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【本】pha「がんばらない練習」感想・レビュー・解説

あれ、これって俺が書いた文章なんだっけ?
と感じるような文章が、本書にはたくさんあった。著者のphaさんの本は昔から何冊か読んでて、考え方とか結構似てるなぁ、と思ってたんだけど、改めて強くそう感じた。

もちろん、全然違う部分もある。人と喋ってると頭の中がワーッとなってしまうことはないし、からあげとかポテチばかり食べてしまうみたいなこともないし、ライナスの毛布みたいなお気に入りの布があるわけでもないし、旅行の荷物を減らせないわけでもない(旅行の荷物については、昔は減らせなかったけど)。そんな風に色々と違う部分もあるんだけど、うわっマジこれ俺が書いた文章だわ、というような部分も多々ある。

【自分が何か意見を口にすると、自分にも責任の一端が来てしまう、という気持ちがある。自分で選択をしたくない。何も選ばなければ、何か悪い結果になったとしても自分は無責任な被害者でいられる。自分は何も悪くないのに、どうしてこうなったんだ、と言っていられる。
ひたすら受け身で何もせずに、今から何されるんだろう、と思っているのが好きなのだと思う。】

【何も決めたくない。自分に選択権や決定権を与えられるとどうしたらいいかわからなくなる。
スクリーンを眺めるように、ひたすら世界とは関係ない観察者でいたい。誰かに全部決めてほしい。
そして、自分は何も悪くないのに、全部だめになってしまった、全てが壊れてしまった、どうしてこうなったんだ、と一人でぼやき続けていたい。甚だ無責任なことだけど】

メッチャ分かるなぁ。誤解されそうなので一応書いておくと、著者は別に「選択しないこと」によって、何か問題が起こった時に相手を責めたいと思っているのではない。そうではなくて、「自分が悪かったんだと思いたくない」という感覚の方が強い。それは、本書全体を読んでいても感じる。他人に責任を押し付けたい、というのではなくて、自分に責任が降り掛かってほしくない。その感覚は凄く分かります。僕も、誰かが適当に僕の人生を動かしてくれたら楽だなぁといつも思っているし、相手の決断に委ねているから相手を責めるつもりはまったくないし、でも自分で決めてないしから自分が悪いと思わなくて済む。素晴らしい。僕も意識的に相手に選択を委ねるようにしている。そして、自分が選択を委ねられたらプレッシャーを感じてしまう人間だから、相手に選択を委ねる時、そのプレッシャーを出来るだけ感じずに済むような感じにしたいとも思っている。まあ、実現できているかは分からないけど。

同じような話に、

【多分その「適当」が苦手なのだ。】

という話もある。

【何かをしなきゃいけないという立場になると、「きっちりやらなければいけない」と一人で勝手に気に病んで、過剰にがんばりすぎてしんどくなってしまうから、最初から全てを放り出してしまう。それが僕の癖なのだ。なんかもうちょっと融通が利かないものかと思うのだけど】

これも凄く分かる。これも、相手に選択を委ねるのと基本的には同じ発想だ。「自分に責任がある」という状態が、怖い。僕も、「きっちりやらなければいけない」という感情はとても強いんだけど、でも、「最初から全てを放り出す」というのもちょっと難しいので、「こいつはダメなやつだと思ってもらう」というやり方をしている。「こいつに任せたらマズイ」と思わせることで、自分に向けられる責任を回避しようとするのだ。

また「選択」については、こんなことも書いている。

【何かを決めるということは、それ以外の別の何かになり得た可能性を全て殺すということだ。常に最善手を選んでいたいのに、それが自分の愚かさゆえにわからない。それだったら何も決めたくない。決めなければ失敗はない。決めなければ、世界は何にでもなれる可能性を持ったままを保っていられる。そんな風に思ってしまう。実際には、何も決めないということも、何も決めないという選択肢を選んでいるだけに過ぎないのだけど】

