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敏腕弁護士

井坂克治、新進気鋭の弁護士である。
井坂率いる弁護士事務所は、総勢20人ばかり。
12〜3人の弁護士の卵と7〜8人の事務員である。
業界でも敏腕弁護士として、名を馳せている。
当然、井坂自身は多忙を極め、寝ているか、仕事しているか、食事もついおろそかになり、偏りがちな食生活を余儀なくされている。
2ヶ月前までは、きちんとした朝食、遅くなってもバランスのとれた夕食を妻が作ってくれていた。

人生というものは、思わぬところに落し穴があるものである。
ある事件の勝訴で、依頼主である某有名企業の社長から、是非食事でもと料亭に誘われた。
そこまでは、よくある事だが、食事を始めて30分も経過したであろうか、件の社長の携帯が震える。
「あぁ、もしもし‥‥」
鷹揚に応えていたが、
「そうかぁ、それは少しまずいな。
分かった、横山君をすぐ寄越してくれ。あぁ私の車でな。」

「いやぁ先生、失礼しました。
ちょっとしたトラブルがありましてね‥」
『あっ、私の事なら大丈夫です。もう少し食事して、帰りますので、おかまいなく』
「先生、本当に申し訳ありません。この埋め合わせは必ずしますので‥‥」
と、その後20分も経たないうちに、襖の外から
「遅くなりました」
「おお、横山君か、入りたまえ。
先生、私はこれで失礼しますが、秘書の横山君に酒の相手をさせますので、ゆっくりしていって下さい。いやぁ、本当に申し訳ありません」
などと、井坂に反論の余地を与えず、あたふたと退出して行った。

井坂、むげに席を立つわけにもいかず、頭をかく。
「横山と申します。社長の非礼をどうかお許しください」
恭しくあたまを下げる。
『とんでもありません。私は何とも思っておりません。
申し遅れました。井坂です。
とんだ、貧乏くじをひかされましたね。
ここは、運が悪かったと諦めて、少しだけ食事のお付き合いをお願いします。
幸いというか、社長さんは飲んでばかりで殆ど食事には箸を付けていません。どうぞどうぞ』

井坂なりに、精一杯、横山を気遣った。
「井坂先生は、おやさしいんですね。お相手が私などで申し訳ありません」
と、卒なく酒をすすめてくる。
『ありがとう。
折角だから、横山さんも何か飲むといい、誰か呼びましょう』
「ワインを頂いてもいいですか?」
 
とりとめもない話をしながら、横山と名乗る女の勧められるまま酒を飲み、また女にもワインをすすめる。
 
「井坂さん、素敵なバーがあるんですけど、これからお付き合いいただけませんか?」
『あぁ、別に構わないけど‥』
 
「いいお店でしょ?」
カウンターのみ、熟年のバーテンダー1人の店である。
バーテンダー
『今日は、大変珍しいものが入ってますよ。』
「まさか、いつかお話しされてた30年物のマッカランですか?」
『おっしゃる通りです』
と、いったあたりまでは記憶がある‥‥
 
目覚めたのは、朝の4時過ぎ。
都心のホテルの一室だった。
かなり高級な部屋だった。
テーブルの上に、
「かなり、お疲れのようでしたので、先に失礼致します。
 横山   」
 
井坂は観念した。
結婚以来、無断での外泊は初めてである。
妻、由美子の父親は、法曹界では名の知られた男である。
そのせいかどうか、由美子はプライドが高い。
それ以外は、申し分の無い女だった。
 
自宅へ戻ると、テーブルの上に、離婚届けと、短いメモ書きがある。
「署名、捺印の上、ご投函ください。」
『やはりな‥‥』
 
井坂は、父親に連絡をとった。
「わはは、そうか、そんなことがあったのか。
男の甲斐性だよ、井坂君、気にする事はない。2〜3日もすれば戻ってくるよ」
いかにも豪放磊落な父親らしい反応だった。
しかし、それから何の連絡も無く、2か月が過ぎた。
井坂にしても、仕事に忙殺されたこともあるが、言い訳がましい連絡をするのもいささか抵抗があった。

そんなある日、久しぶりに大学時代のゼミの教授から、
『いやぁ、井坂君、悪いがまた1人君のところで、預かって欲しいんだが‥』
しばしばこの手の依頼はある。
その上、紹介してくるのは例外なく有能な事務員なので、井坂としても助かるのである。
今回も無口で、控えめであるが申し分無い。同僚の間でも評判は上々のようだ。
 
井坂が、仕事で遅くなると、
「熱いコーヒー、お持ちしましょうか?」
実に、タイミングよく、声をかけてくれる。
 
そして、今日も
『いつも、すまないな。
ありがとう。
君のいれてくれるコーヒーは、何か特別に美味いよ』
「ありがとうございます。奥様のいれるコーヒーより美味しいですか?」
「ん?あっまぁ、同じくらいかな?」
 
 
「そうかしら」

『えっ?!』

事務員は、ゆっくりと、頭に手をかけ、ウィッグをはずし、眼鏡を取った。
『ゆ、ゆ、由美子‥‥』
 


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