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【本】アンナ・リンジー「まっくらやみで見えたもの 光アレルギーのわたしの奇妙な人生」感想・レビュー・解説

【わたしは答える。「自分の顔にガスバーナーが向けられているような感覚です」】

【次の日の夜は、一晩中、チーズのおろし金で、体全体をじわじわ擦られているような感覚に襲われる】

【燃えるようにひりひりする】

どこまでいっても、他人事でしかない(彼女の気持ちが分かるなんてとても言えない)が、とにかく、凄いなと思う。

一年前ぐらいに、突然じんましんになった。腕や腹やお尻など、柔らかい部分に発疹が出来て、かきむしる程ではなかったにせよ、じんわり痒みが持続する、という感じだった。医者に行き、最初にもらった薬がまったく効かなかった。やがて顔にまで発疹が出てしまい、もう少し強い薬をもらったのだが、それでじんましんはスッと収まった。

あの時は本当に不安だった。

子供の頃にじんましんになったことはあったかもしれないが、ちゃんとは覚えていない。僕の感覚としては、初めてだ。だから、「この薬がもし効かなかったらどうしよう」と凄く不安だった。医者に、痒いから塗り薬がほしいと言っても、肌に問題があるわけじゃないからあんまり効かないと思うけど、というような形でしか塗り薬が出てこなかった。もし万が一この飲み薬が効かなくて、ずっとこのままじんましんが引かなかったら…。そう感じていた時間は、結局1~2日程度でしかなかったが、それでも、本当に不安だったし、怖かった。

僕のその、どうでもいいようなじんましんの経験でさえ、正直絶望するぐらいの不安を感じたのだ。だから、この女性が囚われている慢性病は、僕には耐えられないかもしれない、と思う。

彼女は、光を浴びると肌が痛くなってしまう。光アレルギーと診断されている。光というのは日光に限らず、蛍光灯の光なども駄目だ。何せ最初に彼女が光アレルギーを発症したのは、パソコンの画面だったのだ。

だから彼女は、基本的には真っ暗闇の中でしか生活が出来ない。時期によって重症度が異なり、最高に状態が良いと、夕方ぐらいから散歩に出かけられもするらしいが、発症してから本書刊行までの8年間の間に、そんな状態になれたのはごく僅かだ。8年間の内、トータルで言えば5年以上真っ暗闇の中で生活している状態だ(連続して5年というわけではないが、時間を合計するとそうなる)。

真っ暗闇、というのは、並大抵のものではない。窓やドアの隙間は完全に塞ぎ、着る服の素材にも気をつけなければならない。僅かな光もアウトだから、視覚に頼った活動は一切出来ない。音楽を聴くと、気持ちが乱れてしまうようになったという。だから彼女は、オーディオブックをひたすらに聴くか、あるいは自分で生み出したいくつもの「言葉遊び」を一人でやったり、あるいは誰かと対決したりして過ごしている。

そんな生活が想像出来るだろうか?

本書を読んで、彼女が何をしているのか、何を考えているのかは様々に伝わってくる。しかし、5年以上もの長きに渡り、光を浴びられないために真っ暗闇の中でしか生活出来ず、目も身体の機能も正常なのに家から一歩も出られない生活の、その日常感というのはまったく分からなかった。どうやったら、そんな生活を「やり過ごす」ことが出来るのだろうか?

当然彼女は、「死」について考える。

【自殺という名の黒い大きな魚が、水底の泥の中からぬっと姿を現し、行ったり来たり、泳ぎ回っている。バシャバシャとひれが水を打つ音が聞こえる。いままでになくはっきりと、とがった歯がきらりと光るのが見える】

そりゃあそうだろう。正直、こういう生活を余儀なくされれば、死んでしまいたい、という気持ちになるのは当然だと思う。彼女はこの本の中では、そこまで悲観的な自分を出さない。まあそれは当然と言えば当然だ。彼女の真っ暗闇での生活はまだ続いているのだし、本書は彼女の生活を支える人(彼女は支えがないと生きていくことは不可能だ)だって必ず目を通すだろう。いやそもそも、本書を執筆する時点で、恐らく誰かの助けを借りなければ不可能だろう(パソコンは使えないし、紙に鉛筆で書くと言っても真っ暗闇ではなかなか難しい)。そう考えれば、マイナスな気持ちはそこまで出しすぎるわけにはいかないだろう。だから、なのかは僕には判断できないが、本書ではそういう悲観的な部分はある種抑制が利いていると言っていい。しかし、日々「死」の誘惑に囚われている、というのは紛れもない事実だろうと思う。

そして本書の凄さは、そういう「死」の誘惑と隣合わせでありながら、自分の「生」をなんとか全うしようとする女性の、「闘い」と名付けるべき日常生活そのものにある。あらゆることが日々「挑戦」となる彼女の日常は、「出来ないこと」の連続に打ちのめされながら、それでも決して「希望」を捨てない。

