目な母は、私にとって人生の先輩であり手本でもあり、宝物だなと、今私は思います。
ちなみに、写真は母の古いアルバムの集合写真から拾いました。沢山の子供達の中で、一番目がくりっとして目力があり(『への字口』)確かにわがままな様子でかつ最近の顔に通じるところがハッキリあって、集合写真の中から直ぐに母を探し出すことができました。
[原文は縦書きです]