【本】椿昇「飛び立つスキマの設計学」感想・レビュー・解説
昔から、学校の先生のことは嫌いで仕方がなかった。
いや、「先生」という存在そのものが嫌いだったのではないかもしれない。僕が真に嫌っていたのは、「先生の言うことに唯々諾々と従う同級生たち」の方だったかもしれない。「同級生」を憎むことを意識的に避けるが故に、「同級生をそんな風にさせている先生」を憎んだのかもしれない。
先生の言っていることに、素直に従う子供ではなかった。トリッキーなことをやって女の先生にぶん殴られたこともあるし、一貫性のない主張をして振り回したりもした。とか言いつつ、学級委員をやったりする、まあ割と普通の「良い子」だったわけなんだけど、外側はそこそこ取り繕いつつ、「先生」という存在への否応なしの嫌悪感みたいなものは、結局高校を卒業するまで決して消えることがなかった。
学校では、何故か先生に従わなければならないのだけど、その理由が示されることはない。何故か子供は、「先生」という存在に従うことになっているのだ。僕は、そのことそのものを「変だ」と感じるような子供だった。そして、それほど変なことなのに、周りの同級生がそれを変だと思っていないことに対しても「変だ」と感じていた。
もちろん、先生に反抗するような生徒はどこにでもいた。でもそれは、僕のような思考を経た上での反抗ではなかったと思う。単に、「先生という大人な存在に反抗する俺」というプレートを手にするためだったのだろう。彼らはたぶん、「子供は先生に従うものだ」という大前提は受け入れていて(疑問には思っていなくて)、そこに根っこを下ろしたままの反抗だったのだろうと思う。
僕には「先生」という存在が、従うべき「何か」を持っている存在には思えなかった。もちろん、子供の頃の僕に、「何を持っていれば先生に従ったのか?」と問うても、恐らく答えられないだろう。今でも、スッと言語化することは出来ないような気がする。それでも、その「何か」が絶望的に欠けている、そんな人ばかりに僕には思えていた。もちろん、ある程度の年齢を重ねた今、大人になっても人間そんな対して変わらないことは知ってるし、子供の頃の僕が信じていた「教師はこういうものを持っているべき」という理想が高すぎることも理解している。
それでも、そうだとしてもやっぱり、「先生」には「何か」が足りなかったと僕は言い続けたい。
だからこそ僕は、インパクトの強い「先生」に出会ったことのある経験を、羨ましく感じるのだ。
『気まぐれな僕の学習態度を逆手に取って、「学問でひとつ、趣味でひとつのめり込むものがあればそれで人生は問題ない。自分でスキマを見つけて勝手に伸びればいい。俺は邪魔をしない」と言ってくれたことは大きかった』
『その授業は、教師が教壇から一方的に教えるのではなく、一人ひとりに現代文学の作家を選ばせ、生徒が交代交代に教師となって六〇分間の授業を他の学生に行うというもので、高校一年生がお互いに教育実習を行うようなものだった』
『高校に教育実習に行った時、朝礼中にウイスキーの水割りを飲んでいる美術教師がいました』
『すると、神父が自分の命よりも大事であろう旧約聖書を指さして、「こんな本に書いてあることより、遠藤君の方が正しい」と言ったんです。「いろんな本を読んだりして勉強している。遠藤君はその勢いで科学の世界で活躍してほしい」と。それから先生は、ひとつだけ付け加えていいました。「ただ僕もそうだけど、この本に救いを求めないと生きていけない人間が世の中には山ほどいるということも知っていてほしい」と。』
子供の頃、子供がちゃんと見ることが出来る大人というのは、割と親か先生かぐらいしかいない。その中で「ぶっ飛んだ大人」に出会えるかどうか。これは人生を大きく左右すると僕は思う。僕には、そういう経験はない。大人になってからの人間関係はかなり自己責任の割合が多くなるが、子供の頃の人間関係は運の要素も相当大きいだろう。変人に憧れる僕としては、やはり、子供の頃になんだかぶっ飛んだ大人に出会っておきたかったと思うのだ。
さて、この本は何の本だろうか?先にそれを少し書いておこう。
本書は、広く「教育」の本である、と言っていいだろう。
