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【本】飲茶「正義の教室 善く生きるための哲学入門」感想・レビュー・解説

本書は、哲学に関する本を多数出版している飲茶氏が「正義」について語る一冊です。

とにかく、メチャクチャ面白かった!哲学の話が面白いのは当然ですが、本書は物語形式になっていて、その物語も面白い。章が変わる直前で、「え?」「何それ?」「嘘でしょ!」みたいな展開が用意されているし、キャラ的に設定されている三人の女子高生が持っている価値観が何故そうなのかという背景がきちんとしている。さらに、物語のラストは、それまでの「正義」の議論や、物語的な設定を全部踏まえた上で、「なるほど、ここに行きつくとは思わなかったけど、確かにラストはこれしかない!」というものになっていて、見事過ぎる。メチャクチャ面白かったなぁ。

まずは、設定から書いてみましょう。

主人公は、私立高校に通う「山下正義」。彼は、自ら望んだわけではないが生徒会長をやらされることになり、同じく生徒会に所属する3人の女子たちと、とある大きな問題(この感想ではこの問題については伏せる)を含めた議論をしている。
3人の女子たちはそれぞれ、「正義」に関して異なる主義主張を持っている。
副生徒会長である「徳川倫理」は、いわゆる「直観主義」の立場だ。ざっくり書くと、「良心によって『善い』と判断されることに従うべきだ」というものだ。倫理は、「学校の良心」と呼ばれるほどで、制服をきちんときた黒髪の、真面目キャラである。
会計の「最上千幸」は、いわゆる「功利主義」の立場だ。千幸は「ハッピーポイント」という言葉を昔から使い、幼馴染である正義に呆れられていたが、これは「最大多数の幸福」、つまり、より多くの人が幸せになることを目指す立場である。
庶務の「ミユウ(自由)」さんは、唯一の3年生。だらんとした服装で、だらんとした格好で座る彼女は、いわゆる「自由主義」の立場だ。これは端的に言えば、「相手に迷惑を掛けなければ自由にやれ」というものであり、ミユウさんは何よりも、他者から強制されない自由というものを大事にしている。
この4名は、風祭封悟という教師による倫理の授業を揃って受けている。風祭先生は、「功利主義」「自由主義」「直観主義」についてそれぞれ語りながら、問題点も指摘する。それらについて生徒会の4人で議論する中で、なぜ彼女たちが各々の主義主張を持つようになったのかという過去の出来事が明らかにされ…。

というような設定です。「正義」の3つの立場それぞれに対して女の子を一人あてがい、「山下正義」という、どんな主義主張も持っていない人物を据え、また、倫理・哲学全般に詳しい風祭先生を配すことで、物語的に非常に面白いものに仕上がっている。彼らが議論する過程で、それぞれの立場の問題点が明らかになっていき、また、「どの立場が正解であるのかは判断できない」ということが端的に伝わるように、彼女たちに、そういう立場を取らざるをえなかった辛い過去を設定する。究極の状況に置かれた彼女たちが、その場でどう判断し、その判断に対して今どう感じているのか、ということを感情的に露わにすることで、「これは軽々しく結論を出すことは出来ないぞ」という感覚を読者に与えるのだ。非常に巧い構成だと思う。


さてそれでは、物語的にネタバレになってしまうだろう部分は避けつつ、本書の哲学的な話の流れをざっと押さえていこう。

まず「功利主義」が議論される。これは、強者も弱者もなるべく幸福になるように、というものであり、「幸福度」というような指標を考え、その指標が最大値を取るような決断・行動こそが「正義」である、と考えるものだ。

主張としては、なるほど確かにそれは「正義」と言いたくなるようなものだろう。しかし、細かく見ていくと、なかなか問題が大きい。


最大の問題は、「幸福度」をどう測定するか、というものだろう。例えば、「会社では事務仕事をし、毎日定時に帰り、誰かと飲んだり遊んだりするでもなく真っすぐ帰宅し、家ではコンビニ弁当を食べ、寝る時間までYouTubeを見て過ごし、休日は家から出ないでゲームをする」という人がいるとしよう。果たして、この人の「幸福度」はどのくらいだろう?人によっては、「そんなつまんない人生最悪!」と考えて、「幸福度」を5点ぐらいにするかもしれない。しかし人によっては、「他人と関わるストレスが最小限で最高!」と考えて、「幸福度」を90点ぐらいにするかもしれない。

