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西夏語訳『入菩提行論』第2章第1節(中編1)【西夏語公開自主ゼミ 第2回】

 今度こそ、西夏語訳『入菩提行論』第2章第1節を読みます。前回は前提知識の説明で終わってしまいました。校訂を行いましょう。図とSolonin et al. (2024: 54)の校訂結果も再掲します。


Solonin et al. (2024: 54)本文 (影印)

『入菩提行論』第2章第1節~第2節

𗋕 𘏨 𘜶 𗤶 𗜈 𗧯 𘔼
172D5 183E8 18736 17936 17708 179EF 1853C
2019 5655 4457 2518 4401 2135 2484

𗱕 𗌮 𗆐 𘓁 𗩾 𗤓 𗹙
17C55 1732E 17190 184C1 17A7E 17913 17E59
0968 1543 2373 4444 2091 3228 0467

𘓨 𗝡 𗤋 𘏨 𗣼 𗫨 𘈷
184E8 17761 1790B 183E8 178FC 17AE8 18237
1275 4321 2194 5655 2748 3613 1567

𘉐 𗗚 𘜔 𗗙 𘞌 𘈉 𗧓
18250 175DA 18714 175D9 1878C 18209 179D3
4587 0661 0497 1139 0902 3525 2098

 前回は「第1句第1字の印刷がかすれていますね」という話をしました。そして「アラビア数字の「3」のような筆画がまず目に入り、その下には「キ」のようなものが見え、そして右上に「ニ」、右下に「ヒ」のようなものが見えますね」とか、「慣れると𗳱(17CF1, 0046)か𗋕(172D5, 0239)のどちらかだと分かるようになる」といった前振りをして、そこで途切れていたのでした。

第1句第1字

 実際に字を調べてみましょう。字形しか分からないので、まずは四角号碼を使います。影印を拡大してよく見てみましょう。

拡大した第2章第1節第1句第1字

 よく見ると、数字の「3」や「キ」のような筆画の左に、何やら墨痕があります。これは、字の一部でしょうか、それとも印刷時の墨のシミに過ぎないのでしょうか。現時点では分かりません。つまり、四角号碼を使うにしても、左上と左下の情報が確定できないことになります。右上は横画なので1、右下は横画(からの撥ね)なので1です。四角号碼の最初の4桁はX1Y1となります。
 今仮に、左の墨痕を単なるシミとしましょう。すると左上は横画と見なされ1、左下は縦画が横画を2本貫いているので5です。そして左下と右下の間には筆画がないので、補助的コードは00となります。よってこの字は115100となります。115100が割り振られている西夏文字は、以下の4つです:
  𗳱(17CF1、0388)
  𘃴(180F4、0389)
  𗰸(17C38、0390)
  𘆂(18182、0391)

 「おや、この4文字、李範文番号が並んでいるぞ」とお気づきになった鋭い方もいらっしゃるかもしれません。そう、李範文番号は四角号碼のコードの若い順から振られたものなのです(後になって筆画の解釈が変わって四角号碼のコードも変更となってしまったものの、李範文番号だけはそのまま、という例もあります)。ちなみに李範文番号0389は0391の異体字(左上が「フ」ではなく「コ」。《夏漢字典》、《簡明夏漢字典》では“訛体”(誤った字体)と表現しています)です。

 さて、上の4字のうち、どれが最も影印の字に近いでしょうか? ……右上に横線が二本ありますから、𗳱(17CF1、0388)ですね。ということで、第1句第1字の候補の一つを見つけることができました。やりましたね。

 次は、「左の墨痕は単なるシミではなく、字の一部である」と仮定しましょう。すると、左上と左下が現時点で何が何だか分からないわけですから、「四角号碼の最初の4桁はX1Y1(XとYは1から9までの数字が入る)なのだから、XとYを総当たりすれば良いのでは?」と思う方もいらっしゃるかもしれません。やってみてください。……いや、やっぱりやめてください。大変すぎます。そういう大変な作業のための力は、本当にそれを必要とする時までとっておくべきです。実は良い方法があります。
 それはКычанов et al. (2006)を使うことです。この辞典の大きな特徴として、「字の右部や下部の要素に基づき見出し字を整理している」ことが挙げられます(加えて、にょうかまえでも整理していますが)。

