【映画】「白鯨との闘い」感想・レビュー・解説
物語は、メルヴィルがある一人の男を尋ねるところから始まる。後に「白鯨」とい小説を世に発表する、あのメルヴィルである。
メルヴィルが尋ねたのは、エセックス号最後の生き残りであるトム・ニカーソンだ。メルヴィルはニカーソンに手紙を何度も送り、エセックス号の話を聞かせてくれるよう頼むが埒が明かず、押しかけるようにしてやってきた。全財産を持って。
メルヴィルが聞きたかったのは、エセックス号の沈没の謎である。ただの座礁だと伝わっているエセックス号の沈没だが、なんらかの理由によりメルヴィルはそれは嘘だと確信している。しかし、いくら押してもニカーソンは話そうとしない。帰ろうとするメルヴィルをニカーソンの妻が押し留め、夫の話を聞いて彼を救ってやってほしい、と頼んだ。妻の口添えもあって、ニカーソンは重い口を開く。
ニカーソンが語る捕鯨船・エセックス号の物語は、船長であるジョージ・ポラードと、一等航海士であるオーウェン・チェイスの物語である。
前回の捕鯨で、鯨油を1000樽持ち帰ったチェイスは、船主から次こそは船長に指名されるはずだった。しかし、エセックス号への乗船を求められたチェイスに与えられたのは、一等航海士。またも約束を反故にされた。立ち去ろうとするチェイスを、次こそは船長にするという約束を書面で交わし、納得させた。
船長に指名されたのは、捕鯨の町・ナンタケットで、捕鯨の歴史を切り拓いた一家の後継者である。船乗りとしての経験はチェイスの方が遥かに上だが、家柄だけの理由でポラードが船長に選ばれた。
出航後すぐにやってきたトラブルをチェイスは見事にやり過ごし、乗員たちをうまく指揮して船を掌握していく。一方のポラードは、船長であるという気位だけは高いが、チェイスほどの手捌き・口捌きを見せることは出来ずにいる。二人の関係性は、出航直後から暗雲立ち込めていた。
そして、決定的な事態が引き起こされる。やってきた嵐を避けるべきだと主張したチェイスに対し、船長は船が予定より遅れていることを指摘して、嵐にそのまま突っ込めと指示したのだ。
結果、船は沈没こそ免れたものの、大破してしまう。さらにポラードは、その責任をチェイスに押し付ける。それでも、鯨油を持ち帰らなければという二人の目的な合致しており、彼らはクジラを求めて、ダメージを負った船と、ギクシャクした関係性を載せたまま航海を続けるのだが…。
というような話です。
詳しくは知らないけど、メルヴィルが実際に「白鯨」を書く際に参考にした史実を元にした映画だという認識を僕は持っています(もしかしたら史実ではないかもですけど)。映画自体も、「物語」という感じではなく「ドキュメンタリー」という感じに近いです。
僕がそう感じた一番の理由は、船員同士の感情的なぶつかり合いがほとんど描かれていない、ということにあります。
もちろん僕は、船乗りや捕鯨船の人たちが普段どうであるのか知識はありません。船の上で乗組員同士で無益な争いを続けていれば航海に支障を来たすという理由で、昔から暗黙の了解として、船の上では争わない、というような知恵が継承しているのかもしれません。船長や一等航海士の権限があまりにも強く、一乗組員が口出し出来るような雰囲気でない、という可能性もあるでしょう。だから、以下の僕の指摘は的外れなものかもしれません。
映画の中では、船長のポラードは明らかに無能で、一等航海士のチェイスは明らかに有能です。乗組員とすれば、鯨油という成果を確実に持ち帰るために、そして何よりも自らが生きて帰るために、船長ではなく一等航海士の指示を聞きたいと思うでしょう。しかも船長は一度、嵐への対処で失態を犯しています。尚の事、一等航海士の指示に重きを置きたくなるでしょう。
しかし、映画を見ている限り、船長の指示は絶対です。一等航海士のチェイスでさえ、船長の指示には逆らえないようです。であれば、表立って不満を言い募るのは無理でも、乗組員同士陰でとか、あるいはチェイスにだけは愚痴を零すとか、そういうことがあってもおかしくないでしょう。船乗りには、逃亡犯のような荒くれ者も混じっているようなので、なおさらそういう不満の噴出や暴動みたいなことがあってもおかしくないと思います。
実際にそういう動きがあったのかなかったのか、それはともかくとして、この映画ではそういうシーンはほとんど描かれていません。船長のポラードと一等航海士のチェイスのいざこざでさえ、映画の冒頭で描かれて以降ほとんど描かれません。この映画を「物語」として描こうとしたら、そういう人間の醜い争いみたいなものは間違いなく組み込んでくるでしょう。人間の愚かさを描き出すことが出来るし、展開に緩急をつけることができるからです。しかし、この映画ではそうはしません。実際に暴動などがあったとしても、そこを削って、事実の細密さを取った。僕にはそんな風に思えました。それが僕がこの映画を、「物語」ではなく「ドキュメンタリー」だと感じた理由です。