この話も、凄く分かる。ただ僕の場合、この感覚は、どちらかというと他者に向けられることが多い。色んなことをスパスパと決断している人を見ると、「今そこで決断していることは、他の可能性を閉じるっていうことなんだけど、それに気付いてる?」と思ってしまうのだ。もちろん、選択肢を一つに絞って、リスクはあってもそれに注力する、というようなやり方をしなければ実現できないようなこともあると思う。限られた人間しか叶えられないような、いわゆる「夢」と呼ばれるようなものを実現するためには、そういう態度も必要だと思う。ただ、例えば、「結婚しなければ幸せになれない」という考えはどうなんだろう?人生には、結婚するという選択も結婚しないという選択もあり得る。しかし、「結婚しなければ幸せになれない」と決めてしまっている人は、結婚しないで得られる幸せ、みたいなものを全部殺してしまっていることになる。それは良いんだろうか?と僕はいつも感じてしまう。あなたがしているその決断は、あなたを本当は幸せにしたかもしれない他の選択を全部無いことにしてるってことなんだよ、と思ってしまうのだ。

そんな風に考える僕は、著者のこういう感覚にも納得感がある。

【世の中の人の意見で、百%正しい意見とか百%間違っている意見というものはあまりない。それぞれある程度の理があったり、どっちもどっちだったりする。だからわざわざ相手の言うことを否定する気になれないし、相手を否定してまで主張したい意見もない。相手の言うことを否定して議論になるとたくさん離さないといけないから面倒臭いだけかもしれないけど】

僕も割とこう考えてしまう。僕も、たまには強い意見、それこそ「百%正しい」とか「百%間違ってる」と思う場面もある。でもそれは、「未来永劫どんな場面でも常に正しい」と言っているわけではない。そうではなくて、ある枠組みがある状況下で、「その枠組みの中では絶対に正しい/間違っている」という判断をしている。その枠組みの外側に出れば、その正しさ/間違いも変わってくる。そういう風に自分で理解しているから、「未来永劫どんな場面でも常に正しい」という意味で「百%」という言葉を使うことは、「数学」に対して以外使うことはないと思う。

だからだろう。著者は「会話」に対してこんなことを書いている。

【世間話って無意味だろ。相手の発言の一つ一つにどういう意図があるのか全く読み取れない。どう応答すれば正解なのか】

【そもそも人と対面しているというだけで緊張してどうふるまえばいいのかわからなくなるのに、その上会話なんていうルールのわからないゲームをふっかけられたらパニックになるしかない。でも、社会はそれを当たり前のこととして強要してくるのだ】

僕は正直、雑談とか結構得意なので著者とは違うと思うのだけど、ただ僕も、男同士の会話に対してこういうことを感じる機会はある。女性との会話は「共感」がベースになっているので、特別な主張を持っているわけではない僕でも会話がしやすい。割と誰が言っていることも、「なるほど、そういう見方もあるよなぁ」と思ってしまう人間なので、「そうだよね」という相づちが自然に出てくるし、それで会話は成立する。ただ男同士の会話の場合は、どうもそうではない。未だに、男同士の会話のルールが掴みきれないのだけど、そういう意味でいうと、著者の感覚は分かる気もする。

著者が「会話」を苦手と感じるのには、自分に言いたいことがないから、という理由もあるようだが、それについてもこんなことを書いている。

【大体何でも、本当に何かの真っ最中にいるときは、そのことを言語化することができない。真っ最中にいるときは自分に起こっているのがどういうことなのかわからないからだ。言語というのは人類が持っている最大の問題解決ツールで、言語化できるということは、すでにある程度それを乗り越えているということなのだ。
人は文章を書くとき、自分の中である程度終わっているもの、ある程度一段落しているものについてしか書けない。「書く」という行為には、既に終わりかけている何かをはっきりと終わらせて、その次に進めるようにする効果がある】

普通に考えれば、「書く」よりも「話す」方が高度なことをしている。だって、瞬時に自分の言いたいことをまとめて口から出さなければならないからだ。世間的には、文章を書くのが苦手という人が多いし、その気持ちも分からないではないが、どう考えても、行為単体で見れば、「書く」より「話す」方が難しい。それでも多くの人が「話す」方が楽だと感じるのは、それはただ慣れの問題であって、昔からずっとやってきている行為だということに過ぎない。

「書く」ことも「話す」ことも、自分の内側から何かを出すという意味では同列の行為であり、しかし、「書く」時はじっくり時間を掛けられるのに対して、「話す」は瞬間的な行為なのだから、著者が「話す」ことに苦手意識を感じるのは当然だろうと思う。まして、「言語化する=問題をある程度乗り越えている」という認識を持っているとするならば、容易に言葉を口から出すわけにはいかないだろう。こういう部分できちんと立ち止まることが出来る、という意味でも、著者は普段から様々なことを考えているし、当たり前を当たり前と思わず止まることが出来る強さがあるのだなと思う。

