西夏語訳『入菩提行論』第2章第1節(中編2)【西夏語公開自主ゼミ 第3回】
西夏語訳『入菩提行論』第2章第1節第2句を読みます。図とSolonin et al. (2024: 54)の校訂結果を再掲します。
𗋕 𘏨 𘜶 𗤶 𗜈 𗧯 𘔼
172D5 183E8 18736 17936 17708 179EF 1853C
2019 5655 4457 2518 4401 2135 2484
𗱕 𗌮 𗆐 𘓁 𗩾 𗤓 𗹙
17C55 1732E 17190 184C1 17A7E 17913 17E59
0968 1543 2373 4444 2091 3228 0467
𘓨 𗝡 𗤋 𘏨 𗣼 𗫨 𘈷
184E8 17761 1790B 183E8 178FC 17AE8 18237
1275 4321 2194 5655 2748 3613 1567
𘉐 𗗚 𘜔 𗗙 𘞌 𘈉 𗧓
18250 175DA 18714 175D9 1878C 18209 179D3
4587 0661 0497 1139 0902 3525 2098
前回までのお話
前回は第1句の字種の同定作業が終わり、そしてそれとほぼ同時に第1句の和訳の候補が6通り挙がりました。機械で印刷されたわけでもデジタル化されたわけでもない字を正確に読み取ろうとすると、色々なことを考えながら読まなくてはなりませんが、その字種同定のために考えた内容が句や文の全体の意味の理解に繋がっていますね、といったお話をした後、「でも「現代人が作った辞書を検討する」という大切な作業が本当は必要で、それはもう少ししてゼミが軌道に乗ってからやりましょう」と述べたところで終わったのでした。
第2句第1字
草冠の上に「フ」のような筆画が乗っかっています。「フ」の横画がやや薄くなって見づらいですが、西夏文字に頻出する要素なので、慣れればすぐに検討がつきます。そして左下は縦画。右下は「ヒ」のような筆画。
第1回で取り上げた四角号碼を使いましょう。最初の4桁は1721となります。そして左下と右下の間には交差が1つあるので、残りの2桁は40。172140で探すと、合計6字が該当します。するとほぼ迷うことなく𗱕(「諸々の~」。17C55、0968)と決定できます。これは接頭辞的に使われ、事物が複数であることを表します。日本語でも「諸事情」とか「諸君」、「諸行」などといいますね。
第2句第2字・第3字
第2字に進みましょう。左上と左下に、西夏文字の水偏のような筆画(もしくは、𗤶(「心」17936、2518)の字の中央部に似た筆画が見られます。右上には、ふゆがしら(「冬」の上部)のような筆画が見られますが、これは「く・ノ」と書かれる2画の要素です(2018年以前は、専門家も含めた現代人は、みな「ノ・メ」の3画で書いていました)。右下は、「コ」を左回りに90度回したものを、二本線で打ち消したかのような形をしています。
実はこの字は、字書ごとに筆画の解釈が異なっており、李範文先生の『夏漢字典』・『簡明夏漢字典』では177550、賈常業先生の『西夏文字典』と韓小忙先生の『西夏文詞典』では277550となっています。厄介な話ですが、こういうこともあります。
とにかく、辞書をひくと「𗌮(「真の、実の」。1732E、1543)」という字が見つかります。ここで注意したいのは、「𗌭(「(条件節)~ならば」。1732D、1542)」との混同です。どちらも常用されます。この区別の仕方については以前にXでポストをしたことがあります:
見分け方は上に引用した通りです。さしあたっては、横画1本の有無を確認するのが一番手っ取り早いでしょう。
さて、第3字の検討に移りましょう……と言いたいところですが、実はもう答えが出てしまいました。引用先のポストで書いた二音節語「如来」の後部要素「𗆐(「来る」。17190、2373)」です。「𗌮𗆐」は「如来」と直ちに訳して差し支えないでしょう(訳語を一対一対応させられるのは、西夏語の「𗌮𗆐」も日本語の「如来」も、翻訳で生まれた言葉だからです)。この二音節語は、仏典を読んでいたら何百回と出てきます。書けるようになる前から読めるようになる西夏文字の代表例といえるでしょう。幼稚園児が「鬼」とか「滅」とか「刃」といった字を、平仮名の「ま」の最後を左回りに書くか右回りに書くかちょっと迷うことがあるくらいの学習段階にあるのに、どんどん読めてしまうという現象と似ていますね。もう少し前の子供なら「遊」や「戯」などが読めていた記憶があります。
ちなみに、字義が「来る」と推定される字はいくつかあります。その意味上の違いを考察するのはかなり難しいです。こうした話は、「現代人の辞書を疑う」というタスクをゼミで始めてから、再び論ずることにしましょう。
とにかく、第1字から第3字までで「諸々の如来」という意味だと分かりました。次に進みましょう。
第2句第4字
第4字は左上の筆画が分かりにくいかもしれません。ですが、何となく縦画が2、3本の横画を貫いていそうだな、と当たりをつることができるかも知れません。つまり四角号碼の最初のコードは5です。たとえ推測できなかったとしても気にしないでください。この字もどのみち何度も出てきて覚えてしまいますから。
右上は左払い。左下は𗤶(「心」17936、2518)の字の中央部のような筆画。右下は「メ」のような交差。5274とコード化できます。そして左下と右下の間には、" ┓ "のような筆画が二本の横線を貫いているのが確認できます。なので補助的コードは50です(左半分を貫いている縦画は、左上の「5」ですでにコード化されていることに注意してください)。というわけで、527450を探すと、𘓁(184C1、4444)という字が見つかります。
