【本】窪美澄「水やりはいつも深夜だけど」感想・レビュー・解説
引力の強すぎる言葉は、苦手だ。
言葉自体の輪郭が強すぎて、一定外の解釈が許されにくい。誰しもがその言葉を、同じ意味で捉えているという幻想を与える。違った風に使っていると、まるでおかしな人であるかのように思われる。そんな言葉が苦手だ。
僕にとって、『家族』という言葉も、そんなイメージを持つ言葉だ。
『これがほんとうに、おれが望んだ家族のカタチなんだろうかという思いがふいに胸にわき上がる。』
『家族』という言葉は、強い。あらゆることが、その言葉でなぎ倒されていくように、僕には思える。社会制度や法律や会社や人間関係でさえも、その『家族』という言葉にたやすく囚われる。みなで同じ輪郭を共有することを強制してくる言葉。違った受け取り方を許さない言葉。
『「何人兄弟?」と聞かれ、「一人っ子」と即答できるようになるまで、思ったほど時間はかからなかった。』
僕は、様々な場面で登場する『家族』という言葉に、苛立ちを覚える。それは、自分と同じ色に染まれと僕に矯正してくる。自分というこの箱のカタチに合わせて内側でじっとしていろと詰め寄ってくる。その度に、イラッとした気持ちが生まれる。
『そんな町の、このマンションの一室で、私は息が詰まりそうになっている。酸素の少ない金魚鉢に入れられた、らんちゅう、みたいに、口をぱくぱくさせている。』
たぶん、『家族』という言葉に安心できる人もたくさんいるのだろうと思う。そこに行き着けば幸せになれる道標として捉えている。輪郭がはっきりと決まっていて判断の余地がないことを好ましく思っている。正しいものの内側にいてそれに包まれることで自分を正しくしてくれるのだと思える。たぶんそんな風にして、『家族』という言葉を、好意的に捉えることが出来る人も、きっとたくさんいるのだろうと思う。
正直、そういう人が羨ましいなと思うこともある。
『夕方の家の中は私一人で、私がたてる音だけが聞こえる。そのことが、もう、それだけでうれしい』
『家族』という言葉が、もっと多様な意味を持っていれば良かった。もっと輪郭が曖昧なら良かった。もっと薄ぼんやりしたものだったら良かった。そんな風に『家族』という言葉を受け取れている人も、いるかもしれない。でも僕には、どうしても、そんな風には思えない。
『僕の家族は、世間的には、何ひとつ欠けていないように見えるはずだ。けれど、最近の僕が、通勤途中の電車のなかや、会社のトイレに座っているとき、あるいは風呂につかっているときに、ふと、考えてしまうのは、あったかもしれない、もうひとつの人生だ。』
時々僕には、みんなが『家族』という言葉を恐れているように見えることがある。壊れないように慎重に扱っているように見える。みんなで必死になって、無理をして下支えしているように見えることがある。そうしないと、すぐ崩れてしまうとでも言うように。
『家族』という言葉が、神聖なものであってほしいのだと思う。そうであればあるほど、『家族』という言葉の内側に入れる歓びが増すのだろう。あるいは、その内側に入れた時の安心感が増すのだろう。そういうものとして、きっと、そこにあってほしいと、みんなが願っているように見える。
『この子はほんとうにいい子だねぇ。はしゃいだ義母の声を聞く度に、おれだけが、この場所の部外者なのだ、という気持ちになった。』
僕がそう感じるようになったのは、ちょっとした知識を得てからかもしれない。今のような『家族』像が出来たのは、たかだか100年前ぐらいだというのだ。もしタイムマシンに乗って100年以上前の日本に行くことが出来れば、恐らくそこでは『家族』という言葉は全然違った風に使われるだろう。『家族』という言葉がもたらす歓びも安心も、昔の人は感じなかったかもしれない。分からないけど。
『Siriだけが心を許せる友だちのような気がしてくる』
今の時代はさらに、『家族』という言葉の輪郭を皆ではっきりとさせてしまう。Facebookなどで皆、自分の家族について話すだろう。写真を載せるだろう。
