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フリー朗読台本│父を紐解く

【概要】男声・1人用・朗読
【目安】約2000字・7分程度

本文

それはなんでもない日曜日の午後だった。
僕はたまたま探し物をしていた物置で、古びた文庫本を見つけた。
何度も開かれたであろうカバーのないボロボロの表紙に記された作者名は聞いたことがないもので、つい珍しげに眺めてしまった。
リビングでくつろいでいた母親の所に持って行って尋ねると、「ああ、お父さんのじゃない?あんたの」という素っ気ない答えが返ってきた。
両親は、僕が幼い頃に離婚したから、僕に父親というものの記憶は無い。
思いがけず降って湧いたような、父親の面影に、僕は少しはしゃぐ心を隠して部屋に戻った。

部屋にこもると、僕は慎重にその文庫本を開いた。
表紙の傷み具合からして、随分昔に読まれたものだろう。
ページをめくると、微かに埃が舞い上がり、独特の古い紙の匂いが漂ってきた。懐かしいような、どこか切ないその匂いに包まれて、僕はその本に一気に引き込まれていった。

最初は、ただ父親の所有物だったという興味から始まった読書だった。
けれど、読み進めるうちに、僕はふとあることに気がついた。何か書き込みがされている。
しかも、所々にだ。文庫本の端や行間に、鉛筆で書かれた文字が小さく記されていた。内容は、作者の言葉に対する感想や、考えたこと、時には疑問のようなものもあった。
はじめは僕も、ただただその文字を追っていた。だが、段々とその筆跡に、かつて会ったことのないはずの父親の存在を感じ始めた。

「これが…父さんの字なのか」

父親の手紙や、メモの一つも見たことがなかった僕にとって、この鉛筆の走り書きは、まるで時を超えて父親が僕に語りかけてくれているかのようだった。字は少し崩れていたけれど、確かな思考と感情がそこに刻まれているのが伝わってきた。

僕は目を細め、そこに書かれている言葉を読み解こうとした。
あるページの余白には「共感。大切なことを思い出させる」と書かれていた。どんな大切なことだったんだろう?父は、何を思い出してこの言葉を残したのか。僕はその場面に戻り、再び文章を読み直す。何か親しい人との別れを描写しているシーンだった。それは物語の登場人物にとっても辛い別れだったが、父にとっても同じように心に残る出来事があったのだろうか。僕の記憶にない、母との別れ…いや、もっと昔、まだ僕が生まれる前のことかもしれない。

今度はヒロインが主人公に日々の不満を打ち明けるシーン。
情けない主人公に呆れながらもそれでも放っておけない、というヒロインの吐露にでかでかと「?(はてな)」が書き添えてある。
他の走り書きに近い書き方と違って、ここはやけにくっきり書いてある。首を傾げながらゆっくりと文字をなぞる父親の姿がぼんやりと浮かんだ。
顔も知らないのに変な話だ。

次のページをめくると、また別の箇所に父親の文字があった。

「この選択は、間違っていないはずだ」

選択?何の選択だろう。物語の中の登場人物が、重要な決断を迫られるシーンだった。迷いながらも、一歩踏み出す。父親もまた、こんな風に人生の岐路に立ち、何かを選んで進んだのだろうか。僕の幼い頃の記憶はほとんど曖昧だ。母との暮らしが当たり前になっていた僕にとって、父という存在は、どこか遠い幻想のようだった。しかし、この文庫本を通じて、父が確かに生きて、感じ、そして選んだ人生の痕跡が、ここに残っている。

僕はページを繰る手を止め、ふと天井を見上げた。何もない部屋の中、父親の気配がほんの少しだけ、今ここにあるような気がした。静かに本を閉じ、その背表紙を指で撫でる。父は、なにか理由があってこの家にこの本を残したのだろうか?それとも、ただ単に忘れて行っただけか。

しかし、いずれにせよ、この本は父が手に取ったものであり、彼が何らかの思いを込めた痕跡が確かにここに残っている。それだけで、僕にとっては特別な存在になった。父の人生の一部に、僕は初めて触れたのだ。

次の日、僕はもう一度本を開いた。今度は父が書き込んだ言葉だけではなく、物語自体にも目を向けることにした。物語の中で描かれる登場人物たちの葛藤や悩み、彼らが選び取る未来。それは、まるで僕自身の人生と重なり合っていくようだった。そして、ふとした瞬間、父がこの物語を読んだ時も、同じように感じたのではないかという思いが心に浮かんだ。

僕は、父親のことをほとんど知らない。彼が何を考え、何を夢見ていたのかさえもわからない。しかし、この本を読むことで、ほんの少しだけでも父親に近づけたような気がする。ページをめくるたびに、父と僕との距離が少しずつ縮まっていく感覚。物悲しくも、どこか温かい。それは、父親という存在が僕の中で少しずつ形を成していく瞬間だった。

そして、読み終えた時、僕は静かに本を閉じた。
父親のことを少しだけ知ったという喜びと、彼との距離を少しだけ埋められたような感覚。

「この選択は、間違っていないはずだ」

父は、迷いながらどんな選択をしたのだろう。
そしてどんな道を歩んでいるのだろう。

僕が知ることはきっと生涯ないけれど、この本のように受け継いだもの、そばにある何かはあるのだろう。

「僕も僕の道を歩いていくよ……父さん」

僕は初めてその呼び名を口にして、ぎゅっと古びた文庫本を抱きしめた。

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