旅の記録2024.10/17~20
17日の夜、仕事を切り上げて会社を飛び出して、家に飛んで帰る。予定になかった40分の残業が、僕から余裕を少しだけ奪っていた。
前週の三連休に荷物はまとめておいた。あとはシャワーを浴びて着替えて、深夜バスの出る東京駅へ向かうだけ、のはずだったが、その40分の残業が地味に痛い。出発前に何か腹に入れたかったのに、選択肢ががくん、と減った。
東京駅に着いたのは20:45分頃。荷物をまとめる間に旅のシュミレーションを何度も何度も重ねていたが、最終的には「スマホと財布があればどーとでもなる」のパッションマッチョイズムを抱いてカバンの中身を確認することも無く家を出た。
東京駅近くのすき家で牛丼を食べ(すき家に入るのは10年以上ぶりだった)、鍛治橋駐車場で深夜バスを待つ。23:00発の盛岡行のバスは定刻通りに来てくれた。待たされるのはソワソワして、落ち着かない。
安さに目が眩み、4列シートのバスを選んでいたが、隣の席との間にカーテンがかかるタイプのオリオンバスの車両だった。
アイマスクを気まぐれで持っていったのが正解で、隣の席のおっさんが一生最大光量でスマホを弄っていた。あれは1種のテロ行為だろうと思った。
3度の休憩。佐野SA、安達太良SA、あとひとつはわからない。
安達太良SAを出て直ぐに腹痛に襲われ、嫌な予感を感じながら眠りにつく。3つ目のSAでトイレに駆け込む。思い返すと、このあたりから体が冷えてたのだと思う。
深夜バスに乗っている間、イヤホンから周防パトラのASMRを流しっぱなしにしていた。最初から耳の周りでいろんな音を流しておくと案外寝れるのでは?と思って挑戦した。
7:40、定刻通りに盛岡駅到着。思ったより眠れたが、体は重たい。多目的トイレを拝借してジャージを着替えてチノパンとデニムジャケットに着替え、ボストンバッグをコインロッカーにぶちこむ。
このスタイルは深夜バスでの旅を繰り返すことで見つけた必勝法みたいなもので、なるべくリラックスした体勢でバスに乗っておき、到着してから気合いを入れ直すもとい着替えという休憩をとる口実をつくる。栄えている都市に向かうのであれば、到着した駅近くのネカフェにでも転がり込んで一眠りしてから遊びに行くのだが、盛岡駅前にそんな施設は無い。
タリーズコーヒーのホットドッグセットとホットのコーヒーが胃に染み渡るのを感じながら、原敬記念館へ徒歩で向かう。
東京の朝はいまは18~20度くらいあるのだが、盛岡のこの朝は8度。ガツンと冷える。肌着にエアリズムを着てきたのは失敗だったかもしれない。冷えから来ると思われる腹痛が止まらない。
盛岡駅から原敬記念館まで徒歩30分。どうしても我慢できず、公園内のトイレに駆け込む。そしてそこで僕は、財政に苦しむ地方自治体の現状を見た。
トイレットペーパーが、無い。
盗まれている、とかならまだいい。使われきっていて、無いのだ。芯だけがいくつもいくつも投げ捨てられている。最後に清掃が入ったのが4日前です、と言われても納得できるような荒れ具合。女子トイレにも余ってないか突入しようかと思ったが、やめた。入口そばにまで芯が転がって捨ててあるのが見えた。この状況で充実した紙のあるトイレになっているとは思えなかった。
万事休す。
大腸は持ち主の意志とは関係なく異物を排出せんと激しい蠕動運動を繰り返し、肛門括約筋の限界が果てしなく近づいていた。
辺りを見渡すと、車の出入りがあるホームセンターを発見した。時刻は8:50。ホームセンターが営業開始していてもおかしくない時間。道路を渡りそのホームセンターへ駆け込むと、綺麗に清掃されたトイレにたどり着けた。
ありがとうホームセンターサンデー。
