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【あくたの死に際】を読んだ15歳の感想
最近のマイブームが小説だったこともあって、漫画を読むことをおろそかにしてしまっていた。
だが、ふらっと立ち寄った本屋で『あくたの死に際』の最新刊を見つけた。かなり前から話題になっていたこともあり、1・2巻は持っていたのだが、最新刊を買えずにいたのでやっと購入。
「この漫画、自分事のようでちょっと気持ち悪いんだよな」
この作品に対する私の率直な感想だった。登場人物たちと同じで小説を書いている人。そして書いていない人に関わらず、創作をしている人すべてに当てはまる部分がこの作品にはあると思う。
あらすじ
主人公の名前は黒田マコト。
大学時代に文芸部に入っていた、ごく普通のサラリーマン。彼はひょんなことから再び小説を書くことになる。
そのきっかけになったのは、大学時代の後輩、黄泉野季郎。久々に会った黄泉野は、大人気小説家になっていた。
マコトの人生は順調だった。
順調のはずだった。
だが、突然マコトは会社に行く道を忘れてしまう。
『暗闇にいる人間は、自分が暗闇にいることに気付けない。』
そんな時ふらふらと街中を歩いていたマコトの前に、大学時代の後輩、黄泉野が現れる。休職中であることを彼に伝えると、「そうですか、がんばったんですね。」と一言。この言葉がマコトの心を緩めた。
久々に会う後輩に対し、なぜかマコトは次々とサンドバックのように愚痴をぶつけていく。そんなマコトに対して黄泉野は「マジメっすね~」と軽く切りつけた。
『やっぱりわからないよな。成功している男に、社会の歯車の話しても…』
そう思ったのも束の間。
「じゃー小説書けば?」
その言葉は、マコトにとって図星だったのかもしれない。
「俺にはお前みたいな才能なんてない」「なんで才能がないと書いちゃいけないと思ったの?」「ずっと思ってたんだけど、先輩って、俺に嫉妬して小説書くのやめたんですか?」
黒田マコトは、平凡。凡庸。
仕事だったらうまくやれる。普通の人間として生きていける。付き合って三年の彼女もいるし、そろそろ結婚だろう。
だが、そんな将来の考えも休職によってめちゃくちゃになってしまった。
【小説を書く】
その選択肢が、今の黒田マコトの中に浮かび上がった時点で、きっともう彼は作家への道をたどっていたのだろう。
創作とは
『今の俺に、これ以上もっと深く。闇に潜れというのか。いやこれは、光?』
これは、第一話「或阿呆たちの再会」の終盤に出てくる台詞だ。私はこの台詞が、大好きで、気持ち悪くてたまらない。
自分のことを言われているかのようで、何度読んでも鳥肌が立つ。
私はまだ創作と言ってよいほど、ロクなものを創ったことはないし、自信も信念も持ち合わせていないが、創作をする端くれとして、少し理解できる。
どん底にいるときほど、創作をして生きている人が光に見えるのだ。お前もこちらに来い。と言わんばかりに光は私を照らしてくる。
だが、その道は暗いことを私はしっかりと理解している。
創作なんて楽しいわけはない。むしろほとんど辛い。楽しい時間なんてほんの一部。わかっているのだ。
マコトのように、普通の人生を選びたくなってしまう気持ちは痛いほどよくわかるし、むしろほとんどの人間はそちらを選ぶ。そして、そもそもほとんどの人間は創作などしたいと思ったこともないのだろう。
だが、私には創作している自分が容易に想像できるし、むしろ普通の仕事をして生きている自分が全く想像できない。もし普通の道に進んだとしても、きっとマコトよりも早く精神を病むだろう。
こういう思考になる時点で、私は社会不適合者に限りなく近く、艱難辛苦であるとわかっていながら創作の道に何度でも飛び込んでしまう馬鹿なのだ。
でも、それが光なのだとすれば。
辛く苦い【創作】と言う道が、私にとって光であるとするならば、きっと私は黒田マコトと同じ、光であると思う。
あなたも『あくたの死に際』を読めば、きっと何かを創りたくなる。それほどにこの作品は素晴らしい。そして、創作に光を感じるその自分こそが光なのだと気付いたとき、あなたはもうすでに創作の虜なのだ。
まとめ
創作者になることを諦めた人間はどれほどいるのだろう。
そして、創作者として成功した人もどれほどいるのだろう。
『あくたの死に際』は、どちらの人間にも刺さる。もちろん、創作者なんて人生にこれっぽっちも登場していない。という人にもだ。
【努力】【才能】【夢】【現実】とは一体なんなのか。脳天を撃ち抜かれる体験は、きっとあなたもクセになる。