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エンジンの唸りが朝を連れてくる。
今日と明日を隔てているものは一体なんだろうか。
この問いに至極真っ当に答えを出すとしたら、時間という概念ということになるのだろうか。
屁理屈で返すなら、今日と明日に明確な隔たりなどないという言い方もできそうだ。
もちろん、僕はそんな話がしたいわけではなくて
たとえば、仕事やらレポートやらに追われて夜中まで作業をしたときに、
「ああ、明日だと思っていた1日が今日になってしまった。」
と思う瞬間はいつか、と言う話だ。
幼稚な意見かもしれないが、僕は今日と明日を隔てるのは睡眠だと考えるタイプの人間だ。
すなわち、究極的には、眠らなければ明日は来ないということになる。
明日を待ちわびている人は、
何を訳のわからんことをと思うかもしれないが
どんなに楽しい今日も、
楽しいことがなかった今日も、
眠ってしまえば、その後の余白の如何に関わらず、目を覚ました時には明日になっているのだ。
帰納的に推論すると、今日と明日の転換点は睡眠自体もしくは睡眠中に存在するということになる。
しかし、今までの短い人生を思い返すと
もっと明確に、今日と明日が
切り替わる瞬間を感じたことがある。
時間でいうと午前4時ちょっとすぎ、眠気で朦朧とする意識にそれはやってくる。
エンジンの唸り。
発信源は、新聞を配りながら住宅街を駆ける原付だ。
朝刊は社会が情報を更新し始めたことを、
つまり世界が眠りから覚めたことを意味している
徹夜で作業していて精神的に"くる"のは、自分を置き去りに、世界が活動を始めたと感じることだったりする。
抗うことのできない大きな流れの中、必死にしがみついていたはずの今日は、エンジン音に気を取られた一瞬に昨日になってしまっている。
新聞配達は朝をつれてくるのだ。
今日と明日を隔てるのは、
あるいは、
新聞配達員の乗る原付の、
エンジンの唸りであると言えないだろうか。
きっと今夜も僕らが寝ている間に、新聞配達員たちは明け方の冷たい空気を割いて、今日を明日に塗り替えていくだろう。
きっと本人たちも自覚しないうちに。