『究極的には、僕は”教師”はいずれ不要になると考えている。』
『ゆえに、新卒で教員採用などというのは 僕に言わせるとあるまじきことだ。社会人経験を積み、多彩な引き出しを準備した三十歳以上の経験豊かな人材が、国家試験なみに厳しくファシリテーションの訓練を経て現場に立つ。こうした教員採用試験の改革がまずありきではなかったかと思う』
しかし、正確に言うならば本書は、「NOT 教育」の本と言うべきかもしれない。
『未来が不透明と言われるなか、指導者に必要な論理は、豪雨を降らせる高度経済成長期の「教えねばならない」という強迫観念から逃れ、若芽を信じて密林にスキマを開け、自発性の成長を待つ「邪魔しないという勇気」なのではないだろうか』
著者は、長らく高校の美術教師を務め、そこからアートの世界で様々な活動を続ける芸術家である。高校教師だった頃の経験や、あるいは様々な場所でワークショップを設計したり、様々なプロジェクトに関わったりする中で見えてきたものを雑多に取り込みながら、「変人」をいかにして育てていくか。その低減を散りばめている。
『だから自分のなかの「変人」をなるべく早く見つけて、育てることが一番重要じゃないかな』
そして、そのために最も必要だと著者が主張しているのが「スキマ」という概念だ。本書の中では他に、「ゴミ箱」という表現をされもする。
僕は、勉強は好きだったのだけど、学校という場所はどうも好きではなかった。たぶんその頃から、「周りに合わせる」ということが鬱陶しく、めんどくさかったのだろう。とはいえ、「周りに合わせる」という能力は身につけておかないと、学校という場ではどうにも生きのびられないので、周りに合わせる能力がないというわけではない。しかしそれは外面的な行動を取り繕っているだけで、内面では、あーめんどくさ、と思っていることが多かったと思う。
『僕は「場」って、許容する寛容さとか、再チャレンジが何回もできるとか、「環境」だと思うんですよ』
日本の学校という「場」には、ほとんどこういう要素はない。「寛容さ」も「再チャレンジ」もない。あるのは「同調圧力」と「失敗を恐れる空気」だ。
『日本の教室って、「正しい答え」がわかっている人しか手を挙げませんよね』
そういう場では何も生まれない。子供の頃には、それが当たり前だったからなんとも思わなかったけど、大人になってみて、そのことは強く感じる。失敗を許容し、再チャレンジを促す。そういう環境がなければ、人間はどんどん萎縮していく。そんな環境で、「新しいもの」が生まれるはずがない。
『イタリアの有名な幼児教育システム「レッジョ・エミリア」では、小学校に行く前の段階から児童たちがその日何を学ぶのかを話し合いで決めている』
小学校に入る前からそんな「環境」が用意されていれば、正しい答えが分かっている人しか手を挙げないなどという状況が生まれることはありえないだろう。
『ゴミ箱を殻にしてはならないんだよね…』
『船越桂さんのアトリエみたいに、ものはわざと出しておく方がいい。みんな効率ということを間違っていて、かえって非効率になっているんじゃないかな』
この二つはたぶん、大体同じことを言っている。つまり、「余白を残しておけ」ということなのだ。
僕が大好きなある話がある。宇宙飛行士用のプルタブの発明の話だ。
宇宙飛行士が宇宙船内でジュースを開けるとき、プルタブで手を切らないように、鋭利にならないプルタブの開発を日米の大学が巨額の資金を投じて研究を続けていた。しかし、その研究は一向に身を結ばなかった。しかしある時、日本の町工場のオッチャンがそれをひょいと完成させてしまったのだ(その手法は、今ではアメリカの教科書に載っているという)。オッチャンがやったことは、「最終的に捨ててしまう部分に、加工途中である操作を加える」というものだった。最終的に製品の一部として残らない部分に、途中である加工をする。これは、余白のない人間にはなかなか発送出来ないことだろう。「どうせ捨てる部分なんだから、そんなところに加工を施す意味がない」という思考が頭の中に浮かぶことさえないまま、無意識の内にそれは選択肢として却下されているのだろう。