$${\footnotesize{※ちなみに韓小忙(2021)は、この「右から引く」索引と、一般的な「左から引く」索引}}$$
$${\footnotesize{の両方を兼ね揃えています。ただ問題は、この辞書は漢字の偏や冠にあたる要素で字を}}$$
$${\footnotesize{排列していること、そして、同書が全9巻にもなる大部の辞書だということです。つまり、}}$$
$${\footnotesize{右側の要素を共有する字が発見できたとしても、その見出し字を全て見るには、8冊}}$$
$${\footnotesize{(第9巻は1冊全体が索引)をとっかえひっかえしなくてはならないので、ちょっと労力が}}$$
$${\footnotesize{かかります。今回のように字種の同定さえできればよい場合には、手軽な}}$$
$${\footnotesize{Кычанов et al. (2006)が良いと考えられます。もっとも、Кычанов et al. (2006)には}}$$
$${\footnotesize{「フォントが古い」という難点もあることは知っておくべきですが。}}$$

 さて、我々が見知った漢和辞典で部首を引くとき、それは多くの場合、字の左側や上側に位置しています。その逆を行っているわけです。中華圏の専門家の「使いにくい」という意見が、確かどこかに書かれていたと思いますが、しかし時と場合によって、変わった性質をもつ道具が役に立つことはよくあります。考えてもみてください。西夏語の一次資料は出土文献や碑文ばかりで、字が綺麗に残っている保証なんてありません。実際、いま問題にしている字は左側の印刷がかすれて困っているわけですから。

Кычанов et al. (2006: 2)が示す見出し字の分類法の一部(Aは下部、Bは右部)

 さて今、右上が「ニ」、右下が「ヒ」のような形であることが分かっています。B260がちょうどまさにそれに該当します(図は省略)。76個の見出し字(及びそれを含む熟語)が、Кычанов et al. (2006: 635-644)に載っています。76個という数字は、まあまあ多いように見えますが、「3」や「キ」が「ニ・ヒ」の左にある字を探すと、𗳱(17CF1、0388)、𗋕(172D5、2019)、𗏤(173E4、2171)くらいです。印刷面が乱れた可能性を考慮しても、𗺘(17E98、2142)、𗩧(17A67、2163)、𗡎(1784E、4518)、𘗫(185EB、0255)、𘍒(18352、5097)がやや苦し紛れで候補に挙げられるでしょうか。

Кычанов et al. (2006: 635-644)をもとに絞り込まれた候補


 最初の𗳱(17CF1、0388)、𗋕(172D5、2019)、𗏤(173E4、2171)3字を検討しましょう。1つ目と2つ目はともに、「それ、その」にあたる指示代名詞や3人称代名詞の用法を持ちます。3つ目は「(武力などで)圧迫する」という用法を持ちます。仏典の章の先頭に、いきなり「圧迫する」という言葉が出てくることは考えにくいので、1つ目と2つ目――いかにも多用されそうな言葉です――が有力かな、と検討がつきます。すると、字の左のシミが実は、前の記事で言及した、漢字のサンズイのような2画の要素なのかもしれない、と気がつきます。すると、𗋕(172D5、2019)が最有力候補として残ります。この2画の左半分の版木が欠損したり摩滅していたりすると、ちょうどこのような形の墨痕になりそうだな、ということも想像できます。
 以上をまとめると、「字の左のシミが字の一部でないならば𗳱(17CF1、0388)、字の一部であるならば𗋕(172D5、2019)」という結論になります。どちらも代名詞です。ちなみに、漢訳仏典から西夏語に再翻訳された仏典では、𗳱(17CF1、0388)と𗋕(172D5、2019)の使い分けがはっきりしないという知識が、『法華経』研究などを通じて経験的に得られています(よく分からないということが分かっている、ということですね)。Solonin et al. (2024: 24-25)でも、この西夏語訳『入菩提行論』においても𗳱(17CF1、0388)と𗋕(172D5、2019)を同義語と見て差し支えないようである旨が述べられています。

 では結局、どちらの字が正しいのでしょう。最初の影印に戻って全体をよく見ると、字の幅はどれも大体同じで、がたつきもありません。版木で刷られた印刷物では、字の並びは整っています。一方、活字本(西夏は活字を生んだ宋と同時代の王朝であり、西夏文字の活字印刷物が、実際に出土しています)は字がガタつくことがしばしばあります。影印を見る限り、これは活字本ではなく木版本と考えるのが妥当でしょう(出土資料をたくさん見ると識別できるようになります)。そして、第2字から第7字までの並びを見るならば、やはりこの「字の左のシミ」は字の左端であると判断されます。従って、最終的な結論は𗋕(172D5、2019)であるといえます。Solonin et al. (2024: 54)は正しかった、ということです。

