あおぞらの憂い5

プルルルル〜。堤防の下に置いているリュックから着信が聞こえた。
「あ、私のだ。ごめんね、また今度。」
そういうと少年は、はい。とだけ答え、濡れた制服で戻っていった。


母と電話しながら、もう一度暗い海を見つめた。夜の海はさっきより荒く刺々しかった。今から帰るねというと自転車を走らせた。こんな刺激的な日は久しぶりで、何処か他人事のようだった。視線を下すとそういえば海水で重くなったシューズ。そして、かろうじて海の中からこちらを向いたあの髭面を思い出す。死ねなかった彼の明日が良い良い一日でなければ、どうせ彼はまた死ぬことを選択するだろう。彼の人生が急転して明るくなってほしい。例えば明日、好きな人と運命的な出会いをしてほしい。なんなら明日、犬とか猫とかを飼ってみたらいい。そんなことを思うだけで母親にも言わず、いつもよりゆっくりと2、3時間かけて眠りについた。


次の日の朝、店のおばさんに癌が見つかったこと。店をしばらく休むことがLINEで送られてきた。私はまた自由な一日を手に入れたのだったが全く嬉しくなかった。早く仕事にいっていつも通りの自分に戻りたかったからだ。母におばさんのこと言うと誰に聞いたのかわからないが昼過ぎにはおばさんの容態があまり良くないということもわかった。


私は考えてもキリがないことを考えることが嫌いだった。昨日の自殺未遂事件のこと、おばさんの容態、いつまで続くかわからない自由な時間。既に時間に対する喜びは消えていてだからといって悲しいわけでもなかった。キリがないことだらけで混乱した私は3日間寝込んだ。そしてそのあとまた絵を描き始めた。私はただ無心で描きたかったから、ネットでヨーロッパ建築と検索し、3番目に出てきたノートルダム大聖堂の写真を細かく細かく描いた。途中頭の中をおばさんがよぎり、海がよぎり、あの少年がよぎったが、よぎっただけで引き止めなかった。なんの記憶も呼び戻さなかった。ただ週に4回程度、多少気の知れたおばさんのもとで働く。それ以外は寝て、散歩して、絵を描いた。そんな当たり前が崩れ去ることをただ恐れながら鉛筆を走らせた。

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