原敬記念館にたどり着いたのは、9:10ごろ。
僕が記念館に着いたころ、バスから小学生が降りてきた。岩手の小学生は原敬記念館に勉強に来るとは聞いたことがあったが、実際にその現場に居合わせることになるとは思わなかった。80人くらいいただろうか。
少年少女たちはグループに分かれ、記念館職員の解説を聞きながら原敬について学んでいたので、僕はそのグループとグループの間に入って邪魔にならないように見学した。
学生時代に原敬について学んでいたので、多少は心得があるつもりだったが、グループの子どもたちに職員が解説する声が漏れ聞こえてくるたび、「へえ~!そんなことあったのか」と感心させてもらった。「わんこそばの起源は原敬にあるかもしれない」など。
小学生のうちに原敬について学ぶことは、人間の教育上非常に良いことかもしれない。
人間が生きていくうえで必要なものとして、「プライド」があると思う。「私たちの地元にはこんなにすごい人がいたんだよ」という、プライドの拠り所たりえるのが原敬という人間だと思う。原敬の政治家としての手腕は人によって評価の分かれるところだが、人間性の部分については圧倒的にお手本にしても差し支えないと思う。どんな些細な金銭のやり取りであっても書き留めておき、常に清廉でいたところ。勤勉で語学に堪能、その語学力を生かして得た多数の知見。敵対していたはずの人物からも信頼を勝ち取るほどの圧倒的な社交のバランス力。
それらを学ぶことは、きっと人生におけるプライドの根源をひとつ、増やすことにつなげられると思う。
話が逸れた。
原敬記念館で1時間ほど見学すると、原敬が新聞記者時代に「でたらめ記者」というペンネームで書いた当時の西洋と日本の文化や考え方の違いを面白く書いたエッセイのような記事をまとめて発刊された「でたらめ」という単行本をお土産に買った。
記念館を出ると、近隣の幼稚園の子どもたちが松ぼっくり集めかなにかをしていて、それもまたかわいらしかった。「ああ、あのとき行ったあそこって原敬って人の記念館だったんだ」ってなるんだな。
その後、当初の予定では東の方へ向かい「もりおか町屋物語館」に行こうと思っていたが、この時点ですでに頭がぼんやりとしていた。深夜バスから降りるとただの寝不足よりも重たいデバフがかかったようになる。なまじ寝れたり体を休められてしまっている分、多少動けてしまう。しかしHPゲージは真っ赤な状態からの1日スタートのため、僕は原敬記念館からもりおか町屋物語館への徒歩40分程度の道のりに軽く絶望を感じていた。
一人旅のいいところは、こういうときに容赦なく旅程を変更できること。旅程内最東端のもりおか町屋物語館を諦めて、盛岡城に向かうことにする。北上川をふたたび渡って信号で立ち止まったところで、「原敬墓所」の案内看板を見つけた。
当初の予定では、もりおか町屋物語館→大慈寺と歩いて原敬墓所にお参りに行こうと思っていた。もりおか町屋物語館を諦めたことでなんとなく大慈寺に向かうのもやめるつもりになっていた。しかし、看板が見えたので歩いてみると案外近く、歩けてしまった。
原敬夫妻の墓は、静かなところにあった。着物を着た女性が、原敬の墓をきれいにしていた。
無事に原敬・淺夫妻のお墓に両手を合わせることができたころ、空腹が限界になった。
グーグルマップをざっと見て、近くのお店をなんとなく調べる。
「蕎麦将軍」という名前にそこはかとなく惹かれて歩いていってみると、綺麗でおしゃれな店内のお店がそこにあった。
時刻は11:30。ほとんど待たずに席に着いたが、お客さんが次々とやってくる。
「とうめしセット」を注文した。あまじょっぱく煮た豆腐と半熟卵をごはんの上に乗せたどんぶりと、ざるそば、かき揚げとお漬物が盆に乗ってやってきた。