第1句第2字

 次の字を見てみましょう。第2字もややかすれています。左部の形や、真ん中に縦線が存在していることは確かであり、この点、Solonin et al. (2024: 54)の同定結果と一致しています。ただ、右側がよく見えません。とりあえず、『簡明夏漢字典』で、「ソ・フ・ノ・メ」の6画の「部首」のところを探しましょう。その「部首」のすぐ右に縦画が1本ある字が複数あるかと思います。その中から、かすれた本文の字に近い字を探します。「最初はきちんと彫られていた版木が、繰り返し使用されて潰れたり摩滅したりしたらどんな印刷面ができるか」をイメージするという考え方をすると良いと思います。するとおそらく、以下の4字に絞り込めることでしょう(もっと多く採る人もいるかも知れません):

第2章第1節第1句第2字の候補

 字義(字の指す形態素の持つ意味)もUnicodeや李範文番号と一緒に書いておきましょう。𘏥(「禁ずる、拒む」183E5、5330)、𘏨(「宝」183E8、5655)、𘏊(「盛る、満たす」183CA、5396)、𘏩(「つるす、かける」183E9、5397)。この中から候補を探します。チベット語やサンスクリットが読める人も、ちょっと今は他言語の訳文のことは置いておいてください。「ある文献中のある文や字がそのように読める根拠を、西夏語の諸々の文献自身の中から探す――可能ならば、その文献自身の中から探す」ということを、是非とも目指したいのです。
 仏典に限らず、まとまった内容を持つ文献には「文脈」というものがあります。一つの単語は文法によって文中の位置が決められているものでもあり、話の流れの中に存在するものでもあります。この句は第2章「罪業懺悔品(𘕋𗍓𘄿)」の冒頭であり、その前の第1章は「菩提心利益説明品(𘏞𘛛𗤶𗣼𘉐𘎪𘄿)」でした。そしてこの文献は、菩提心を起こす意義や、菩薩行を実践する具体的な方法を説明するものです。章題から、「菩提心を起こすことの利益りやくを説明することが、第1章全体のテーマなのだろうな」と推測できます(本当は「推測」ではなくきちんと読んで確認するべきであって、第0回でも述べた通り、途中である第2章から読み始めるのは本来ならば避けたいことです)。では、第2章の冒頭は、その内容を受けて言葉が発せられるはずです。
 ここまで説明すれば、第1字と第2字を組み合わせて「その宝(菩提心のことと推定できます)」か、または「それは宝であり、……」といった解釈をするのが普通でしょう。「禁ずる」や「盛る」、「つるす」といった動詞が出てくる必然性はあまりありません。
 さらには、この「宝」の字は第3句にも出てきますし、第2節第3句にも出てきます。字形を比べてください:

「宝」の字の対照

 赤枠で囲った3つの字が同一の字種であることだとか、左や真ん中の字がもしかすれたら、右側のようになりそうだなということなどが、きっと想像できるのではないかと思います。
 ということで、文脈からも、字形からも、この第1句第2字が「宝」である蓋然性が高いと判断できます。

 さて、ここで鋭い方はSolonin et al. (2024: 54)が示す字形の問題にお気づきになったかもしれません。そうです、影印とは異なり、「宝」の字の右側が「ノメメ」になっています。ところが赤枠で囲った字は「ノメメ」よりはむしろ「くくノ」となっています。第1回で説明した通り、「ノメメ」と「くくノ」は西夏文字の筆画研究の混乱を代表する事例でした。
 ある時期以前に作られたフォントは「くくノ」の存在を認知しておらず、すべて「ノメメ」で書きます。つまりSolonin et al. (2024)で使用されている西夏文字のフォントにおいては、「ノメメ・くくノ」問題、つまり、転折する1画を独立の2画と誤認する問題が未解決状態である可能性があることが分かります。以降、この可能性を念頭に置いたうえで、読解を進めていく必要があることを、心にとどめておかねばなりません。
 「「ノメメ・くくノ」問題は荒川先生が指摘したはずでしょ? 荒川先生の著作でそれが放置されているのはどうして?」とお思いになる方もおいでかも知れません。やはり、フォントを作るのは大変な作業ですから、学術的成果が直ちに技術的・美術的な分野にまで反映されるとは限りません。だからこそ荒川先生自身が、新たな西夏文字フォント「AraTangut」の開発に参与したのでしょう。