結局「幸福度」は主観的にならざるを得ないし、同じ基準を作ることは不可能だ。さらに本書では、「仮に幸福度が測定でき、その幸福度が最大化されるような社会を作れる」と仮定した場合でも、「功利主義」には綻びが生まれる、ということを示す。確かに、「功利主義」を突き詰めるとそうなっちゃうよなぁ、という話で、非常にわかりやすい。

他にも、「強者から弱者へお金の再配分なんかをするのは、逆に不平等を促進しているといえるのではないか?」「平等を実現するためには、お金の再配分などが必要で、そうであればあるほど、強権と抑圧が必要になってくる」など、なかなか問題点が多い。

さて次は「自由主義」である。本書を読んでなるほどと感心した部分は多々あるが、この「自由主義」の説明はその一つだ。

世の中には「自由主義」と呼ばれる立場は、名前を変えて様々に存在するらしい。それらを個別に理解していくことは不可能だが、本書では世の中の「自由主義」を単純に2つに分類する。


一つは、「弱い自由主義」である。これは、「自由よりも幸福が大事」という立場だ。「弱い自由主義」というのは、「幸福を実現する手段」として「自由」を捉えており、より重要なのは「幸福」である。で、これは、実は「功利主義」と対して変わらない。よって本書では、「弱い自由主義」=「功利主義」と考えて、以後議論には載せない。

一方、本書で語られるのは「強い自由主義」である。こちらは、「幸福よりも自由が大事」という立場だ。

『自由を守ることは、結果にかかわらず、正義であり、
自由を奪うことは、結果にかかわらず、悪である』

これが「強い自由主義」である。もちろん、「他人に迷惑をかけない範囲で」という条件は付くが、その範囲内ではすべてが自由である。ここで問われていることは、

『強い自由主義における真の論点は、「愚行権の是非」つまり「人間には自分の意志で不幸になる自由があるか?」ということだ。』

ということである。例えば、麻薬を吸うことは、自分をダメにする不幸な行為であるが、しかしそれを自ら選択して行う「自由」はある、と考えるのが「強い自由主義」なのだ。

この「自由主義」にも、問題点が指摘されるが、それらは大きく括ると、「道徳的に良くないことが止められない」ということになる。たとえ本人がOKだと思っていても、「それは道徳に照らして良くないはずだ」と感じることがある。それについて「強い自由主義」は、「勝手にすれば」という立場を取るのであり、それは、やはり人間の良心として許容すべきではないのではないか、ということだ。もちろん「功利主義」の立場からすれば、「一部の人間だけが富、格差が広がっていくことは良くない」という反論が出てくる。しかし「強い自由主義」は、弱肉強食であり、弱いものは負けることで強いものの遺伝子が残っていくのだ、弱者に合わせた社会を作る必要が本当にあるのか?と反論する。

さて最後に「直観主義」である。これは、「理屈を超えたところに『正義』というものは存在し、人間は誰でも良心に従ってその『正義』が理解できる」という立場だ。「人を殺してはいけない」という主張に対して、「功利主義」は「全体の幸福度が下がるから」と答え、「自由主義」は「自由は他人に迷惑をかけない範囲で認められるのだから、他人に迷惑をかけてはいけない」と答えるが、「直観主義」は「人を殺してはいけないなんて当然です」と答える、ということである。「正義」というのは理屈の外側にあるものであって、理屈で説明できるものではないのだ、という立場である。

この「直観主義」の最大の問題は、「理屈の外側に本当に『正義』があるのか?」というものだ。これについて本書では、2つの話を展開させる。

一つは、アメリカのロールズという哲学者が考えた「無知のヴェール」という思考実験です。これは非常に面白かった。

「直観主義」の問題は、「『正義』は直観すれば分かるっていうけど、人種とか宗教とか貧富の差など色々あるんだから、そういう立場の違いによって直観する『正義』もみんな違うんじゃない?」という点にある。これに対してロールズは、「どんな立場の人でも絶対に正しいといえる『正義』を導き出す方法を見つけたよ!」と主張したのだ。それが「無知のヴェール」である。

「無知のヴェール」は、ドラえもんの道具のようなもので、頭に被せると、自分に関する一切の情報を忘れてしまう、というものだ。本書には、『記憶喪失になった直後に、身体を縛られて真っ暗闇に放り出されたみたいな感じ』と説明される。

