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過去を参照する

修論を出してから、映画や小説を日々消費している。それが今の僕にとっては心地が良い。

でも、その裏で日常は続く。
ぼくはずっとちょっぴりつらい。不安と後悔が自分の中に立ち込めている。

映画『ルート29』の中で、「自分をゆるしているうちに、だんだん本当なものが欠けていく気がする」(うろ覚え)と作中の人物が言っていて、その言葉が心に沈んでいる。

僕もそうなのではないか。なんとなく生きているうちに、何か自分の中にかろうじてあった大事なものが遠くに行っていないか。本当に自分は今の自分でいることが「正しい」のか。そういう不安がずっとある。

かと言って過去の自分を信頼しているわけでもない。「大事なもの」が自分の中にあったとしても、それをあたためて育てるのは自分自身。それを捨てるのも自分自身。「大事なもの」をただしく扱えていた自信はない。

自身のことは、すべて自業自得のなせる業と云い条、しかしそれさえも本来彼の意思とは関係のない、そのときどきの流れによるものなのである。

西村賢太『疒の歌』新潮文庫、p.257

僕はとても過去思考だ。過去を常に振り返り、自分がどういう形で過去と連続した人間なのかを頻繁に確認する必要がある。それが僕にとって、生きていくうえで大切なことだ。だから、「大事なもの」の存在を自分の中に信じる。流れの上流を、私は記憶していたい。
でも、西村氏は同作品の中で、流れを何も不変のものとして、運命論的に語らせていない。流れそのものも常に変わりうる。「自業自得」と言えるほど過去と現在は自分を起点に結びついていないのかもしれない。

諦観に基づいたこうしたセリフも、何か今の僕には残るものがあった。
流れがあってもなくても、流れに抗おうとすることすらも大きな流れの一部としての自分なのかもしれない。そしてその流れは常に変わる。

しばらくは今感じている不安や後悔とともに生きて行くと思う。
後悔なんてまさに自業自得の最たるものだ。しかし、それも含めての自分。私は自分の過去を大切にするが、参照の起点となる自分があいまいでとても大きなものなのかもしれない。だとしたら、いくら過去を振り返ったってそれは、参照先が無数に分散していて手に負えない試みとして失敗するのかもしれない。

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