※AraTangutについては、手前味噌で本当にお恥ずかしながら、以前にニコニコにて公開した動画「【セイカさん解説】東京発の明朝体西夏文字フォント、国際コンペで受賞【AraTangut】」で解説をさせていただきました。このフォントはNY TDCというタイポグラフィの国際コンペで受賞を果たしています(デザイナーのひとりYang Xichengさんのインタビュー記事(中国語)はこちら)。
 AraTangutは現代の西夏語学の最新の研究成果が反映された、西夏文字の明朝体フォントです。西夏文字のフォントの選択肢は非常に乏しく、明朝体の西夏文字フォントが新開発されたこと自体が凄い、という状況です。
 AraTangut、市販されてほしいです。買わせてください。企業の判断に対して、不特定多数の人々の声が影響を与えることはしばしばありますので、購読の途中ながら敢えて宣伝させていただきました。

第1句第3字

 これはずばり𘜶(「大きい」18736、4457)です。西夏語では形容詞が名詞の後ろから修飾しますので、第2字と第3字で「大きい宝」となります。
 問題は字形です。先ほど「くくノ・ノメメ」問題を引っ張ったのはこの第3字のためでもあります。Solonin et al. (2024: 54)では字の右部が「ノメメ」になっていますが、実は「くくノ」か「ノメメ」かで別の字になってしまうのです。前者は「大きい」、後者は鳥の「雁」(正確には、中国語で“大雁”と訳されている2音節語の鳥の名前の前部要素)です。𗾊(倉庫。17F8A、2253)と𘴃(鳥の一種。18D03、2252)の例を、第1回でも取り上げました。

「大きい」と「雁」

第1句第4字

 これは西夏文字の個別的な知識があると却って誤読してしまうかもしれません。結論から申すと、𗤶(「心」17936、2518)です。𗢳(「仏」178B3、2852)ではありません。
 𗢳(「仏」178B3、2852)の字は何かと、西夏文字の説明の際に引き合いに出されることが多い気がします。気のせいかもしれませんが。そして、西夏文字にしてはシンプルなので覚えやすいです。ですが気をつけていただきたいのは、この字の右部の、上から三本目の横画のすぐ左に、墨痕があるという事実です。
 もしこの字が𗢳(「仏」178B3、2852)だとすると、左右の要素の間が空きすぎています。つまり、たとえ印刷がかすれていたとしても、これが𗢳(「仏」178B3、2852)ではなく、左右の要素の間に何かが挟まった、別の字だということが分かります。では、何が挟まっているのでしょうか。
 𗢳(「仏」178B3、2852)の四角号碼のコードは254000です。左右の間に何かが挟まっているということは、この字のコードは2540XXであるはずです。しかし該当する字は254044の𗦚(「斬る」1799A、2853)だけです。「何かがおかしいぞ」と、ここで立ち止まることになります。

 この字は上半分が特にかすれています。なので、左部が「ノノメ」でない、または、右部が「丰」でない、という可能性を探ることになります。
 字数が多くなってきたので手短に済ませますが、右部が「丰」でない可能性を探るべくКычанов et al. (2006)にあたると、右部がB029~B032である可能性に行きつき、そしてКычанов et al. (2006)の0475、0476、0479、つまり𗤶(「心」17936、2518)、𘂸(「恐れる」180B8、5344)、𗾪(「智慧」17FAA、2519)に絞り込むことができます。3つとも「迎」の真ん中のような、あるいは「コ」の反転のような要素を持っています。実はこの要素が印刷書体や手書き書体の中で、小さくちょろっと見づらい形で出現することはよくあります。
 ただ、3つとも意味上の関連性があり、この1字単独で決定することはちょっと難しそうです。そういう場合は、次に進みましょう。

