あおぞらの憂い6

ノートルダム大聖堂の絵を描き終えると久しぶりに心が暖かくなった。気分良くその絵をそっと新聞の上にのせると、汚れた筆とパレットを洗うために洗面台へ向かった。パレットの鮮やかな青が水道から勢いよく落ちる水と混ざり合う。そして排水溝へぐるぐると流れていく。脳裏によぎるあの日の光景。思い出さないことはもうできなかった。薄まっているはずの記憶が鮮やかに思い出された。そしてなぜか無性にまたあの海であの人が死のうとする気がした。私は気付けば自転車に乗って海に向かっていた。

通るだけ。通るだけ。海沿いを自転車で通るだけで、そのあとすぐに家に帰るだけ。そう言い聞かせる。私の額は汗ばんでいた。あの日と同じ夕日が沈む時刻。海に着くと、同じように道路脇で自転車にまたがった少年がいた。彼はパックのコーヒー牛乳を加えながらこちらをみてきた。彼はよく店にくる少年であり、あの日一緒にいた少年だった。

「お姉さんも見に来たんですか?」
「そういうわけじゃ。」
「僕、あの日から、毎日ここで日が沈むまで見張ってるんです。あれからちょうど1週間たつけど、あの人生きてるかな。」
「そうなの。生きてると良いけど。」
波がザーザー唸る音。私は黒くなってきた海を見ながらあの日のことを思い出した。私はきっとこの少年がいなかったら彼を見殺しにしていた。


「実はね、私君がいなかったらたぶんあの人のこと助けなかった。私にも彼の気持ちが少しわかっちゃったから。どうしたらいいかわからなかった。迷ってるうちにね、たぶん彼はきっと死んでいた。でも君がきてくれてハッとしたの。助けなきゃいけないって。助けるのが普通だって。」
早口で言っていた分、沈黙に流れ込む波の音が痛かった。私が少し勇気を出したときはだいたい空回りしてきたことを思い出して、後悔が渦巻いた。とにかく帰りたかった。すると少し間を空けて少年が答えた。
「落ち込まないでください。僕もあの人の死ぬ邪魔をしてしまったのかもしれないって思って。だけど、僕にはどっちが正解もわかりませんけど、助けたかったから助けた。それだけです。」
それは重いメッセージのやり取りのようでまるで会話ではなかった。私の言葉を何度も読み返して返事をくれたようだった。少年は優しく素直だった。
「そうだね、ありがとう。」
「そういえばあのお店、閉まったの?」
「今店のおばさんの体調が悪くて、しばらく閉めてるの。ごめんね。」
「そっか。残念。僕あそこの蕎麦がすごく好きだから。」
少年はこちらに向かって自転車を少し漕ぐと、これあげる。とパイン飴を渡してきた。友達にもらったものだというとじゃあまた〜と手を振りながら颯爽と帰っていた。私はもらったパイン飴を口に入れた。帰り道、心は暖かかった。

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