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鴨長明は現代のミニマリスト⁉ 人生で本当に必要なものだけを形にした「小さな家の思想」【新刊ちょい読み】

人生の締めくくりを過ごすなら、どんな家がいいですか? 古典が教える「自分にとって必要最小限の、居心地のいい家での暮らし」のヒント。
                    『小さな家の思想』長尾重士著

6月16日刊行の文春新書より、新刊の冒頭「はじめに」をお届けします。「新刊ちょい読み」は文春新書の新刊をどこよりも早く紹介する企画です。立ち読みする感覚で、ぜひお楽しみいただければ幸いです。

「小さな家」を出発点に、私たちが暮らしの中で感じているものを考えてみたいと思いました。「小さな家」とは、人間が生きていくための最小限の家、建築という意味です。「小さな」にはつつましい、という意味も込めています。特別なものではなく、ありふれた家です。しかし、住む人があきらかな目的を持っているときに、「小さな家」は輝きを持ちます。「小さな家」は、住む人が自分の人生で本当に必要なものを形にしたものであり、そこで実現可能な生き方をあらわすものだといえます。

 古代以来、日本には「小さな家」の歴史があります。しかし、建築の歴史というと、これまではどうしても御殿、宮殿、あるいは寺院、神殿などの大建築が注目されてきました。簡単に建てられ、雨露をしのいで、ひととき暮らしを支え、いつのまにか解体されていく、庵いおりのような「小さな家」はなかなか歴史に残りにくいのです。

 そのなかで、「小さな家」について書かれた日本文学の古典があります。それが『方丈記』です。私が高校の教科書に載っていた『方丈記』に出逢ってから六十年ほど経ちますが、当時は「無常観」が強調され、建築としての方丈庵については、それ以上深く掘り下げられることはなかったと思います。それから何度も読み返すうちに、簡潔な表現で「小さな家」の思想がぎっしり詰ったみごとな作品だと考えるようになりました。

 そこで、『方丈記』を導きの糸として、私の専門である建築の立場から、「小さな家」というテーマで解読を試み、まとめてみました。

『方丈記』は災害を活写した文学作品としても知られています。著者である鴨長明は京の都を襲った大火や大地震などに直面し、そこから、山里に小さな庵、方丈庵を自ら建て、自らの死をいかに平静に迎えるかを描いています。後に詳しく述べるように、方丈庵には、長明の人生のエッセンスが込められていました。

 本書は、方丈庵を中核として、その前後の歴史にも目を向けています。ルーツともいえる西行など漂泊の修行者たちの庵を訪ね、長明以降の「小さな家」の系譜も追いかけてみました。そこでみえてきたのは、茶室や数寄屋造を経て、江戸時代の松尾芭蕉、良寛、葛飾北斎などの家にもつながる確かな流れのようなものでした。

 さらに海外に目を転じると、自立と内省を求め、自然の中で自ら家を建てて暮らしたヘンリー・デイヴィッド・ソローの森の家が視界に入ってきました。ソローの書いた『ウォールデン 森の生活』は、ナチュラリスト、ミニマリスト(必要最小限のもので暮らす人々)のバイブルとして、いまも世界中で愛読されています。そして、ル・コルビュジエの休暇小屋など、現代の「小さな家」についても、ラフスケッチを試みました。

 方丈庵やソローの森の家をみていくと、「小さな家」は、環境に対して意識的な家でもあることがわかってきます。家は必ず何らかの環境の中に建っていますが、「小さな家」に暮らすと、いっそう外部との緊密な関係が意識されます。屋外の空気、外光、水の流れ、風の動きが家の中にいても感じられる。それも「小さな家」の魅力のひとつです。

「小さな家」は、人間の暮らしが山川草木、また人文的な歴史、すなわち環境というよりほかはないトポスの力によって支えられていることを教えてくれます。そこには、目には見えない人と人のネットワークもふくまれます。

 前口上があまり長くなってもいけません。最後にひとつだけ。本書を読みながら、それぞれに、自分ならどんな「小さな家」を持ちたいか、思い浮かべていただけると嬉しく思います。書斎や秘密基地でもいい、親しい友人との語らいの空間でも構いません。自分なら、どこに、どんな居場所をつくりたいか、そして、そこには何を持ち込み、誰を招きたいか。

 それでは、およそ八百年前の先達、鴨長明の「小さな家」を訪ねてみたいと思います。


                         「はじめに」より


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