非常に印象的な話が載っていた。かつて読んだことがある寓話の話だという。少し長いが引用したい。

【ある暑い日のこと、二匹のカエルが酪農場の涼しい乳製品工場へと、ぴょんぴょんやってきた。カエルたちは二つの撹乳器の縁にそれぞれぴょんと飛びついて、中のミルクを覗き込み、飲めるだろうかと考えていた。すると、どうしたことか。二匹とも足が滑って、ミルクの中へ、どぼん。撹乳器は底が深いうえ、縁にたどり着こうにも、傾斜が急で登れない。
一匹目のカエルはしばらくぐるぐる撹乳器の中で泳いでいたが、やがて心の中で考えた。「こんなに必死になって泳いで何になる?ぐるぐる回っているだけでどこへも出られない。泳ぐのを止めて溺れてしまってもいいじゃないか。どうあがいても、最後はそうなるんだから」
そこでカエルは泳ぐのを止めて、撹乳器の底にしずんで、溺れてしまった。
一方、二匹目のカエルも隣の撹乳器の中で、泳ぎながらぐるぐる回っていた。「どこにも出られないようだ」と彼も心の中で考えた。「でも、ぼくはまだ死んではいない。生きている限り、ぐるぐる泳ぎ続けよう」
そこでカエルはひたすら泳ぎ続けた。「なんてこった。退屈で仕方がない」。そう思いながらも、ぐるぐる数えきれないくらい回っていると、撹乳器の内側に目盛りが見えてきた。
「相棒はどうなったかな」。しばらくして気がついたカエルは、大声で名前を呼んだ。「バート!バート!」
もう一つの撹乳器からは返事がない。二匹目のカエルはひとりぼっちで悲しかった。それでも泳ぎ続けた。
ずいぶん長い時間が過ぎた。カエルはへとへとになりながら、つぶやいた。「ミルクがだんだん濃くなってきたのかな。それともぼくの脚が疲れてきたのかな」
それでもカエルは泳ぎ続けた。
やがて、本当にミルクはものすごく濃くなっていた。いつの間にか二匹目のカエルは黄色く固まった表面に乗っていた。撹乳器からひょいと飛び出すと、自由の身になった。あんまり長い時間、カエルが脚をバタバタさせてミルクを撹拌したので、バターができあがったのだ。
この話の教訓は―けっして諦めてはいけない。
わたしは二匹目のカエルのことを考える。まっくらやみのプールの中で、あてどなく巡る日々をもがき続けながら】

僕は、この話の教訓は「けっして諦めてはいけない」ではないと思う。いや、きっとそれは、著者も分かっているだろう。たぶんちょっと、言葉のセレクトを間違えたんじゃないかなと思う(あるいは、訳者の受け取り方のニュアンスが違ったとか)

僕が思うこの話の教訓は、「ジタバタしろ」ということなんだと思う。先程と何が違うのか。「諦めない」というのは、「諦めない」という気持ちを持つという捉え方と、「諦めずに頑張り続ける」という行動としての捉え方があって、ニュアンスがブレる印象がある。このカエルのエピソードは、「なんでもいいからジタバタしろ」ということを伝えている。ジタバタするという行為が、結果的に牛乳をバターに変えた。カエルが、「諦めない」と思っていても、例えばたまたま見つけた浮き輪みたいなものに捕まってじっとしていたら、バターに変わることはなかったのだ。だから、諦めずに行動し続ける、という行動のニュアンスを含めるために、「ジタバタしろ」という教訓の方が適切だと思う。

著者も、ジタバタしている。ある章で、自分がこれまでどういう「治療」(何故カッコに入れたかというと、医者がちゃんと診てくれないから、民間療法的なのを試さざるを得ないからだ。病院は、病院まで来てくれたら診ます、という反応であり、自宅に来て診てくれるわけではない)をしてきたのかが、A~Zに分けて書かれている。その中で、【わたしのことを調査してもらいたい。わたしの皮膚の生体組織検査をしたいという人が現れないのが、わたしには驚きだ。専門家の科学的興味はどこへ行ってしまったのか。結果はきっと興味深いものになると思うのだが】と書かれていて、僕も同感だ。別に僕は、医者や研究者が、彼女の病気を治療するために研究しろなどと思っているわけではない。彼女もきっとそうだろう。そうではなくて、「科学者なのに何故この事象に関心を抱かないのか?」という純粋な疑問なのだ。もちろんきっと、科学者の側にも何か理由があるのだろうとは思う。あるいは、本書は世界中に翻訳されているというから、もしかしたら今では、彼女の皮膚を研究しようという人が現れているかもしれない(つまり今までは、彼女のことがあまり広く知られていなかっただけだ、という捉え方だ)。しかし、それにしても、という感じはする。もしかしたら、彼女について研究することで、人体について新たなことが分かるかもしれないし、その過程で彼女の治療に成功するかもしれない。少なくとも彼女自身は、科学的な研究に積極性を持っている(はず。本書の中でそう明言されてはいないけど)のだから、研究するのにあまり生涯はないと思うんだけどなぁ。