『ようやく状況が落ち着き始めると、高校で教員組織に馴染めないヤサグレの教師たちが美術教官室にたむろしだした。校長や教頭といった指揮系統から何も指示がない以上何もしなくても良いのだが、「組合が気持ち悪い」と逆らってたような音楽教師のMやS、英語教師で小説家のHなど数名が、箱入りインスタントラーメン(たぶんどん兵衛)をかき集めては、頼まれもしない高校の復興計画を練り始めたのだ。
とにかく組織で平時は役立たずの人間と思われている連中は、このような危機的状況が起こると創造性を爆発させる』
今世の中は、色んな部分が「キレイ」になりすぎていて、余白がどんどんなくなっている。日本人の潔癖な性質も、それに関係しているのだろう。ちょっとでも悪だったり変だったりすると、すぐさま排除されてしまう。そうやって、綺麗なものだけで世界を作ろうとする。
セゾングループの堤清二は、開発によって街を生み出す時にこんな風に言っていたという。
「都市というものは路地裏のような非合理的なものがないと人が寄り付かない」
堤清二氏は、綺麗なものだけでは居心地の良い環境は生み出せないことを知っていた。教育の現場も同じだろう。モンスターペアレントなどが話題になり、親からのクレームに過剰にさらされている現場では、これまで以上に余白は排除されているに違いない。「危険だから」という理由で公園から遊具が撤去され、野球が禁じられるような世の中で、誰が羽を伸ばしていきていけるというのか。
『サバイバルのための余地として、あるいは人生のアソビとしての正規やきれいな空間の
隙間のインフォーマルな領域・空間がもっと拡大すれば、生きやすくなる人々はたくさんいると思います』
著者は冒頭で、こんな風に書く。
『教育現場のストレスが多用な生き方を選択する可能性を閉ざし、クリエイティブな人間がどんどん世の中から消え、人々の対話がネガティブになり、誰もがアイデアを提案することの愉しさを忘れるような社会になってゆく未来を見たくはなかった(からこの本を書いた)。』
本書を読んで僕が強く感じるのは、著者からの「教育から逃げろ!教育から逃がせ!」というメッセージである。著者は、「教師はいなくていいが、教室は必要だ」と言うのだが、これはつまり、「学びとは対話なのであって、一方通行である現状はおかしい」ということなのだ。いかに「対話」を誘発する「場」や「スキマ」を生み出し、それを維持出来るか。著者は、「教育」というものへの闘争を、そんな観点から推し進めているのである。
「人間は、”考えない葦”になりたがっているのかもしれない」
そんな風に感じることがある。
何故僕がそう思うかと言うと、日本人が、日本語を手放そうとしているように思えるからだ。
『アンケートの結果、スマホに向かっている時間を合計すると最高で一日八時間。まったく携帯を持っていない学生もいたので平均すると一人六時間というとんでもない結果が出た。いかにAO入試でデッサン不要とは言え、一日に八時間もLINEをやっていたら本を読む時間も手を動かす(タイピングはしているが…)時間もないはずだ』
『「対話」する力が恐ろしく貧弱になっていることは明白で、ゆえに集団になった時に問題解決に向かって話し合うということができない。また、語彙の不足が原因で自分の不安や不満に遠因を論理的に探査できず、感情だけがネガティブに亢進して下向きのスパイラルに落ち込んでしまう。幼児は十分に自分の感情を表現できない時には、自己発散で泣き喚くなどの行動に出るが、これくらいの年齢になるとそのエネルギーを全部内向させるから始末が悪い』
他人の会話や、ネットの文章などを読んでいると、「コミュニケーション能力」がどうのこうの言う前に、そもそも「日本語を知らない」という状態の人が多いなと思えてならない。「料理の腕がないんです(=コミュニケーション能力がないんです)」と言っている人間が、砂糖も醤油も塩も使わないで料理を作ろうとしているようなものだ。上手く出来るわけがない。
『しかし我々の周囲で魅力的な仕事をしている人々を見ると、まずは日本語で考える力と文化的教養の深い人たちであることは疑う余地がない』
