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十万倍速の男

十万倍速の男

藤堂は、長年勤めていた会社を今春定年退職した。
長い間、頑張って来たんだ、少し休ませてもらおう。
会社から再雇用の誘いがあったが、断った。
3ヶ月は、何にも縛られることの無い自由を大いに満喫し、快適な日々を過ごせた。
しかし、4ヶ月を過ぎたあたりから、暇を持て余すようになった。
『とりあえず、運動をかねて散歩でもするか‥‥』と、ひとつ日課を作ってみた。
とりあえず、行動することによって後の展開も変わってくるだろうという、サラリーマン生活で獲得した能力である。

ある日、いつもの散歩コースの交差点の赤信号で、足踏みしながら信号が変わるのを待っていると、対向車線を猛スピードで走ってくる黒塗りの車が目に入る。
『危ないな、これは赤信号を突っ切るぞ』
ふと右手を見ると、幼い子供二人が手をあげて横断歩道を渡って来る。
『危ない!確実にはねられる!』と思った瞬間、藤堂は無意識に子供を救うべくダッシュしていた。
しかし、タイミングとしては間に合うはずも無い。
『やはり無理か!』
と思った瞬間、車が止まった。
『ん‥‥どうして止まったんだ?』
しかも、運転手は左手に持ったスマホを凝視したままだ。
ともあれ、子供を安全な所まで避難させなければと思い、子供の方を見ると、驚いたことに子供の動きも止まっている。
しかも、歩く途中のあり得ない姿勢で止まっているではないか。
『な、なんだあ、どうしたと言うんだ‥‥』
落ち着いて、周囲を改めて見渡すと、
『す、全てが止まってるんじゃないか?』
『もしかして、時間が止まったのか?』
藤堂、その場にへたり込む。
どのくらいの間、そうしていただろうか。藤堂は、ふと我に帰る。
犬が時々そうするように、藤堂もブルブルッとと身体を震わせた。
もう一度、子供の方へ目をやると
車が子供達の真横まで来ている。
『危ない!』
藤堂は、もう一度ダッシュして二人の子供を抱き抱え、歩道まで走った。
振り返ると、車は子供達がいた場所まで移動している。
『止まっているんじゃない。スローモーションのように動いているんだ‥‥』
と、思った瞬間、元の喧騒がよみがえり、すべての動きが元通りになった。
『な、な、なんだったんだ‥‥』
耳のそばで子供の声が聞こえる
『おじちゃん、下ろしてぇ』
見ると、子供を抱きかかえたままだった。
『あっ、ごめんごめん』
藤堂は慌てて子供達を解放した。
少しの間、子供たちはキョトンとして藤堂を見あげていたが、すぐに元気よく走り去った。
周辺の大人たちも不思議な光景を目撃したかのような顔をしていたが、同じように通り過ぎて行く。

藤堂は放心したようにその場に立ちつくす。
 


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