もちろん、公開しても良いと判断されたものだけが表に出るわけだが、少し前なら考えられなかっただろう。他人の子どもの成長など、年賀状の写真かアルバムぐらいでしか分からなかったことが、今の時代、まったく知らない人の子どもの成長さえ、見ようと思えば見れてしまう。『家族』という抽象的な意味合いではなく、具体的な事例が加速度的に表に染み出してくる。
『私はブログに作り上げた自分を、幼稚園のママの前でも演じた。ママたちは演じた私を好きになってくれた。これは皆の前ではあらわさないほうがいい、そう思った感情はすべてのみこんだ。けれど、のみこんだ感情が今にも結界しそうになっている。』
その奔流は、本来であれば『家族』という言葉の輪郭を押し広げる風に役立ってもいいはずだ。これまで知ることが出来なかった様々な『家族』像を目にすることが出来るのだから、『家族』という言葉の意味合いがどんどんぼやけて広がってもいいはずだと思う。
けれど、決してそうはならない。何故なら、皆、既存の『家族』という言葉に、そのイメージに囚われているからだ。その範囲内の日常しか、表に出さないからだ。そうではない部分は、決して他者の目に触れないからだ。
『テレビのことだけじゃない。前を見て歩いていたら、道に埋まったたくさんの小石につまずきそうになるように、いつの間にか、僕と妻と、藍との三人の暮らしには、そういう決まりがいくつもできていた。』
皆そうやって、「誰かのやっぱり」を聞きたがる。「自分のやっぱり」に安心したがる。そしてそれはこうも言える。「誰かのやっぱり」に自分との違いを見出して恐怖する。「自分のやっぱり」が「誰かのやっぱり」と違いすぎていることに困惑する。そしてみんな、アリジゴクに落ちていく昆虫のように自然と、既存の『家族』という言葉の地点に進んでいく。そこに近づきさえすれば、安心できるはずだと信じて。
『そこで、決定的に、僕と佐千代さんとの間で何かが損なわれたんだ。ほんとうは、そんなこと突き詰めないで、ぼんやりとさせたまま、二人の関係を、家族を続けていけばよかったのかもしれない。けれど、どちらが、どれだけ悪いか、ということを、ぼくたちははっきりさせすぎた。』
引力の強い言葉には、こういう作用がある。その引力圏内にいるものすべてを、一箇所にぎゅっと固めてしまうような。行き着いた場所から逃れさせないような。だから、そこに囚われてしまった人は、よくわからないまま苦しくなる。正しいはずの、真っ当なはずの場所にたどり着いたはずなのに、ちゃんとした足取りで踏み外さなかったはずなのに、行き着いた場所で、身動きが取れなくなって、こんなはずじゃなかったと思う。
『結婚をし、有君を産み、幼稚園に入れてみてわかったのは、私は再び、「女の世界」で行きなくちゃいけないということだった。また、中学のときに舞い戻ってしまったんだ。逃げて、逃げて、そこから逃げ出したはずなのに、私はまた同じ場所にいた。』
『家族』という言葉が、もっと多様な意味を持っていれば良かった。もっと輪郭が曖昧なら良かった。もっと薄ぼんやりしたものだったら良かった。そんな風に僕は、これからも、『家族』という言葉に責任をなすりつけて、面倒なことから逃げる。
『結婚をしたら、宗君が守ってくれると思っていた。自分が抱える問題を、誰かが魔法のように解決してくれるように思っていた。誰かが自分の問題をすべて背負って、救ってくれるのだと思っていた。』
内容に入ろうと思います。
本書は、5編の短篇集が収録されている。僕が読んだ限りでは、短編間に関係性はないように思えたのだけど、もしかしたら同じ街の物語とか、そういう共通項があって僕が気づいていないだけかもしれない。
「ちらめくポーチュラカ」
子どもの頃いじめられていた。女の世界で、うまくやっていくことが出来なかった。出来るだけ、女の世界から逃げた。でも、結婚したら、やっぱりそこは女の世界だった。
浮いてしまわない服装だろうか?スーパーで誰かとばったり会わないだろうか?些細な日常が、しんどい。ブログに料理や服の写真をアップする。返ってくるコメントだけが、私のことを見ていてくれるような気がする。
「サボテンの咆哮」