この字は単独で使うと「~、および~」(並列)という、具体的な意味よりもむしろ文法的な役割を担う言葉(専門的には機能語(functional word)といいます)を指します。以前に「ひとくち西夏語」で投稿したポストを引用しておきます:
(下図で示したように、より複雑な構文を作ることもありますが、いまは省略します。後で見るように𘓁(184C1、4444)の前も後も名詞なので、並列の意味だと確定できるのです)
ちょっと注意を要するのは、この字の字形がかつては正確に認識されていなかったということです。「今昔文字鏡」という、その道の人には有名なアプリケーションが20世紀末に生まれ、2001年には西夏文字を表示したり入力したりすることができるようになりました。機会があれば改めて話題にしますが、ともかく、その今昔文字鏡の「文字鏡フォント」では、左上が「米」から左払いと右払いを取ったような形になっているのです。最新版(最終版)の文字鏡フォントを見る限り、同じ要素を共有している他の字はきちんと表示されるのですが、不思議な話です。とにかく文字鏡フォントを使った文献を読む際には注意しましょう(同フォントは権利関係が複雑だと仄聞しましたので、念のため、字形の画像を貼るのはやめておきます)。
第2句第5字
字形がちょっと複雑です。明らかに字とは無関係なシミがついているのでちょっと困りますが、影印は鮮明であり、落ち着いて観察すればコード化できます。左上は「ノ」すなわち左払い。右上は横画。左下は見にくいですが、「メ」すなわち交叉。右下は「ヒ(上へのはね有り)」。4桁のコードは2141です。左下の交叉の右には、横画を貫いていない縦画があります。右下の筆画の左にも同様に、横画を貫いていない縦画があります。従って補助的コードは22です。
では214122で検索してみましょう。20弱の候補が出てきます。右側中央の「㐄」を左右反転させたような筆画が特徴的なので、これを手掛かりに絞り込むと、𗩾(「最も」。17A7E、2091)が見つかるはずです。これも常用字です。また「ひとくち西夏語」から引用しておきます:
西夏語では副詞が前から修飾します。なので次は形容詞や動詞か、もしくは長い句が来るかな、と予測しながら読み進めることになります。
第2句第6字
こちらも鮮明です。左部は「ノノメ」、右部は「コ」を90度反時計回りに回した筆画の中に「ノノメ」が入っています。左上は払い、右上は角、左下は交叉、右下は縦画。左下の交叉の右には縦画、右下の縦画の左には交叉。よって、四角号碼のコードは274224です。7字が該当し、スムーズに𗤓(「妙(優れた)」。17913、3228)と決定できることでしょう。これも常用される字です。
この字についても、以前にXで解説しました。数詞の4を表す字𗥃(17943、2205)との混同に気をつける必要があります:
手書きだととくにはっきりしますが、𗤓(17913、3228)の最終画の右払いの筆運びが、まさに「人」や「大」の最終画のそれです。一方で、𗥃(17943、2205)の最終画は、「ノノメ」が左端に位置する場合のものとよく似ています。この書き分けは意図的であると考えられます。こうした運筆の機微というか、筆意を汲み取ることができるのは、手書きの資料を研究する意義であろうと思います。
さて、第5字から第6字までで「最も優れた」という意味だと推定できます。仏教の知識がある方の脳裏には、この時点で「妙法」とか「サッダルマ」といった言葉がちらついているかもしれません。
第2句第7字
句末の字を見ていきましょう。左上がかすれていますが、これは横画です。右上も横画。左下は縦画3本。右下は縦画からのはねです。左下と右下の間の筆画が読み取りにくいと感ずるかも知れません。四角号碼のコードの最初の4桁は1191となります。補助的コードを読み取れなくても、6字に絞り込めます。そして影印と照らし合わせると、やはりスムーズに𗹙(「法」。17E59、0467)と特定できます。
この字についてもXで解説したので引用しておきます。さっきから常用字ばかり出てくるせいか、自分の過去の解説を活用する機会が多いですね。
第5字と第6字で「最も優れた~」とあるので、この場合は「教え」と解するのが自然でしょう。西夏語では、特に定型化した表現の場合、形容詞が前から修飾する例もありますので、第5字から第7字までを「最も優れた教え」と解釈することができます。
第2句のまとめ:動詞はどこに行った?
以上で第2句を読み終えました。全体を通して読むと、「諸如来および最も優れた教え」となります。
ただ、ちょっと落ち着きませんね。如来や教えが一体何なのか、はっきりしません。如来や教え“が”どうだこうだと言いたいのか、それとも如来や教え“を”あれこれすると言いたいのか、宙ぶらりんのままです。西夏語では名詞句の格が明示されないことはよくあります。7字1句という制約下で訳出された文なので、句単独で読んでも意味が分からなくても致し方ありません。こうした制約の有無にかかわらず、いえ、西夏語に限らず、意味が決定できないまま読み進めなければならないことは、文献資料の釈読ではよくあることです。
というわけで次回以降、第3句、第4句を読みすすめていきましょう。今回はこれくらいで終わりにしたいと思います。ここまでお読みくださりどうもありがとうございます。