『LINEやTwitterで日々コミュニケーションを取っているうちに、短文しか必要としなkうなった脳が、長い文体を操作する能力を切り捨て初めているのではないかとの危惧がある』
若い世代の人たちは、「自分と同質の人たち」に対して、あるいは「自分の好きな話題」についてはコミュニケーションを取ることが出来る。そして、これが「現代」の特徴なのだけど、それだけのコミュニケーションで日常を埋め尽くすことが出来る。
インターネットが発達する以前は、学校近辺で出会う人としかコミュニケーションを取ることが出来なかった。当然、「ただ近いところに住んでいただけ」という集団でしかないので、合わない人間もたくさんいる(合わない人間の方が多いかもしれない)。でも、他に選択肢はないわけで、そういう合わない人たちともコミュニケーションを取るしかなかったはずだ。そうやって、「異質な人」との関わり方を学んでいったのだと思う。
でも現代は、インターネットを通じて、世界中のどんな人ともやりとりが出来る。自分の周囲にいる人間が「つまらない」と思えば、彼らとのコミュニケーションは諦めてしまえる。そして、自分が心地よいと感じる、話が合うと感じる相手とだけコミュニケーションをし続けることが出来るのだ。
これは、非常に不幸な環境だなと僕は感じる。僕は本気で、自分が学生の頃にLINEが存在しなくて救われたと思っているのだけど、もしそういう時代に生きていたら、僕自身もそういう、「同質の人」たちと「好きな話題の話」だけする人間になっていたかもしれない。そう考えると恐ろしい。
非常に難しいのは、今の若者に与えられているこの環境は、「自分にコミュニケーション能力が欠けていること」になかなか気づきにくい、という点だ。何故なら、「同質の人」たちと「好きな話題の話」をしている分には、いくらでも話が続けられるからだ。
しかし、それは決して「コミュニケーション」と呼べるものではない。「コミュニケーション能力」というのは、異なる価値観・考え方を持った人間と、どう距離を縮めていけるかというその匙加減のことだろう。それを学ぶ機会も、それがないことに気づく機会も今の若者は奪われているのではないかと思う。
『(演劇をするというワークショップを学生にさせる話)課題をやっておきなさいというような生ぬるいものではなく、トッププロが夜中まで一緒に付き合うのだ。こうして意味もわからぬ不条理劇のセリフを覚えた後、彼らには実に不思議な現象が起こった。まともな文章を書けなかった学生たちが、驚くほど論理的で批判的な文章を急に書くようになったのっだ。明らかに対話の内容が変化し、プレゼンテーションの姿勢も変化した。いったいいままでの大学の講義は何だったのかと思う激変が起こったのだ。「丸暗記」というイノベーションとは正反対のような方法が、素材を厳選してプロが徹底して付き合うことで現代に有効な方法として蘇ったと実感する』
著者は芸術畑にいる人なのでこういうワークショップに関わる機会があったのだろうけど、なかなか普通には出会えなさそうなワークショップである。とはいえ、「文章を書く」「対話する」という能力が、一見それとは直接的には結びつかなそうな「(即興劇ではなく、台本を覚えるタイプの)演劇」によって引き上げられたというのは、非常に興味深い。
もちろん、「演ずる」というアウトプットも込みのワークショップなので、ただ暗記するだけによる効果ではないだろうが、とはいえ、自分の内側から生み出したわけでもない文章によって、「書く力」「対話する力」は伸びるのだ。
そして、これとも少し関係するだろうが、本書の中で幾度か「型を覚えること」の効能が語られる。
『七歳までに論語とか、書とかずっと変わらないものを教える。山でどんぐり拾うとかも石器時代からやってるでしょ。それを仕込んで、しっかりとした人間の原型をつくっておけば、社会は命脈を保つ。』
『クリエイティブに手を動かすのは幼稚園や小学校から初めないと絶対ダメだと思っていて、(中略)、幼児期から小学校二年ぐらいまでの、生きていることが中傷である時期に、変なものと出会うことが一番重要だと思います』
『それこそイノベーションですよね。古典や型を学ぶ。そして圧倒的な量をこなすこと。それが一度抜け落ちてからじゃないとね』