豆腐は白い部分がなくなるほどに煮込まれていて、匙で軽く押すとダシが染み出すほど。ごはんによく合い、非常に美味。続いてそばを啜る。強烈な蕎麦の香りと、つけつゆのほのかな柑橘の香りが混ざり合って鼻腔をくすぐる。かき揚げはいんげんとさつまいも。
非常に美味。ああ、もう一度食べに行きたい。
美味しい食事を摂り、多少元気になった。
10年くらい前、「宮島を一周しよう」というノリになってハイキングしていたとき、右ひざを痛めたことがある。それ以来歩き続けると右ひざが痛む。この食事をした時点での歩数が15000歩程度だったが、嫌な違和感がずっと右ひざに来ていた。
食事を終えて12:00。ホテルのチェックインは15:00なので、あと3時間をどう過ごすか。眠たいわ膝がおかしいわでだいぶ限界だったのがこのころだった。
盛岡という街を探索するには徒歩はちとつらい。岩手県の県庁所在地ではあるが、盛岡は別に観光地というわけではないように思う。歴史のある街だが、歴史的建造物が多く残るわけではない。どちらかといえば、「盛岡で暮らしている人の生活にお邪魔する」というイメージの方がつよい。
観光客の利便性があがるようなサービスはあまりない(巡回バスは非常に便利だが、そこに住む人たちのインフラの側面が大きいように思った。だから、あまりそういう場所に介入しないようにした結果、徒歩移動が基本になっている。
天気が悪くなってきて、雨が降りそうだった。腹痛も時折やってきていて、余裕のない旅行になっていた。
盛岡公園近くの「岩手銀行」を見学させてもらう。明治期に建てられた銀行の建物を保全して現代に残している。なんなら10数年前まで現役の銀行だった建物は、非常に美しくよく手入れが行き届いていて、自分の生きている世界が過去と地続きなのを肌で感じさせた。
古いものを見る良さは、究極的にはそれだ。
今と過去が地続きであることを体感する。
そういう意味で、今は絶滅した恐竜の化石を観るのも、古い建物を観るのも、僕の中では本質的に同じだ。
岩手銀行の良さは、「重要文化財が現役の銀行で普通に使われていた」という事だと思う。歴史の流れを体験できる施設だった。
そしてそのまま流れるように「もりおか歴史文化館」に入った。ここにも小学生がいた。低学年と思われる彼らは、ここで何を勉強したのだろう。僕は正直、ここに来た時点でかなり体力の限界だった。
企画展「城の跡」を見学。今はもう天守が無くなってしまい写真の残っていない盛岡城の天守を、残された図面や絵図などから在りし日の姿を探る企画。
天守が残されているというのは幸運なことだし、今も観ることができる城は大切にしたいし、いずれ全部行きたいものだ。
もりおか歴史文化館はその名の通り、主に縄文~江戸くらいまで、城を基準とした盛岡の歴史が学べる場所、だと思うが、このころに撮った写真はどれもピンボケしており、カメラを構える力もなくなり出していたことがわかる。
見学を終えて、13時過ぎ。僕は盛岡公園のベンチで力尽きた。
昼過ぎで、寒かった盛岡も暖かさが出ていた。天気予報を信じれば、気温は22度程度あったはず。風も穏やかで、僕はベンチに腰掛け、「このあとどーするかな」などとぼんやり考えるうちに、意識が飛んだ。
ふと気が付くと30分ほど時間が経っていて、穏やかな盛岡の空気に自分がすっかり脱力していたことに気づいた。
思えば、今年に入ってからの僕はいっぱいいっぱいになっていたように思う。
余裕がないというか、外部からのインプットに飲み込まれて自分が締め付けられているような感覚。
それが、深夜バスで旅行に出て、自分で観ようと思った場所を徒歩で歩いて回って、その間インターネットから遮断されたままで、とにかく「外」と「自分」のふたつしかない状況は、思いがけず僕をリラックスさせていたのだと思う。