そういう観点に立つと、この映画は、物語的な展開という点では弱いと思います。ストーリーだけ取り出した場合、観客を惹きつける要素というのはほぼないと言っていいでしょう。ニカーソンがメルヴィルに対して真実を語っているという体裁を取っているわけで、全員ではないにせよ、乗組員の何人かは最後には助かるのだ、ということもあらかじめ分かっています。だから、「物語」として捉えた場合には、この映画はそこまで響かないかもしれません。
しかし、「ドキュメンタリー」として見れば、圧巻だと感じました。もちろん、本当のドキュメンタリーではないので、現実そのものが持つ強さではありません。鯨の群れや嵐の中でもみくちゃにされる船など、映画の中で凄さを感じさせる部分の多くはCGでしょう。だから僕も、実際には「ドキュメンタリー」ではないということはちゃんと分かって観ています。
それでも、「ドキュメンタリー」であるかのような圧倒的な強さを感じる。たぶんそれは、先ほど触れた、物語性を排除したことも大きく関係するだろうと思います。物語性を極力減らし、事実(だとされるもの)の羅列に徹することで、この映画は、フィクションでありながらドキュメンタリーが持つような力強さを獲得したのではないかと思うのです。
実際に、映像の迫力は凄いです。嵐の中で翻弄される船、鯨の群れに取り囲まれる船、鯨を仕留めるための奮闘、そうした場面すべてが、まるで本当に捕鯨船に乗り込んでその場で体感しているかのような感覚を与えてくれます。
その中で僕は、人類の凄さを感じました。
捕鯨船がどのように鯨を仕留めるのか、僕は知りませんでした。映画を見て、ちょっと驚きました。彼らは、母船であるエセックス号から小舟を出し、それをオールで漕ぎながら鯨を追います。そして、数百メートルもある長いロープの先につけた銛を鯨に突き刺し、逃げる鯨が引くロープが伸びきる直前まで待ち、鯨が逃げるのを諦めたところを仕留めるのです。
それを見て、よくもまあ人間は、鯨を獲ろうなんて考えたものだなと感心してしまいました。
鯨は、小舟と同じくらいの大きさはあるでしょうか。鯨に襲われれば、小舟はひとたまりもないでしょう。そんな中、体の大きさがあれほども違う生物を仕留めようと考えた人間の神経を僕は正直疑いました。そして、あんなデカイ生き物でも、人間の知恵と勇気を結集すれば仕留めることが出来るのだ、という事実が、人間を過信させたのだろうな、とも感じました。
結果その過信が、「白鯨」との出会いを招いたと言えなくもないでしょう。
思っていた以上に、「白鯨」との邂逅もシンプルに描かれていました。僕はこの映画は勝手に、白鯨と人間との闘いがメインになっていると思っていたので、そういう意味では少し肩透かしをくらいました。とはいえ、白鯨との闘いもシンプルに描かれるからこそ、ドキュメンタリーが持つ強さを醸し出すことが出来たのだろうと思うし、不満というわけではありません。
ある場面で、船上で乗組員がくじ引きをする場面があります。なんのためのくじ引きをしているのかは書きませんが、この場面での彼らの葛藤が非常に印象的でした。何度も同じことを書きますが、この映画はドキュメンタリーであろうとする意識がきっとあっただろうから、極限状況における人間の有り様についても、決して過剰には描かれません。映画とは思えないくらい、淡々と展開されていきます。しかしそれでも、あのくじ引きのシーンは、分かりやすく写し取られている感情はほとんどないのだけれども、その場にいた人間の葛藤や後悔がにじみ出るようにして描かれているなと感じて、凄みさえ覚えました。
似たようなことを感じた場面に、ある別れのシーンがあります。旅立つと決めた者と、残ると決めた者の別れの場面です。ここでも過剰さは排除されますが、去る側も残る側も、口や表情には出せない感情が渦巻いているのだろうということが感じられて、圧倒されました。映画の最後で、ある男が約束を守ったのだということを知って、ホッとしたのと同時に、自分に同じことが出来るだろうかとも考えてしまいました。
観ながら、メルヴィルの「白鯨」に興味が湧きました。ニカーソンの話を聞いたメルヴィルが、どんな風に彼の話を物語に仕立てたのか、知りたくなりました。たぶん僕は、実際には「白鯨」は読まないでしょう。興味はあるけど、古典作品を読むのが苦手なことと、仕事との兼ね合いで読んでいる時間がないからです。いずれ読もう、という気持ちは持ち続けようと思います。
物語性を求めると、もしかしたら退屈に感じられる映画かもしれません。事実の圧力を体感しに行く映画だと思いました。