最近、この「型を学ぶこと」の重要さを、僕はようやく理解しつつある。正直、つい最近まで、まったく理解できていなかった。
学生時代は完全に理系で、国語と歴史が大嫌いでした。国語は「読みたいように読ませろや」と思ってたし、歴史は「なんでこんなこと覚えなきゃいかんねん」と思って碌に勉強しませんでした。今考えると、「国語」「歴史」という学問の本質を見ることなく、その外形に対する不快感に任せて嫌っていただけなんだなと思っています。
僕がきちんと本を読み始めたのは大学二年からなのだけど、読めば読むほど、「あぁ、子供の頃にもっと本を、特に古典を読んでおけば良かった」と思います。今、古典を読もうと手を出してはみるんですけど、やっぱり難しい。読めない。現代的な本であればそこそこレベルのものなら読めるし、こうして文章も書けるのだけど、古典はまるで頭に入ってこない。すぐに眠くなる。でも、それを読んだことがあるのとないのとでは、知っているのと知らないのではまるで違うのだということを、少しずつ理解し始めている。
この型は、別に古典でなくてもいい。例えば空手や書道の型でもいいし、もっと違った何かでもいい。とにかく、「長い年月残り続けているもの」「出来るだけ不変であるもの」を、もっと子供の頃に身体にインストールしておくべきだったという後悔は強くある。もちろん、大人になってから挽回できないこともないと思うが、しかし、それが何なのかわからない家から(つまり頭で理解する以前に)、身体的に取り込むという経験は、やはり子供の頃にしか出来ないことだと思う。そうやって身体化した知識や感覚というものが、本来あるべき人間のベースを作っていくのではないかと思う。
さっきも書いたけど、僕は子供の頃には、こういう「身体的にインストールする」ことの価値をまったく理解できなかった。たぶん当時、その環境が与えられたとしても、自らそれを選びとることはないと思う。だから、親でも先生でも誰でもいい。無理やりでも何でもいいから、何かそういう型をインストールさせる行為を僕にやらせて欲しかった。
『この本の隅々に満ちているのは「手と時間」の優しさをあちらこちらにインストールすることで、もっと創造的になれるという思いである』
本書は、様々な異端研究者へのインタビューや、著者自身の来歴を絡めた教育への提言、著者自身が関わったプロジェクトからの考察など、様々な文章が盛り込まれた一冊だ。話はあちこちに分散するし、正直まとまりがないと感じるのだけど、非凡な世界を走り続けて来た非凡な才能の頭の中を見せられているようで、こういうごった煮な感じも面白いと思う。
本書は、「世界の切れ目」をいくつも見せてくれる一冊だ。僕らは油断すると、世界を切り取る方法を一通りしか知らない、という状況に陥りがちだ。しかし、世界は元々広いし、インターネットが世界中を繋いだことで、体感可能な広さはより広がった。世界の切れ目は、山ほど存在する。どう切り分けるかによって、世界はまったく違った姿を見せる。
著者は、日本人が考える「ごく一般的な人生」をまるで進んでこなかった代わりに、普通の人間が意識しないと目にすることのない角度から世界を切り取り続けてきた。「こんな風に世界を切り取ることが出来る」という視点は、持っておいて損はない。
そして親は、「子供が生きる世界は、自分が生きてきた世界とまるで違う」ということを認識しておいた方がいいかもしれない。かつて成り立っていた価値観を子供に押し付けてしまうと、子供はサヴァイブ出来なくなるかもしれない。子供がどんな世界を生きていくことになるのか、その断面を「感じて」おくことは大事かもしれない。
『親が子供にできることは苦労させること。貧しさだって、教えられるものなら教えたほうがいい』
冒頭で、本書は「NOT 教育」の本だと書いた。最も良い教育は、教育をしないことかもしれない、という意味だ。
『◯◯さんはいま、何に脳がしびれていますか?』
脳をしびれさせる場を与えられるか。未来のイノベーターを生み出すキーワードは、そこにあるのかもしれない。
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