さて、こういう状態の人を多数集めて、どういう社会を作るべきか考える、という思考実験をします。すると必ず、「自由原理」と「格差原理」という2つについては浮かび上がってくる、と考えました。要するに、「差別しないで自由を保障しろ」と「なるべく格差の少ない社会にしろ」というものだ。


何故か。「無知のヴェール」を被ると、自分の情報を忘れてしまう。この話し合いの後、「無知のヴェール」を取り外したら、自分がホームレスかもしれないし、大金持ちかもしれない。あるいはキリスト教かもしれないし、イスラム教かもしれない。片腕がないかもしれないし、世界中に豪邸を持っているかもしれない。自分に関する属性が分からないままだと、特定の属性を持つ人を優遇する政策は提案しにくいし、また格差の大きい政策も提案しにくい、ということになる。

『「(僕がお金持ちの可能性もあるから)お金持ちが裕福な暮らしをするのは認めてもよいけど、(僕が不遇な人の可能性もあるから)もっとも不幸な人の最低限度の生活は保証してほしい」という考え方に落ち着くわけか』

これは「格差原理」に関するセリフだが、なるほどという感じだろう。「直観主義」の人は、こういう思考実験によって、「どんな立場の人であってもたどり着く、絶対的な『善』というものは存在する」と主張するのだ。

さて、一方本書では、この「直観主義」の問題提起から、過去2500年の哲学史の話が展開される。
これが非常に面白い。

これまで哲学では、「相対主義VS絶対主義」「原子論VSイデア論」「唯名論VS実在論」「経験主義VS合理主義」など、様々な哲学的な対立があった。しかしこれらは、より大きな視点で捉えれば、「善や正義が『枠の外側』にあるか『枠の内側』にあるかという論争」であるということを提示します。これは本当に「なるほど!」という感じでした。

しかしここで、あの有名な「神殺しのニーチェ」が登場する。ニーチェは要するに、「『枠の外側』にあるもののことなんか考えてるから人間はロクデナシになったんだ!」とは言ってないけど、そういうようなことを言った。このニーチェの主張以降、なんと哲学の世界では、「善や正義が『枠の外側』にある」という主張は出ていない、というのだ。善を追求する哲学は、ソクラテスが始めニーチェが終わらせた、ということである。

なるほどなぁと思うんだけど、その一方で、ドストエフスキーの話の部分で登場する、「『神』の存在を想定しなければ、物事に『善悪』は生じない」という考え方も「なるほどなぁ」という感じだったので、哲学というのはやはり一筋縄ではいかないなぁ、という感じである。

さて、この後、本書で僕が一番好きな場面が出てくるんだけど、詳しくは触れないことにしよう。主人公が、ある熱弁をするのだ。そこで彼は、『正義は、答えを出したらいけないんだ!』という結論に達する。どうしてそう考えたのか、という理由に非常に納得感があって、確かにその通りだなと思う。「正義」というものを考える中で、ずっとモヤモヤしていた部分を、この場面でスッキリさせてくれたような感じだった。主人公が主張するように、「正義」とはあらかじめ確定できるものではない、と捉えておくことは、極限状況に置かれた際に究極の判断をしなければならなくなった自分自身への負担を減らすことが出来るのではないかと思う。

さてそこから、「構造主義」「ポスト構造主義」の話になるのだが、これは要するに、「人間は自由に物事を考えてる風だけど、実際はそんなことはなくて、社会(システム)に支配されて、そこから外れた判断は出来ない」というような感じだ。

この話の流れで、フーコーが記した「監獄の誕生」という本の話になる。この話は非常に面白かった。それまで犯罪者は残虐に処刑されるだけだったが、ある時から「監獄」という仕組みが生まれた。これによって、「普通の人間」と「普通ではない人間」という区別が明確化されてしまい、それによって、「正常に生きなければならない」という圧力が高まった。そのことが、現在の監視社会、さらに相互監視社会に繋がっているのだ、という指摘で、このフーコーの話が、本書全体の設定と関わってくるのだ。さらにそこから、主人公は懸念であった大きな問題の解決策を提示することになり、そしてその延長線上に驚愕のラストが…という流れになっている。

相変わらず知的好奇心をズバズバ刺激される一冊でした。最高やな。


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