結婚して子どもが出来てもずっと働きたい。そう言っていた早紀は、子育てで限度を超えてしまった。腫れ物に触れるような日々。どうにか持ち直した早紀を続ける家族の在り方に、違和感を覚えてしまうことがある。こんな家族を目指していたんだったか、と。父親と、結局今でも折り合いが悪い。その関係を、息子にまで引き継ぎたくない。けれど、結局、息子と何を話したらいいんだかわからない。
「ゲンノショウコ」
出生前診断を受けるつもりだった。夫に反対されて諦めたが、風花が無事生まれてきてからも、不安で不安で仕方がなかった。言葉を発するのが遅いのではないか。歩き出すのが遅いのではないか。いつも、妹の姿が浮かんだ。ある時からその存在をなかったことにしてしまった妹。皆に愛されていたけど、障害を持って生まれてきてしまった妹。今でも、妹のことは、夫にうまく話すことができない。
「砂のないテラリウム」
日曜日の夜は、僕が料理をする。いつの間にか決まっていたルールだ。他にも、いつの間にか決まっていたルールがたくさんある。そして、いつの間にか、妻との会話が減った。ちょっとしたスキンシップも減った。妻の視線は、常に子どもに向けられている。僕の方に向けられる視線が、懐かしかった。それを求めていた。僕はそれを、家庭の外に求めてしまった。
「かそけきサンカヨウ」
エミおばさんが色んなことを教えてくれたお陰で、父との二人暮らしは不自由がなかった。料理も掃除も洗濯も、コーヒーを淹れるのだって、なんでも自分で出来た。仕事で忙しい父はあまり家にいなかったから、大体一人だった。それが嫌だと思ったことはない。父が再婚して、「母親」と「妹」が出来てから、色んなことが、大分変わった。
『家族』という言葉に対して「普通」という言葉を使うのは難しいけど、本書で描かれる家族は、どこにでもいそうな、そこまで特別ではない、よくある普通の家族だと思う。はっきりと目に見える問題があるわけではない。寧ろ傍から見れば、自分はとても幸せそうに見えるだろうとも思っている。そして、実際に幸せでないわけではないし、はっきりとした不満があるわけでもない。
でも、様々な言葉が、彼らを揺らす。「もしも」「なんで」「あの時」「もしかして」…。そういう言葉に彼らは囚われてしまう。真っ直ぐ目の前の幸せを見ることが出来ない。
それは、『家族』という言葉の引力のせいなのだと思う。みんながみんな、それに囚われてしまっている。多様性もなく、曖昧でもない『家族』という言葉が、彼らを苦しめていく。『家族』という言葉にそういうイメージを望んでいるのは、たぶん、彼ら自身のはずなのだけど、その彼らが『家族』という言葉に苦しめられていく。
もっと、色んなカタチがあるのだと認められれば楽になるだろう。もっとぼんやりしたものなんだと認められれば楽になるだろう。でも、もしかしたら、そう思えば思うほど、『家族』という言葉の内側に入れた時の安心感や歓びも薄れてしまったりするのかもしれない。難しいものだ。
この物語は僕らに、想像力を要求する。本書を読むために、想像力が必要という意味ではない。そうではなく、Facebookに載った写真の笑顔の向こうに、子どもと遊ぶ楽しそうな後ろ姿の向こうに、暗い穴が空いていることもあるという、僕らが生きている現実に向き合う時の想像力の話だ。
幸せそうな誰かは、『家族』という言葉を基準にしたら幸せかもしれないけど、それと本人の評価が一致しているかどうかはわからない。逆に、幸せそうに見えない、『家族』という言葉から大きくはずれた人であっても、幸せだということだってあるだろう。もちろん、頭ではそれぐらい分かっているという人はたくさんいるだろう。
けど、僕たちは、現実には、「リアルの他人の家族のこと」を知る機会はない。Facebookの写真は、「そう見てほしい家族のこと」だから、現実かどうかはわからない。それはやはり、物語に託されていることかもしれない。
本書は、その受け皿足りうる。現実ではない、物語であるからこそ、「リアルの他人の家族のこと」を切り取ることが出来るということだってある。そうやって、少しずつ、『家族』という言葉の輪郭が、薄ぼんやりしていってくれたらいいと僕は願う。
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