インターネットに生かされてきている自覚はある。でも、自分をそこに置きすぎると、結果としてすべてがインターネット中心になりがちだ。なぜなら、時間や金銭などのリソースを簡単に注ぎ込めてしまうのがインターネットだ。それを一切忘れて、自分の行きたい場所だけ、自分のことだけを考えて、体力がなくなってふらふらになってそれ以外のことを考える余裕がなくなったときにはじめて、僕は「体の力が抜けた」のだと思う。
それから、僕はふらふらと歩いてスタバに入った。暖かい部屋で温かい飲み物飲んでたら、またしても意識が遠くなりそうになったので、早々に席を立った。
盛岡の商店街を歩いていると、今はどんどん減っている「街の本屋さん」があった。地元の人間による、地元のための本屋というような、穏やかな空気の流れた小さな本屋。しばし中を眺める。東京という街が現在進行形で失っているものが、まだここには残っていて、やがて失われるのだろうと思う。若者は本屋にはいなかった。平日の14時過ぎだ、それも当然なのだが。
駅のコインロッカーに預けておいたボストンバッグを回収して、よたよたとホテルにチェックインした。
ホテルにチェックインしたころには、時刻は16時になっていた。ぽつりぽつりと降ってきた雨や、周辺の飲食店が18時に閉まってしまうことを踏まえて、夕食をとることにした。
ホテルから程近くの店でじゃじゃ麺を食べた。盛岡に来たならば、絶対に食べたいと思っていた。おばあさんが一人で店番をしていた。夕方のワイドショーをぼんやり眺めているところにお邪魔して、チャーシューじゃじゃ麺を注文。
非常に美味しかった。帰り際に思わず「とってもおいしかったです」と声をかけてしまうほどには美味しかった。
派手な料理ではないが、優しい料理。盛岡に来たらぜひ食べてみてほしい。
じゃじゃ麺を食べたあと、翌日の朝食代わりのパンをコンビニで購入して、17時ごろ宿に戻った。
すぐにシャワーを浴びて、そのまま翌朝5時半ごろまで、12時間ほど眠った。
10月19日。
盛岡での旅程は前日までかなりあれこれ調べて練っていたのに比べて、19日の旅程は「朝7時の新幹線に乗って新青森へ行き、9時前に弘前駅に着く」ということと、「22時の深夜バスで帰京する」という2点しか決まっていなかった。というか、弘前に行くことさえ自分ではよくわかっていないまま、ノリで決めた。
盛岡からトンボ帰りするか、宮城や福島を経由するか、あれこれ考えていたが、「青森って足を踏み入れたこと無いな」程度の気持ちで「じゃあ残存天守観に行こうか」と、それくらいの考えで決めていた。
新青森から奥羽本線に乗り換えて、弘前へ向かう。
東京の電車の感覚に慣れていると、自分でドアを開けたり、ダイヤに空白の方が多かったりすることに衝撃を受ける。利用客も決して多くなく(土曜日の朝早いのだから当然と言えば当然だ)、少しだけ寂しさを感じた。
弘前に着くと、時刻は8:40。昨晩買ったパンをかじりながら到着したので、荷物を駅のロッカーに預けてすぐに散策を始めた。
天気はあいにくの雨。
僕は昔からでかけるとよく雨が降る。小学生の修学旅行の日光も雨だったし、中学の時の京都も雨が降っていた。高校の修学旅行ではぼっちすぎてずっと独りぼっちだったし、それ以降も鎌倉、京都、広島、仙台、盛岡、草津、大洗と、どこか遠出するたびに雨に降られている。
そして、今回もしっかり降られたというわけ。
スピリチュアルな知り合いには「君には龍神の加護があるね」と言われたこともあり、根源が小学生男子と大差がない僕はまんざらでもない。
