【本】綾瀬まる「あのひとは蜘蛛を潰せない」感想・レビュー・解説
「優しいですね」って言われることが、結構ある。
「◯◯さん(僕のこと)って、優しいですよね」って。
その度に、心がざわつく。そうじゃねぇんだよなぁ、と。全然違うんだよ、と。
でも同時に、まあ確かにそう見えても仕方ないよなぁ、と思わなくもないから、何も言えない。
僕のことを「優しい」というフォルダの中に入れてしまう人に、僕のことを分かってもらうのは難しい。その人にとっては、こたつの中で猫が丸くなっているみたいに、違和感のない落ち着かせ場所なんだろう。それで、安心している。猫だし、こたつだし、うん、大丈夫、と。別にそれを責めるつもりはない。僕の方にだって、そう見えるような隙があるのだし、そう見せたいという気持ちがゼロというわけでもないのだし、それは仕方ない。
仕方ないけど、でも違うんだよなぁ、そうじゃないんだよなぁ、という気持ちは、やっぱり拭えない。
『一度や二度、気まぐれに人に親切にするのは楽しい。けど、それをねだられるのが当たり前になると、だんだん面倒くさくなってくる』
この感覚は、僕にぴったりだ。もう少し説明すると、相手が自分に何も期待していない時(最初の一度や二度は、そういう状態だ)に親切にするのは、面白いしやりがいがある。でも、相手が自分に期待し始めると(ねだられる、という状態だ)、途端に嫌になる。「親切」の主体が、自分から相手に移ってしまっているような感じがする。それまでは、自分の意思で親切にしていたのに、次第に自分が、親切をするための一個の機会のように思えてくる。そうなると、しんどい。
「優しい」というフォルダに放り込まれると、端から『期待された状態』に閉じ込められることになる。それは、余計にしんどい。だから、「優しい」と言われると心がざわつくのだろうと思う。俺を、そんなところに押し込めないでくれ、と感じるのだろう。
最近自分の周りに、自分と似た人を見つけることが出来るようになってきた。それは、僕を本当に救ってくれる。昔は、自分と同じような人を見つけることは、とても難しかった。何故だろう?僕が探そうとしなかったのか。本当にいなかったのか。いたのに僕が見ていなかっただけなのか。わからないけど、自分が『普通』からはみ出していている気分は僕をささくれ立たせたし、相手と自分の言葉が『すれ違う』感じにやきもきさせられもした。
今は、言葉が通じる相手が何人かいる。素晴らしい。別に、僕のことを理解しているわけでもないだろうし、理解しようとも思っていないだろうけど、それでも、なんだかとても気楽だ。
主人公の野坂梨枝には、ずっと、言葉の通じる相手がいなかった。そしてそもそも、梨絵自身が、言葉を持っていなかった。
ドラッグストアの店長を勤める梨絵。就職して家を出た兄の代わりに家に残ろうと、地元中心で展開するドラッグストアに就職を決めた。28歳。離婚して二人の子どもを育てあげ、家のローンまで完済した完璧な母は、家での生活を完璧に保ち、娘の生き方に干渉し、そうやって長い時間を掛けて、真綿で包まれたような暖かさと窮屈さが家を支配した。
梨絵は、そこからずっと逃れられないでいた。
逃れたい、と思ったことがあるのかどうかさえ、梨絵にはちゃんとは分からなかった。
私は、頭が悪いから。
『何も不満はない。仕事は順調だし、母も落ち着いているし、実家暮らしのおかげで給料もちゃんと貯金出来ている。家に帰れば、いつも手の込んだ食事が私を待っている。私は最善の選択をした。母も、母の周りのおばさん達も、みんなそう言って誉めてくれる。』
でも、でも。
『けれど時々、子供の頃から眠り続けていることの部屋でまた目覚めなければならないことが無性に嫌になる。狭い穴の底にいる気分だ。同じ天井、同じ家具、同じ部屋の広さ。歳を重ねて同級生の誰それが結婚した、転勤した、今は海外にいて、などの話を聞くたび、少しずつ穴の深さが増していく気がする』
生まれて初めて、男の人と付き合った。
『いつかわかるわ。この世に、お母さん以上にあんたのことを考えてる人間なんていないんだから!』
8歳も年下の大学生の三葉くんは、自分とは全然違った。肌のすべやかさも、寄って立つ場所も、見ている方向も。
『他人を殴るより自分を殴った方が、文句言われねえしずっと簡単だもんな』
違う人間だからこそ見えるものがある。三葉くんの言葉は、自分がこれまで生きていた世界には満ちていなかった言葉は、次第に梨絵の中に染みこんでいく。初めは、全然理解できなかった。でもそれは、自分が閉じていたからだ。母と二人の世界に、閉じていたからだ。母が自分に覆いかぶさって、目隠しをしていたからだ。
『それなのに、どうして、私は母を許せないのだろう。』
生まれてこの方ずっと母に寄り添っていきてきた。まだ梨絵が幼い頃、弟を失った。それが遠因になって、父親とも離婚した。兄も、家を出て行った。母はずっと、かわいそうな人だった。だから、自分がいなくちゃいけない。
あるいはそれ梨絵にとっても、一種の免罪符ではなかったか?外の世界に出ていかなくてもいい言い訳にしていなかったか?母とは、ズルい共犯者だったのではないか?