好みについても、感覚的に凄く分かる部分がある。

【終わりが見えているものや日数が限られたものが好きだ】

僕は、何か「面白い」「楽しい」と思うようなことをやっていたとしても、「これがずっと続くとしたら嫌だなぁ…」と考え始めてしまう。一番顕著なのが恋愛で、その時は楽しいのだけど、「これがずっと続くとしたらしんどいなぁ…」という感覚になってしまう。だから、最初から終わることが確定していることの方がいい。期間限定である、と感じることで、「たとえ飽きても終わりが決まってるんだし安心」と思えるし、「終わりまでの間に自分のパワーをどう配分するか」という感覚も掴みやすい。

また、こんなことも書いている。

【そもそも人間関係に限らず、時間とともに減衰するものが全て嫌だという気持ちもある。例えば、いつの間にか服が擦り切れてヨレヨレになってるとか、靴の底が剥がれて履けなくなってるとか、昔からそういうのにすごく納得がいかない。全ての持ち物は半永久的に使えてほしい。なんだか毎週毎週何かを買い換えなきゃとか補充しなきゃと思ってる気がするんだけど、そんなどうでもいいことに思考のリソースを取られたくない】

「面白い」とか「つまらない」など、評価が定まるものについては期間限定であってほしいけど、別にそういうわけでもない、自分としてはどうでもいいと思っていることは半永久的であってほしい。こういう感じも凄く分かるなぁ、と思う。本書には、髪の毛とか爪も伸びたら切らなきゃいけないしめんどくさい、と書かれているけど、本当にそうだ。自分にとってどうでもいいと思っていることだからこそ、不変であってほしい。「そんなどうでもいいことに思考のリソースを取られたくない」というのは、まさに僕の感覚としてもピッタリである。

他にも、分かるなぁ、という話はいろいろある。

【何が苦手かというと、アンコールに何をやるかは最初から用意されているにもかかわらず、「本当はここで演奏は終わりなのだけど、観客の皆さんが盛り上がってくれたからリクエストに応えて特別に何かおまけをやりますね」という形式を取っているところだ。あらかじめ結果が決まっているのに形式的なやりとりをしなきゃいけないということに何か恥ずかしさと無駄さを感じてしまう】

【それは多分、列車に乗っているときに限らず、自分は本当にここにいていのだろうか、ということに根本的な不安を持っているからなのだと思う。(中略)
電車だとお金を払って切符を買うだけでそこにいてもいいと認められる。楽なものだ。人生でもときどき車掌さんがやってきて、ちゃんとやってますね、生きていて良し、って言ってくれたらいいのに】

【十代や二十代の頃などは、自分がどういう人間なのか、自分に何ができるかが全くわからなくて、ひたすらもがいてわけがわからないままに全く向いていないことに手を出して失敗したり恥をかいたりということが多かった。あの頃は大変だったなと思う。二度と戻りたくない】

【老後を考えて毎月少しずつ積み立てていこうとか、そうすると税金が控除されて得だとか、そんな暮らしをずっと続けてたら六十代や七十代になったとき困るよとか。
みんなそれは本気で言っているのか。本気で二十年後や三十年後のことを実感を持って考えられるのか。何かに騙されてないか。でも、多分みんなできるのだろう。だから世の中にはこんなにも多種多様な金融商品が存在するのだ】

なるほどなるほど、そうだよね、と思いながら読んでしまった。メッチャわかるぅ。

あと、個人的に凄い文章(というか考察?)だと思ったのが、カレーの話だ。何故カレーだったら食べられるのか、という話を、定食や牛丼やチャーハンなどと比較して1ページ半ぐらい使って語っている部分があるんだけど、これは凄いな。言われてみれば、なるほどそれは俺にもある感覚だ!ってなるし、でも正直そこまで考えたことなかったし、気づきという意味では本書で一番気づきのある箇所でした(笑)

あとがきで著者は、

【この本は僕が自分のだめな部分を認めて受け入れるための「がんばらない練習」を集めたものだ。これを読んだ人がそれぞれ抱えている自分の「できなさ」とうまくやっていく参考になればよいなと思いながら書きました】

と書いている。そういう本です。


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長江貴士
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