ミツバチ作戦@能登半島 経過報告Vol.1
こちらは2024年2月5日の鎌仲監督のFacebookの投稿です!
先日たちあがったミツバチ作戦@能登半島
現地の様子をご報告します
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1月28日の朝、辰野町を出て能登半島の支援活動をさせていただき、2月1日の夜に辰野に帰って来ました。
帰ってきたら、溜まったお仕事が沢山あって、報告が遅くなりました、ごめんなさい
ハイエースのバンにぎっしりと支援物資を積んで、ぶんぶんフィルムズのスタッフ岩田まき子と大工仕事もできる床暖房設備のオアシス住建の谷村仰さんの3人で行ってまいりました。
辰野から金沢経由で熊野金沢市議のメロメロポッチに寄りつつ、志賀町の拠点「Sun くる」へ。
この志賀町の拠点はもともと地元の漁師、田谷武博さんが福島の子どもたちの保養をしてきた場所。
「小さき声のカノン」を撮影していた滋賀県の保養現場に、大量のエビやカニを差し入れしてくれたこともありました。
今回は、田谷さんの地元も地震の被害を受け、田谷さんは当初から奔走されてきました。あちこちの避難所に田谷さんの同級生や友人たちがいて、そのネットワークのおかげで私たちもスムーズに物資を届けることができました。
また、岐阜の石徹白から「森の遊学舎」代表の大西琢也さんが支援に入ってくださっていて、現場のコーディネーションを担当なさっていたのですが、「凄腕」でした〜!!
人間力が半端ない。なぜか、あれがないかな? これが欲しいな〜、と呟くと瞬く間にそれらがあれよあれよと調達されるという、、、奇跡を起こす男でした〜〜笑
田谷さんの自宅兼、保養の宿舎にボランティアたちが雑魚寝の状態だったのだけど、田谷さんの実家(とてつもなく広い)をみんなでお掃除をして、そこに寝泊まりしつつ、支援の拠点にしようというプロジェクトがちょうど始まったタイミングでした。
お掃除の後は井戸掘りの業者さんたちが入り、私たちが帰る2月1日にはついにお水が出た!
私と岩田はボランティアさんたちのまかないをしつつ、避難所を回って、御用聞き。
毎日、10人から15人ぐらいの朝、昼、晩の賄いをし続けてきました。水が出ないので、調理も大変。だからと言って、みんな食べないとエネルギーも出ないので、せっせせっせとお料理してきました。
志賀町の門前(もんぜん)劔地(つるぎぢ)という地区に小さな避難所がいくつも開設されていて、小さいところには支援物資も届きにくい傾向があり、そこをこまめにニーズを聞き取りして、持って行ったものや足りないものは地元で買い足してお届けをしてきました。
各避難所にはまかない担当がいて、厨房で避難している人たちのために調理をしてくださっているのですが、その食材や調味料が不足がち。毎日何十人もの食事を作るのですから、そりゃそうですよね。その方達もまた避難者でもあるのです。
物凄いエネルギーで大地が揺れたであろうことを思わせる
破壊の痕跡がなまなましく、沢山の家が倒壊していました。
倒壊を免れても、ほとんどの家の屋根が壊れ、瓦があちこちに堆積しています。
避難所に行けば避難所ならではの、自宅でしのげば、またそれはそれで大変なことが山積みです。
田谷さんの実家は「Inspire Base」と名付けられ、
地域で自宅避難している方達の拠り所となるべく整備が進んでいます。
また一方で、ボランティアが気持ちよく宿泊できるようになれば、
これから必要なマンパワーが賄えます。
一緒に行ってくれた谷村さんが知り合いのボイラー屋さんに連絡をしてくれ、井戸から水が出たら今度はお風呂に入れるようにしようと早速、小松の会社から社長さんがすぐに駆けつけてくれ、薪ボイラーが導入されることになりました。
田谷さんは、もう20日も風呂に入ってないよ、と言いつつ
自衛隊が開設したお風呂に出かけていきました。
支援物資を集積している場所で働いていた輪島市職員も23日間風呂に入ってない、、と言ってました。
老人施設も避難所になっていて、そこのスタッフの方が寝る布団がない、、と。発災から一月近く経とうとしているのに、それまでどうやって寝てたの?とびっくりするやら、いかに大変な状況だったのか、思いやられました。
今回、「ミツバチ作戦@能登半島」と名付けたささやかな呼びかけに沢山の方々がご支援をしてくださって、感動でした。
本当に被災地の人々を心配し、何かできることをしたいという
気持ちを持った方とつながれたことはありがたいことでした。 愛を湧かす、というのかな、、愛を引き出す出来事でも今回はあったかな。そのみなさんのお気持ちを背負って、お届けしてきました!
まずは報告、第一弾です。
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ぶんさぽでは定期的にミツバチ作戦@能登半島 経過報告を掲載していきます。
息の長い支援をよろしくお願いします