離れて暮らしてみて、見えてくるものがある。男の人と付き合って、分かってくることがある。
日常は、大股で駆け抜けてしまえば、地面の凹凸に気づきにくい。でも、ゆっくり一歩ずつ前に進んでいけば、ちょっとした勾配や、ささやかなカーブにも気づけるようになるかもしれない。
梨絵は、それまで見えなかった、感じられなかった、分からなかったたくさんのものを、日常のそこかしこで見つける。ささやかな変化が、梨絵を変える。
普段と違ったような感じで感想を書こうかなと思ってこんな感じになりました。
なかなか素敵な小説でした。日常を丁寧に掬い取る作品なので、盛り上がりや起伏には欠ける物語なので、そういう激しい展開の物語が好きな人には合わないでしょうが、自転車で走り回れる範囲を舞台に、なんでもないようなはずのことが日常の悩みの大半を占めるような「手のひら感」を感じさせてくれる物語として、非常に優れているような感じがしました。
物凄くありきたりな感想だけど、「色んな人がいるよなぁ」と思いました。小説を読むのって、やっぱりそういう風に感じさせてくれるところが、僕は好きだなって思います。
生きているとどうしても、自分と考え方の近い人やメディアの話ばっかり触れてしまうきらいがある。それはそれで悪くないけど、そういう環境の中でずっと生きていると、どんどん『普通』が濁ってくると思う。自分たちがこんな風に思ってるんだから、世界の常識だってそうであるはずだ、というような歪んだ考え方に支配されてしまうように思う。そして僕は、それは怖いなと思う。
普段から僕は、自分と意見が合わない意見も切り捨てないように意識しているつもりだ。あくまで、なるべく、だけど。小説を読むのもそう。やっぱり、色んな人がいるよね、と思いたくて、きっと僕は小説を読んでいるんだろうなぁって思う。
『頭良くないってことにしておく方が、落ちつくのか。そういう人もいるんだ。』
三葉くんの在り方は、結構好きだ。本書には、丁寧に描かれる人物があまり多くはないのだけど、その中で三葉くんが一番いいキャラしてるなぁ、と思う。
こんな風に、本質をズバッと衝くようなセリフを時々吐く。それは、若さ故の傲慢さかもしれないし、無知故の不安の裏返しなのかもしれないけど、とにかく、三葉くんのものの見方は好きだ。梨絵と三葉くんが全然違うタイプで、二人が微妙にすれ違ったり、ピッタリ収まり切らなかったり、そういう些細なことが物語を少しずつ進ませていく。自転車を漕ぐと、前輪のダイナモライトが光るみたいに、それは物凄く小さくて穏やかな原動力でしかないんだけど、世界のサイズが小さく、とても小さく描かれているこの作品の中では、その穏やかさはむしろ安心感を与えてくれるのではないかと思う。
僕はあんまり小説の好みとかがなくて、何でも読むし、どんなものでも割と比較的楽しめるんだけど、本書のような「輪郭のはっきりしない小説」も結構好きだ。例えば、梨絵はどんな人かと聞かれて、はっきり答えられる人はなかなかいないのではないか。物語の展開を聞かれて、巧く説明できる人も少ないに違いない。僕はそういう作品を「輪郭がはっきりしない小説」って呼んでいるんだけど、結構好きです。たぶん、はっきりしない輪郭を読者が補う余地が残されている、っていうのがいいんだと思う。どんな価値観でその輪郭を補強するかによって、作品の受け取り方が変わる。そういうところがいいんだろうなと思う。
そういう、「輪郭のはっきりしない小説」を下支えしているのが、文章の巧さかなぁ、と思う。どこがどう、ということははっきりとは言えないのだけど、文章は巧いなと感じる。例えば、こんな文章とか好きなんだよなぁ。
『母の言う通り、私は生活まわりのことを一人でなにもしたことがない。ぜんぶ母がやってくれた。家のこと、生活のことについて、私の手足は胎児のように柔らかい。』
なんか、物事の捉え方が面白いなと感じました。
本当に、何が起こるわけでもない、なんということはない地味な展開の物語なんだけど、読まされてしまう物語だと思います。手の届く範囲の世界を、つまりそれは、手が届くが故に普段意識の外に外してしまう世界、ということだけど、そういう世界を流してしまうことなく、丁寧にすくい取り、目の前にあるけど意識の外に追いやられてしまう多くのことを文字に変換しているような感じがしました。是非読んでみてください。