第1句第5字・第6字:『西夏文詞典』と『西夏文字典』の合わせ技、そして出土資料への回帰

 第5字は幸いにして字形が分かりやすいです。4画の冠に、「フ・キ」、縦画、「フ・キ」。四角号碼のコードは505520となり、𗜈(「持つ」。17708、4401)と決定できます。
 第6字は、中央下部がちょっとグシャグシャして分かりにくいです(これも慣れると「見えてくる」ようになります)。幸い左部の要素が「ノ・ノ・メ」であること、右上に横画があること、右部に「ヒ」のような要素があることが確認できますので、四角号碼のコードは2141XYと決まります(中央のグシャグシャの補助的コードは不明としておきます)。しかし全部で約120字、『簡明夏漢字典』の見出し字2066から2182までがこれに該当します。多いですね。何か、他の方法で絞り込みをしたいところです。
 ところで、韓小忙先生の『西夏文詞典』の書名ですが、”詞典”となっている点にご注目いただきたいです。ロシア語名のКычанов et al. (2006)を除き、みな“字典”なのです。現代中国語で”詞(cí)”は"word"を指します。「字の字典ではなく、単語の辞典ですよ」ということです。『西夏文詞典』の分量が全9巻にも及んだのは、見出し字ごとに、その見出し字を含んだ多音節語(2字以上からなる言葉)を大量に収録したからです。
 そこで、第5字𗜈(「持つ」。17708、4401)を『西夏文詞典』で引いてみましょう。第3巻100頁から108頁まで、単独での意味に加え、様々な熟語の意味の説明が並んでいます。その中に「𗜈𗧯」という二音節語が見つかります。中国語訳は“执守”。日本語に重訳するなら「(こらえて)守る」といったところでしょうか。「𗧯(179EF、2135)」は、影印の第6字の字形とも合っています。
 さて、ここで気になるのは、前部要素𗜈(「持つ」。17708、4401)と後部要素𗧯(179EF、2135)の関係です。前部要素と後部要素、どちらが「持つ」でどちらが「守る」なのでしょうか。
 実はこの2字は、類義の関係にあるらしいこと、2字で1つの提携表現を成すらしいが分かっています。

 さて、今まで全く言及してこなかった現代の辞典があります。賈常業先生の『西夏文字典』です。この辞典は「字」の字形に注意を払っているという特徴のほかに、「西夏文字に対して与えられた中国語訳のアルファベット順に、見出し字が並んでいる」という独特の性質を持っています。
 中国語を習ったことがない人は「漢字ばかりのはずの中国語で「アルファベット順」とは一体?」と疑問を抱くかもしれません。実は中国語の発音をラテン文字で書き表す正書法のようなものが、現在の中国には存在します。ピンイン(拼音)と呼ばれています。例えば中国の“中”の字の発音は、zhōngと綴ります(カタカナではなかなか正確に書けない音です)。数字の“八”はbāです。アルファベットのabc順に並べると、“八” bāの方が“中” zhōngよりも、はるかに先に出てくることになります。
 𗜈(「持つ」。17708、4401)に話を戻しましょう。この字を『西夏文字典』で引くと、“持” chí「持つ」という中国語訳が与えられています(第72頁)。そして同じく“持” chíという中国語訳が与えられた西夏文字が、72頁から73頁にかけて、複数個提示されています。その中には、先述の後部要素𗧯(179EF、2135)も含まれているのです。つまり、少なくとも賈常業先生の理解では、𗜈(17708、4401)も𗧯(179EF、2135)も「持つ」という意味なのだということになります。つまり「𗜈𗧯」という二音節語は、例えば「天空」だとか「温暖」だとか「睡眠」といったような、似た意味の言葉を二つ合わせたものであると推測できます。