さて、本書において最も驚くべきは、「ピート」という人物の存在だろう。ピートは、著者の夫なのだが、結婚後に彼女が発症したわけではない。彼女が光アレルギーを発症し、重症化した後、彼らは結婚しているのだ。

彼女の、ピートに対する感情は非常に複雑だ。まず、人として好きだし尊敬している。さらにそもそもが、ピートがいなければ生活が成り立たない。一方で彼女は、そんなピートに何か特別なことをしてあげられるわけではない。彼女は葛藤する。

【わたしは自分の良心を呼び覚まそうと、何度もこぶしで叩いて、答えを求める。子供も産めず、公の場に一緒に出向くこともかなわず、居心地のいい家庭も作れないわたし。なのに居座って、別れる努力もせず責任も取らず、こんな素敵な人を独り占めしている―わたしは間違っているのか。】

この葛藤は、本当に悲しい。彼女の、ピートに対する感情を読む度に、やるせない気持ちになる。彼女がピートに対して感じている申し訳無さみたいなものは、凄く分かる。それでも生きていくために、彼女はピートに頼り切るしかない。本書には、ピートが本当のところどう思っているのか、という記述はあまりない。もちろん、彼女自身がそれを正確に知ることは、永遠に不可能だろう。やはりどうしたって、ピートは、ある程度彼女に気を遣ってしまう部分があるだろうから。とはいえ、全体的には、彼らは深い絆で結ばれているように感じられる。

本書の中で一番胸が締め付けられる場面が、結婚式の直前の出来事だ。

【結婚式の二週間前になっても、わたしの体調はたいしてよくならない。ピートとわたしは相談する。今度もまた結婚式を取り止めるのか、それともこのまま突き進むのか。
結局、実施すると決断する。リビングルームでわたしは立った姿勢でおもむろに、ピートに向かって自分の気持ちをはっきりと伝える。彼が目をそらさないように腕をしっかり捕まえて、彼の目を覗き込みながら。「もし、結婚式の後、わたしの体調が改善しない場合、あなたがわたしと離婚したいと考えるなら、その意思をわたしは尊重します」】

なんと悲しい宣言だろう。こんなことを言わなければならない境遇が、本当に辛いと思う。しかし、言わずにはいられない気持ちも、分かるつもりだ。

その後は、こう続く。

【「わかった」と彼は答える。「でも、そうならないことを希望しようね」】

僕はピートにはなれないな、と思ってしまう。僕は、著者にはとても申し訳ないけど、ピートが彼女を諦めても責められない。そう決断した場合、ピートを責める人もいるかもしれないけど、僕には無理だ。だから、ピートは凄まじいと思う。どう考えたって、彼女との生活は大変だ。そりゃあ、大変な中にも楽しさを見いだせるんだろうけど、そう簡単なことではないはずだ。彼女も辛いだろうけど、ピートも辛いはずだ。なんとか、科学でも宗教でもビジネスでもなんでもいい、彼女たちの生活が穏やかになってくれたらいいなと少し願う。

【栄養失調になると、体が飢餓状態になる。すると最初に、蓄えていたものが消費される。体に蓄積していた脂肪がエネルギーとして使われる。脂肪も残り少なくなると、次に、もっと体の基となる組織が蝕まれることになる。筋肉が細る。体の働きや機能が衰える。皮膚が乾いてかさかさになる。感染症にかかりやすくなり、なかなか治らない。心臓の脈が不規則になる。体温が下がる。
肉体がみずからの肉体を食い物にする。
肉体と同じことが、精神にもいえる。毎日生き生きした経験を味わうことができなくなると、最初、心は蓄えていたものを消費する。しばらくの間は、一見正常に機能しているふうだが、幾重にも積み重ねた経験の豊かな蓄積から、しばらくの間は、会話の話題が引き出されているのだ。
ところが、徐々に蓄えが減っていく。わたしはその兆候に気づき始める。以前話したことをまた話す(中略)
徐々に記憶の蓄積が先細りしていくと、奇妙な混乱が起きる。たった一つのことを思い出しただけなのに、整理されてしまわれていた記憶が荷崩れをお越し、長い間考えてみたこともなかった出来事や人物のことがふと思い出され、それが昼となく、夢のなかとなく脳裏に現れる】

本当に、過酷な日常だ。自分がもし同じ状態に陥ったら…彼女のように生きていける自信はまったくない。


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長江貴士
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