日カナダ系ハーフが日本文学を志すまで〜前編〜

 これまでのnote記事では大っぴらに申し上げてきませんでしたが、私はいわゆるカナダと日本の「ハーフ」です(私自身「ダブル」や「〇〇系のルーツ」といったタームを用いることを推奨しているのですが、自分を指すとなると「ハーフ」になってしまうのは、「表象」の複雑さの表れでもあります)。まず分かりやすく名前がカタカナなので、今までも「英語(英文学)じゃないんだ!?」と驚かれることも少なくありませんでしたし、教員になって以降も間違いなく「えっ、(明らかに英名の方が割合的に多いのに)英語教育じゃないんだ!?」と言って頂いたり思われたりすると予測します。確かに今まで出会ってきたダブルや日本以外のルーツを有する方々を見てきた体験からも、比較文化系であれば日本以外の外国文学、教育関係であれば国際教育に籍を置く方、ないし興味を持たれている方が大多数であったように記憶しています。日本文学に関心を持っているという方とお話をする機会もありましたが、そうした方は純粋に母国にいながら日本文学を読む過程で興味を抱いてくださったか、あるいは「日本人」かのいずれかでした(前者の方は誠に有難いと常々感じております)。

 本稿では、「ハーフ」として(諸事情により敢えてこちらの名称を採っています)日本文学、またそこから国語教育へと派生していった経緯を省察しつつ、徒然なるままに綴ってみたく思っております。もちろん個々人の経験は別個のものですので、私の経験がそのまま適用できない場合もあるでしょうが、既存の「日本人」以外の枠組みを持つ者として、何かしらのご参考に供することができるのでしたら望外の喜びです。前編(中学〜高校)・後編(大学以後)に分けて投稿して参ります。


中1・嗚呼、『螢雪時代』

 中学1年の折に、いわゆる地元の中高一貫校に通っていた時期がありました。早期から大学・学部選択を意識させるキャリア教育を採っていましたので、受験生の方であればお世話になる『螢雪時代』が全員に一部ずつ配布された訳です。幼少期から「将来の夢」について空想・妄想を膨らませることは好きでしたので、中1の進路学習も苦ではありませんでした。
 当然、山のように学部紹介が掲載されていまして、判断力が未熟な中1生徒を混乱の極みに立たせたのでございます。そこで愚かにも私がとった戦略、それは「学部紹介の一番最初に載っているもので決定しちゃえ!」というものでした。恐らく相当の変わり者だと思いますが、私は百科事典でも何でも、一番最初の項目・ページを見たら、とにかくすぐ実践するという行動癖を持っておりました。それがこの場面でも表出してしまったという訳です。そして当の1ページ目は「日本文学」だったのでした。
 しかしながら、その時点で脳内シナプスがビビッと反応してしまったのでしょう、そのままの勢いで進路希望調査の学部欄に「日本文学」と書き、先生に提出したのでした。

中1・ハーフ/ダブルの通過儀礼「アイデンティティ・クライシス」

 上記契機は若干ふざけていると思われた方もいらっしゃるかと重々承知の上ですが、当時の私は大真面目でした。小学校は比較的郊外の校舎に通っておりましたので、必然的に「どうして私たち(日本人)と違うの?」という好奇の眼や言葉に晒されるのは免れませんでした。ある意味日本に生きるハーフの定めと言っても差し支えありません。友人たちには恵まれていたと今でも感謝していますが、そうした背景もあり、アイデンティティの確立には随分長きにわたり悩まされていました(皆と同じ日本人が良かった、と両親からすれば非常に残酷かつ無礼な願いが心の少なからぬ部分を覆っていたことも事実です)。
 そんな状況下にいましたので、例の進路調査は私にとって好機でした。日本文学と言えば、歴代の日本人が築いてきた文化遺産(昨今の文壇の趨勢や朝鮮半島・漢文文化の多文化的な影響を鑑みると、そうした考えは浅薄であると言えます)。それを勉強し自分の知的糧にするということはすなわち、私を日本人足らしめる構成要素となってくれるのではないかという思考回路が成立してしまいました。「日本文学さえ学んで、それを皆が知ってくれれば、私は『日本人』として認めてもらえる」。この考えが、大学2年次頃まで、私の思想の中枢を支配することとなりました。

中2・「人生の書」との邂逅〜漱石先生『こゝろ』〜

 さてそんなこんなで、帰省すれば母方の祖父の書斎に入り浸り、書籍を拝借する日々が続きました。手始めに読んだのが『石の蝶』(津村節子)、その次が『死の棘』(島尾敏雄;途中で重過ぎて挫折)、そしてそれらの読了後に『こゝろ』を手に取りました。『こゝろ』を読んだ時の衝撃と秀美な文章・プロットへの賛美、「何だか分からないけれど自分の心と共鳴している」という感覚は、一生忘却の彼方に霧散することはないだろうと思います。「私自身の心そのもの」というよりは、心の「昏さ」に鮮烈に惹かれたと言った方が正確な表現かもしれません。それは私の人間や時代に対する不信感であり、ハーフとして皆と永遠に同じになることはないという悲嘆であり、生に対する漠然とした不安感・絶望感でもありました。当時はそうしたところまでは言語化不可能でしたが、これらの感覚は私の淵源となっていると感じます。
 以降『こゝろ』は私の人生の指針となり、この物語のおかげで大学2年次に「知の師」との機縁を賜ることにもなりました(こちらについては別の機会に…)。
 ちなみに高2の時、『こゝろ』についてのディスカッションをクラス全体で行ったのですが、論理明晰なクラスメイトに悉く私の説を論破された後、悔しさと「私の半身を汚された」という感情のあまり、教科書をぐちゃぐちゃにしたことも苦々しさと共に思い起こされます。今だからこそ生々しく書けますが(笑)

高校・演劇同好会(の先生)による「思想的地震」

 ちなみに「思想的地震」は柄谷行人先生が作られた造語です。
 中3の経緯が省略されていますが、そうなんです。何をとち狂ったのか、一瞬だけ医学を志しておりました。まぁ理数科の高校に進学した挙句、数学にて人生で初めての赤点を取った瞬間に「あ、無理だわ」と諦めたので、ノーカンです。
 さて、高1の春に、英語兼演劇同好会の先生から「あなた、文学に興味があったんだって?今時珍しい人だね笑」とお声がけがあり、あれよという間にメンバーの一員になってしまいました。色々あったので詳細は省きますが(総じて良い経験をさせて頂きましたし、今に繋がっていますので心より感謝もしています)、その先生が筑波ご出身だったことのインパクトが主に強過ぎて、高2以降の進路選択の際もさほど迷いませんでした。この時期本当に感情の揺れ動きが激しかったもので記憶が曖昧なのですが、「私は文学に興味を持ってて良いんだ」というある種の安心感というか、セーフティネットを頂いていた側面は大きかったと思います。
 筑波は最終的に比較文化学類という、世間的には文学部に該当する学類を選びましたが、その頃から日本という枠組みに縛られていては新奇の学術的発見は難しいだろうということは、素人なりに薄々気が付いていました。であれば「比較文化という幅広い視野から、再度日本文学を見つめ直したい。ゆくゆくは自分の経てきた経験を活かしつつ、世界と対話し、平和への道標を日本文学から見つけてゆきたい」というような想念がありました。半分は推薦入試の建前ですが、半分は割と本音でした。

 以上、前編は義務教育段階から大学進学時までを振り返っての回顧録でした。また時間のできた際に、後編で大学生としてのその後の道程を記してゆけたらと考えております。



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