 この推測が現代人の牽強付会ではないことを確認する必要があります。その方法として、「西夏当時に作られた辞書を見る」という手があります。西夏語母語話者が自分たちの言語について内省して遺した記録なわけですから、現代人の編纂した辞書とはまた全く別の意味があります。ある意味で、特一級の資料といえます。
 こうした西夏人自身の言語の観察結果を反映した当時の資料としては:
 『同音』
 『文海宝韻』『文海』と呼ばれることも多いです。その理由は西夏語研究史と関係があります。本筋から外れるので説明は省略します)
 『同音文海宝韻合編』(これは通称で、正式な書名は未詳です)
 『番漢合時掌中珠』
 『同義』
 『三才雑字』
等が挙げられます。とりあえず今はこれくらいにしておきます。
 さて、この中の『同音』という一種の発音字典(韻書)を見てみましょう。この事典は西夏文字約6000字全体を、音節先頭の子音の性質にしたがって9つに分類したうえで、同じ発音の字を固めて並べる、という体裁をとります。発音それ自体への説明はほとんどありません。意味の説明はせいぜい1~3字の注釈(字注)が見出し字の直下に書かれます。この注釈として書かれる字のことを注字と言うことが多いです。1字の場合は右下か左下のどちらかに書かれます。『同音』に関する詳しい解説は、字数に余裕があるときにでも行いたいと思います。
 この1字だけの注釈では、単に類義の字が示される場合もあれば、その見出し字が二音節語の中で用いられることが多い場合、その二音節語のもう一方の字が示される場合もあります。後者の「二音節語を提示する」という場合、『同音』の見出し字と注字の読む順番は以下のように決まっています:

注字から左下の見出し字へ、または、右下の注字から見出し字へ

 そして𗧯(179EF、2135)は『同音』でこのように記されています。『同音』の甲種本と乙種本の画像を提示します:

『同音』甲種本(左)・乙種本(右) (どちらもロシア科学アカデミー東洋学研究所サンクトペテルブルク支部所蔵)

 見出し字𗧯(179EF、2135)に対して注字𗜈(17708、4401)が右下に書かれています。この事実から、「西夏語には「𗜈𗧯」という二音節語があったのではないか?」ということが推測できます。そしてこの推測は、第1句第5字・第6字の並びが𗜈(17708、4401)・𗧯(179EF、2135)であるという事実と符合しています。
 よって、第5字と第6字は二音節語「持つ」であると分かりました。
 さて、ではこの動詞「持つ」の動作主は誰でしょうか? 動作対象は何でしょうか? 西夏語はSOVの語順を取りますので、動詞の前に出てくる文字列の、どこからどこまでがSやOなのか、切れ目を探さなくてはなりません。また、SやOが書かれておらず、全部OまたはSであるという可能性も検討せねばなりません。
 さしあたっては、以下の可能性が考えられます:
  1.それが大きい宝の心を持つ
  2.その大きい宝の心を(誰か未だ言及されていない人物が)持つ
  3.その大きい宝が心を持つ
(1と2の「大きい宝の心」は「大きい宝」と「心」が同格の関係にあると解釈できます。つまり「大きい宝である心」、「大きい宝としての心」ということです)
 どの解釈が正しいかは、もう少し先まで読み進めてから、改めて考えてみましょう。

$${\footnotesize{ ちなみに、西夏文字が主題の漫画『シュトヘル』では「玉音同」というキーアイテム}}$$
$${\footnotesize{が出てきますが、それの元ネタはこの『同音』です。「玉音同」は9枚の玉の板に掘られた}}$$
$${\footnotesize{字典であり、これは『同音』が9つのセクションに分かれていることに由来した設定です。}}$$
$${\footnotesize{そして、もし元ネタ通りならば、第4のセクションは所属する文字の数が極めて少なく、}}$$
$${\footnotesize{なので「玉音同」の4枚目は大部分がスカスカ、ツルツルのはずです。持ち運びが大変そう}}$$
$${\footnotesize{でしたが、多分いざとなったら、4枚目は半分に割っちゃっても「西夏文字を守る」}}$$
$${\footnotesize{という機能だけは保てたんじゃあないかと思います。ユルールはそんなこと、}}$$
$${\footnotesize{したがらないだろうとは思いますが……}}$$

『同音』甲種本。第4のセクションの所属字は赤枠内の20字のみ。西夏文字約6000字の1%未満

第1句第7字

 句末の字ですが、これは初見で左部の正体を見極めるのは難しいでしょう(高頻度で出現するので、やはりそのうち慣れます)。右端が「ノノメ」であることが分かっているので、Кычанов et al. (2006)で引きましょう。B210に分類されている字(全部で356字!)の中から候補を探します。字数が多すぎて、これではあんまりですので、もう少し影印をみて手掛かりを探りましょう。すると、字の中央に2本の縦画が見られます。これがヒントになりそうです。
 実際のゼミなら、「それじゃあみんな、右端が「ノノメ」で、そのすぐ近くに2本の縦画がある、影印第7字っぽい見た目の字を、来週までにリストアップしてこよう」という話になるところでしょう。が、Кычанов et al. (2006)がお手元にない方の方が多いはずですし、そもそも「自主ゼミ」という主旨なので、自分でやります。