雨の中をよたよた歩いて弘前城を目指す。どう見ても観光で盛り上げようという都市の雰囲気ではない。そこいらじゅうリンゴプッシュだらけなのかな、と曖昧な想像をしていった。確かに駅の中にはリンゴプッシュが激しかった。しかし、駅から3分歩いて思ったのは、「周辺に比べて人口の少し多い都市」ということ。近隣に住む方々が休日に出かけて買い物したり、遊んだりする場所として選ばれる街、という雰囲気。
そこにのこのこと外からお邪魔するのだから、僕はやはりよい旅人でいたかった。
弘前城に着くと、いよいよ雨が強くなってきた。追手門から入り、公園内を進んで天守近くでチケットを購入。すると、雨が激しさを増し、天守に着くまでのわずか数分の間に豪雨になっていた。
逃げ込むように天守に入ったが、僕はそこで自分が雨天で回りが見えていなかったことを知った。
弘前城は、いま石垣の大修復中であり、足場が組まれ重機も堀にいて、工事中であることは見ただけで分かった。
しかし、天守を動かしているだなんて知らなかった。本来の天守の位置から動かして今の位置にあるのは今だけの特別仕様だった。なんてラッキーなんだ。しかも雨も降っている。
そういう風に自己陶酔しながらよろよろと天守を後にして、弘前市立博物館に転がり込む。魯山人の企画展がやっていたが、あいにく僕は魯山人が誰だかよくわかっていない。あれか?なんか川の漢詩のひと……とか思っていたがそれは魯迅の間違いだし、川の漢詩を読んだのは李白だった。もうなんにもわからない何かを見に僕はわざわざ足を運んだことになる。
観てもなんにもわからない陶器の皿や器が展示してあったが、さっぱりわからない。
それでも、魯山人が残した言葉が展示してあった。意訳すると、「独断で生きてないと生きた心地がしない、人に流されないで自分で判断して生きていたい」的な言葉を残していて、これは良いな、ちょっと芸術家っぽくていいな、と思った。だから魯山人は芸術家なんだよ。
弘前市立博物館を後にして、僕は公園の前にある「青森銀行」を観に行った。外見からも美しい。これで奇しくも盛岡と弘前でどちらも城と銀行を見たことになる。
青森銀行は堀江佐吉という、青森が誇る伝説の大工だ。この佐吉、非常にすさまじい経歴の持ち主。江戸時代に生まれ、大工として働く中で洋風建築に感銘を受けて独学で建築方法を会得。そのうえで和風建築と洋風建築をブレンドした美しい建築を次々と生み出していった。人々はその建物を大切に大切にしてきた。そしてそれを、現代に生きる僕が観ることができるのである。ありがとう。
青森銀行のあまりの美しさに、見れる限りの建築を見て帰ることを決めた僕は、続けて旧弘前市立図書館や旧東奥義塾外人教師館を眺めた。旧東奥義塾外人教師館は1階でカフェが営業していて、実際にコーヒーや軽食を楽しめる。
歴史的建造物が実際に使われていて、見学だけでなくひと時を過ごせるというのはとっても素敵なことだと思うのだ。
弘前城と明治期の建築3つをはしごして、お腹が空いた僕は、うろうろと弘前市内を歩き回って回らないお寿司屋さんのランチ営業に入った。青森のお寿司屋さんなんてなに喰ったって美味いだろー!!という気持ちで入ったのだが、あとでお店を調べたら江戸前寿司のお店だった。そういうこともある。
美味しい海鮮丼をいただいて、時刻は13時。
深夜バスの発車時刻が22時20分。
僕はすべての目的を達成すると同時に、体力が限界に来てしまった。またしてもスタバでお茶にして、ぼんやり過ごした。
あとは22時ごろに弘前バスターミナルにいればいいだけ。
もう体力的にも精神的にもどこかを見物する元気はなかった。
でもひとっ風呂浴びたくて、30分ほど歩いて日帰り入浴のできる温泉で体を休め、その近くにあった「一幸食堂」という地元の食堂でチキンカツ定食を食べて、ひたすらボーっと過ごした。
