「先生、僕には、不満がたくさんあるんです。」
リベラルアーツ大学の小さなダイニングホールでの食事中、
ふと彼はそんなことを言った。
中国出身の彼は現在大学3年生。
「一度話し出すと止まらなくて。いつもすみません。」
と笑う彼は毎週木曜日になると
私のオフィスアワーに足を運んでくれる。
その日はオフィスアワーが終わったあと、そのまま一緒に食堂に来ていた。
学校という組織や政治。
オフィスアワーになると彼は色々なことについて
意見を言って聞かせてくれる。
彼の英語は非常に流暢でスピードも速いため
私はいつも追いていくのに必死だ。
話を聞いていると確かに彼は多くの不満を持っているようだった。
中国の教育システムへの不満や台中関係のこと、
アメリカの資本主義に対する不満、他の学生たちに対する不満。
「不満を持つことは悪いことじゃないよ」
そう返すと彼は
「でも先生、多くの不満やネガティブは良いことでもないでしょ」
そう言ってはにかむと顔を逸らす。
本当にそうだろうか。
「Be positive」や「Love yourself」がトレンドになりつつあるこの世界で、
いつも私がどこかで少し疑問を抱いていたことだった。
ポジティブであることや自分を愛することは確かに大切だ。
楽しく幸せな人生を歩むための最高の武器になることも事実だろう。
それでも私には信じていることがある。
「不満はいつだって自分の人生を変えるための燃料になる」
ということだった。
私自身、かなりネガティブでペシミスト(悲観主義者)だ。
自分を愛するとは何なのか。
ポジティブになるにはどうしたらいいのか。
ずっとずっと追い求めて考えて実践してきた。
それでも今こうして振り返ってみると、
自分の人生の分岐点にはいつも「不満」があった。
最初の分岐点は大学3年生の頃だった。
友達と初めての海外旅行から戻ったあと、
一枚の休学届を片手に留学をしたいと母に申し出た。
一人娘である私がすんなりと説得できるはずもなかった。
「親の言うことが聞けないなら学費も、生活も、全部自分の力でやりなさい」
母親は案の定、顔色をガラリと変えた。
結果として私は自費で留学をしたのだが、
これが何故人生の分岐点になったかと言うと
私が初めて親に対して反抗したからだった。
教育に厳しい母の元で育ち、
中学の頃は友達と比較をされながら勉強をした。
高校も特に志望はなく親の望むところを受けた。
なぜ勉強をするのか分からないまま叱られるのが嫌で勉強をした。
逆らうと面倒くさいことになると知っていた私は、
ただの操り人形のような10代を送った。
20歳の誕生日に心に決めた目標がある。
"My Life is Mine-自分の人生は自分のものだ-"
自分の人生を生きる20代にする、ということだった。
幼少期から積み重なった小さな不満が
自分の人生をこんなにも大きく変えるなど当時の自分は知る由もなかった。
二つ目の分岐点は23歳の時だった。
就職活動をしていた私は、どこか馬鹿馬鹿しいと思いながら
みんなと同じように黒いスーツを着て、髪を黒く染めて、
個性もクソもない状況で個性をアピールしようとしていた。
その時が一番日本社会に対して不満を抱えていた時期だったのかもしれない。
学校では常に和を求められ、集団行動を基本とし、
個性より調和を、個人よりコミュニティをと躾けられ、
卒業と同時にいきなり個性を求められるのだ。
馬鹿馬鹿しい。全部やめだ。
「先生、私、この社会に向いていません。」
将来のことを案じた教授に誘われ食堂で昼食をとっていた時だった。
アメリカに興味はあるか、と問われたのだ。
「英語力は自分で何とかしてもらうしかないけど、
推薦状は書いてあげられるよ」と。
こうした経緯で私は二年後の25歳の時、アメリカに降り立つことになる。
まさに青天霹靂だ。
高校生の頃の自分が知ったらもっとちゃんと勉強してくれただろうか。
天才でもなければ飛び抜けた何かがあるわけでもない。
だからアメリカの大学院に進学するのに二年もの月日を要した。
ストレートで行けるほど賢くはない。
それでも、人生は確かに変わった。
なぜ親の猛反対を押し切ってまで留学をしたのか。
なぜ就活を放棄してフリーターになってまで
アメリカの大学院に行ったのか。
それは全て「不満」というネガティブな感情が自分を突き動かしたからだった。
時にはポジティブな感情だけでは変えられないものがある。
突破できない壁がある。
だからこそ、ポジティブになれなくて
いつも不満を持っている自分を愛してやれない人に伝えたい。
「不満をたくさん持っていていい。それは悪いことではない。
全て自分を動かす燃料になって、
人生を大きく変えるチャンスになり得るものだから。
"革命"ってそういうものでしょう」