※西夏文字のOCR(画像の文字認識)の研究も進んでいますが、結局のところ「その文字データが正確か」を最終チェックする作業が必要なのは変わらないので、出土文献を直接読む力の重要性は変わりません。

 さて、その宿題をこなすと、以下の字が挙げられます(見方によっては他にも挙げられるかもしれませんが、とりあえず私なりに挙げておきます):

𗘌(「遣わす、放つ」1760C、0559)
𗉑(「座具の一種」17251、0571)
𘇿(「嫁ぐ」181FF、0578)
𗳳(「導く」17CF3、0612)
𗊱(「詩」172B1、2412)
𗏎(「腹」173CE、2471)
𗤍(「怒る」1790D、2473)
𘔼(「因縁; (原因・理由)のため」1853C、2484)
𗼈(「神」17F08、2546)
𗺐(「死ぬ」17E90、2548)
𘏥(「禁ずる」183E5、5330)

 もうこの時点ですでに10000字を超えているので、簡潔に検討の結果だけ書くと、字形上、𘔼(「因縁; (原因・理由)のため」1853C、2484)が最も適当であろうと考えられます。『文海』の乙種本は人の手で筆写されたものであり、字形の対象には打ってつけです。『同音』甲・乙・丁種本(いずれも木版本)と『文海』乙種本で、この字を見てみましょう:

左から『同音』甲種本、乙種本、丁種本、『文海』乙種本

 縦の2本線のうち、左側の短い方が、左上の「くノ」の下に入り込んでいます。そして「くノ」の左下には「ノメ」もあります。なので、かなり複雑な字形になってしまっています。
※この「くノ」と「ノメ」が上下に連なるパターンはよく出てくるので、覚えておくと後々楽です。
 そんな複雑な字形を西夏人が手書きすると、上の右端のような字形になります。いかがでしょうか、第7字の字形とよく似ていませんか?

 以上で第1句すべての字の同定作業が終わりました。結論だけ言えば、「Solonin et al. (2024: 54)の同定結果は正しい」となりますが、その検証過程で、様々なことを考えました。この考えた過程が、句や文全体の意味の理解に直接的に役に立ちます。

第1句全体の意味

 では第1句の意味を考えてみましょう。第7字𘔼(1853C、2484)は節の末尾に立ち、「~のために(原因または理由)」という意味の従属節を作ることが多いです。日本語の「~のために」が「~のせいで」という意味なのか、それとも「~の目的で」という意味なのか、単独では決定できないのと同様に、西夏語でもどちらの意味も取り得ます。どちらの意味で使われているのかは、もう少し読み進めないと分かりません。
 考えられる解釈は以下の通りです。さきほどの第1字から第6字までの訳文を元に考えてみましょう:
  1ー1.それが大きい宝の心を持つという原因で
  1-2.それが大きい宝の心を持つという目的のために
  2ー1.その大きい宝の心を(誰か未だ言及されていない人物が)持つという原因で
  2-2.その大きい宝の心を(誰か未だ言及されていない人物が)持つという目的のために
  3ー1.その大きい宝が心を持つという原因で
  3-2.その大きい宝が心を持つという目的のために

 大体こんなところでしょうか。ひとまず第1句が複数の解釈を許す従属節である可能性があるので、訳の決定はもうしばらく待たねばなりません。

追記:辞書が載せる字義

 随分と長くなってしまったので、ここで一旦終わりにしたいと思います。次回は第2句を読みます。
 ただ今回、敢えて「見過ごした」問題があります。それは、現代人が編んだ辞書が各々の字に対して与えている意味(字義)についての検討です。「なぜその辞書はその字(が指す形態素)の意味を、そのように定義したのか」という問題に触れていないのです。
 理由は極めて現実的で、「そもそも西夏文字の出土資料を初めて見る人を対象とした自主ゼミで、その基礎の基礎の段階から話を始めることは、却って理解を妨げる恐れがある」ためです。何が大事なのか、何が必要なのかは、順序立てて話す必要があります。頃合いを見て、字義の探求も行うことにいたしましょう。

 ここまで読んでくださった皆様に感謝を申し上げます。また次回お目にかかります。

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