思えば、「ボーっとする」という時間が足りていなかった。スマホの充電もバスに乗るまでに切れたら電子のチケットが見せられないし、予備のバッテリーも使い切っていたのでネットにつながることもなく、周辺の施設に入ろうにもすでにボストンバッグを持っているのであまりうろうろしたくもない。
弘前は日が落ちてからガツンと冷えていたので、風呂上りにあまり歩き回るとシンプルに風邪を引く可能性もあったし、19時ごろから22時まで、3時間ほどボーっと過ごした。
自分の人生を見つめ直す、というと大げさかもしれないが、自分の家から遠く500㎞以上離れた土地で、知り合いもなく、店は次々と閉まり、ネットも使えず、手元に文庫本も持っておらず、何もすることがないような時間。
そんな瞬間、今までにあったのだろうか?と思えるほど、心穏やかな時間。
弘前という街は、僕の印象で言えば「江戸時代には城下町として栄え、明治期には軍部の本拠地もあり栄え、軍隊が解散した後に緩やかに人が減っていった街」という風に思えた。観光地としての盛り上がりを作ろうにも、本州でもかなりの北部にあるうえ、交通の便も良いとは言えない。
穏やかな街だと言えば聞こえはいいが、同じ景色を維持できるだけの人間が15年、20年後にいるのだろうか?どの施設に行っても受付や案内してくれたのは70歳は超えているように見えるご老人ばかりだった。
僕らが無頓着に「美しい景色」「歴史ある建造物」を見物しに来る間に、そこに生きる人々には暮らしがあり、そしてその生活は緩やかに細くなっているのではないか。
そんなような気がしてならなかった。
新青森から弘前へ向かう電車。途中の駅は駅名の書かれた看板は修理もされていなかった。
弘前の商店街は、営業中の店よりもシャッターの閉じた店の方が多かった。
駅から弘前城へ続く、一番盛り上がりそうな道でホテルが営業を終了していた。
僕がいま、こうして「観光に行ってきました!楽しかったです!」と無邪気なことを言う間に、僕の生きる日本という国は、ゆっくりと滅びに向かっている。
若い世代には薄い絶望感が常に漂っている。出世を疎む者が増えている。野心のない者も増えている。
無邪気に旅行に行けるものが、無邪気に楽しんで、たくさんお金を使うべきだ。それはもう、十分に分かっている。
わかっているのだが、移動費を惜しんで深夜バスで往復して、宿も素泊まりで泊ったような僕が、そんな無邪気なことを言えるだろうか?きっと無理だろう。
僕は僕で、休日に旅行を謳歌しながら、頭の片隅で明日の生活のことをうすぼんやりと思い浮かべている。
自分の生活を常に疑問視している。
原敬は「寶積」という言葉を好んだ。色々な解釈の含まれる言葉だが、原はこの言葉に「人に尽くして見返りを求めず」という意味を込めていたとされている。
今、この時代にそれだけの心意気で生きることができる人間が、どれだけいるだろう。自分を大切にすることが第一のこの時代に、寶積の言葉を掲げて生きていける人間など、いるのだろうか。
楽しい旅行になるはずの時間で、あれこれ考えこんでしまった。
そうはいっても、旅先で観たもの、読んだもの、聞いたこと、すべてとっても楽しかった。
学生時代から好きだった原敬の記念館の念願の2回目にも行けたし、ずっと食べたかったじゃじゃ麺も食べられたし、日本最北の現存天守も観れたし、水曜どうでしょう班が乗った「ノクターン号」の後継便にも乗れたし、「きになるりんご」と「りんごクーヘン」も買ってこれた。帰ってきて僕は普通にハッピーだったし、これからもハッピーな旅を繰り返していきたい。
願わくば、次は彼女や嫁と一緒に旅に行きたいものだ……。
またぜひ。