俊カフェ界隈の歴史 その2
take
前回のあらすじ
Uさんから《takeさんが絶対好きになる場所》と予言された『俊カフェ』。
それは100年前に助川貞二郎が建てた事務所でした。助川貞二郎とは,馬車鉄道で札幌にたくさんの軟石を運び,路面電車を開通させた人。札幌の発展に大きく貢献したことは間違いありません。
さて,この事務所を次に使った人は誰なのか? そしてその人の秘密とは…
俊カフェはお稽古をするところだった?
恵庭駅から徒歩15分。広々としたキャンパスに6つの学科を持つ総合大学・鶴岡学園北海道文教大学があります。昭和生まれの人には札幌市南区にあった『栄短(北海道栄養短期大学)』のほうがわかりやすいでしょうか? あの栄短が発展していまの北海道文教大学になりました。はじめて知った?
鶴岡学園の始まりは1942(昭和17)年に札幌で開校した「北海道女子栄養学校」です。創設者は鶴岡新太郎・トシ夫妻。1942年といえばアジア太平洋戦争の真っ只中です,《(この戦いに勝ち)世界平和に貢献するために,食料と栄養の専門家の養成が重要である》と訴えて開校にこぎつけました。
(写真)佐々木ゆり『鶴岡トシ物語』2019年,81ページより
そのときに校舎として借りたのが,助川が建てたこの建物なのです。いま俊カフェが入っている2階には教室が2つありました。1つは栄養の理論を学ぶ部屋,もう1つは畳敷きの和室で茶道や華道のお稽古をする部屋でした。トシは栄養学だけでなく,女性としての教養も授けようと考えたのです。
ちなみにいま美容室・華宮が入っている1階には事務所や実習室がありました。80年前を想像するとワクワクするのはtakeだけでしょうか?
(写真)『二十五年史』北海道栄養短期大学同窓会 より
この小さな建物が学園本部?
鶴岡夫妻が始めた北海道女子栄養学校は,戦後1947(昭和22)年に「北海道栄養学校」と改称して北大の近くに校舎を建設(北校舎)。その後は南区に土地を購入して1959(昭和34)年に藤の沢女子高等学校,1963(昭和38)年に北海道栄養短期大学を開校(北海道栄養学校は栄短に昇格)します。
大きな発展を遂げた鶴岡学園。昭和30年代にはこの小さな校舎とお別れしたのかと思いきや,1994(平成6)年まで「鶴岡学園の本部事務所」として使っていたそうです。通算50年間。「高校と短大が南区,学園本部が南3条西 7丁目とは不便だ。takeなら学園本部を南区の校舎の中に移転するだろうな...」と不思議に思っていたのですが,ある本を読んで謎が解けました。
(写真)この建物が鶴岡学園の本部だった証が,ウラの塀にあります
トシは学園本部に住んでいた
佐々木ゆり『鶴岡トシ物語』2019年。178ページにこう書いてあります。
北海道栄養学校時代の北校舎建設,(中略)さらには北海道栄養短期大学の設立など,鶴岡夫妻はその都度,私財を投じてきた。そのため,北校舎の完成にともない南3条の校舎を本部事務所として使用するようになってからは,建物1階にあった8畳間で暮らすようになっていた。ふすま1枚で隔てられた小さな土間に流し台がひとつ。(中略)新太郎が他界すると,トシはこの8畳間で,お手伝いの女性と寝起きしていた。
(中略)こうした質素な暮らしぶりを知るのは,本部事務所で働いていた数人の職員だけで,藤の沢の校舎で働く教職員は誰も知らなかった。
なんと驚くことに,トシはずっとこの建物で暮らしていたのです。だから,学園本部を他へ移すことはありませんでした。高校と短大を束ねる鶴岡学園の理事長が8畳一間で質素な暮らしをしながら,私財を投じて学園を発展させていたとは,感動しました。
さて3回目は,次にこの建物を使ったのは誰か? 『北海道の有名人』とだけ予告しておきます。
「俊カフェ界隈の歴史」といいつつ,まだ俊カフェを1歩も出ていません。それだけ,この建物の100年の歴史が濃いんです。あなたも俊カフェに行ってみたくなったでしょ?
参考文献
佐々木ゆり『鶴岡トシ物語』2019年
『学校法人鶴岡学園創立75周年記念誌』2017年
この2冊は北海道文教大学鶴岡先生史料室を訪問した際に学園の方からいただきました。この場を借りてお礼を申し上げます。