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【本】平山瑞穂「彫千代」感想・レビュー・解説

幸せというのはどんな風に決まるのか、と考えることが時々ある。


僕の幸せ閾値は、とても低いと思う。特にやりたいことがない。成したいこともない。食べたいものも、生きたい場所も、残したいものも別にない。

「何かが出来ないこと」に大して「不幸せである」と感じることはない。むしろ、「嫌なことをしなくていい」という状況に大して「幸せだ」と感じることが多いように思う。


知り合いに、一人で食べ放題に行く女性がいる。その人と食べ物の話になった時、「お互い、貧しい舌を持ってて幸せだね」という話をしたことがある。その人も僕も、大抵のモノを美味しく食べることが出来る。居酒屋の料理だろうが、高級フレンチだろうが、きっと同じような感覚で「美味しい」と思うだろう。だから逆に、とても鋭敏な舌を持っている人は、とても美味しいモノに対してはとても美味しいと感じるだろうけど、日常的な食べ物はそこまで美味しいと思わずに食べるだろうから不幸だね、という話である。


世の中には、年収ウン千万円以上という人もたくさんいるだろうけど、しかし、年収と幸せは決して比例しない、という話をどこかで読んだことがある。何故なら、「年収ウン千万円の生活」も、そうなった当初は刺激的だが、じきに人間はその生活に慣れてしまうからだそうだ。そういう、年収ウン千万円だからこそ体験出来る日常にはすぐに慣れてしまうのに、ウン千万円を稼ぐために必要な膨大な労力は変わらない。だから、そのバランスがおかしくなって、しんどさを感じるようになってしまう人もいる、という話だった。


幸せというのはどんな風に決まるのだろうか。


僕は、「器に適切な量の汁物が入っている状態」が幸せなのではないかと感じる。少なすぎても物足りないし、溢れんばかりに多すぎても対処しきれない。


幸せがそんな風に決まるのだとして、難しいのは、「汁物の量を自分ではコントロールしにくい」と「器の大きさを知ること」ということだと思う。


汁物の量は、様々な要因によって変化するだろう。収入や仕事や人間関係などから、幸運や天災などまで、ありとあらゆる事柄によってその量は変わる。自分の才覚でコントロール出来る部分ももちろんあるだろうけど、成り行き任せにするしかない部分もきっと多いだろう。増やしたい、という意思だけでは、なかなかどうにもならない部分だろうと思う。


しかしそれ以上に、自分がどれぐらいの器を持っているのかを知るということが、きっととても難しいのだろうと思う。


お金がたくさんあれば幸せになれると信じてがむしゃらに努力することで汁物の量を増やしても、自分の器がそれに見合うものでなければ受け止めきれないし、逆に自分の器の大きさをきっちりと理解して、それに見合った量の汁物で満足していれば、他人と比べて絶対的に量が少なくても、その人は自分の生き方に対して幸せを感じることが出来るだろう。


器の大きさは、結局、結果論でしか見えてこないものであるようにも思う。
自分の頭に器が載っかっている。それがどんな大きさなのか分からない。そこにとりあえず汁物を注いでみる。いつ溢れるかは分からない。そして、溢れた時に、「あぁ、自分の器はこれだけの容量しかなかったのだ」と知る。そんな印象がある。だからこそ、人生というものは難しい。


ただ、一つだけ言えることがあるとすれば、他人との比較では自分の器を知ることはほとんど不可能だろう、ということだ。自分の器の大きさに対して、常に自分の生きざまをもって問いかけ続けなければ、それを知ることはなかなか難しいのではないかと思う。


本書の主人公である彫千代こと宮崎匡は、自らの器の大きさに自覚的であり続けた男だと僕は感じた。

『まずうわべにだけ金の箔を塗って客を集めるにしても、その間に中身もほんものの金に変えていかねばならないのだ。否が応でも、これまでにもまして腕を磨いていかねばならない。そこまでの覚悟なくして、できることではない』

かつて短い間だけだったが絵を習ったことのある男の言葉を思い出して、彫千代がある決意をする場面だ。この時点で彫千代は、かなり腕の立つ刺青師であった。しかしそれでも、「うわべに金の箔を塗って客を集める」ことに対して一瞬の躊躇を見せる。自らの器の大きさに自覚的でない者に、こういう発想は出来ない。いつの世にも、上っ面だけ達者で中身のない人間というのはたくさんいるものだろう。彫千代は、そういう人間になるつもりはなかった。結果、彫千代は名声を獲得していくことになる。

『よくも悪くも、てめえの中にある掟にしか従わない人だった。』

『あいつは、なんやこの国の尺に合わへんとこがありよったなあ。なんしか、わしの手には負えへん奴やった。もっとも、あいつが手に負えるもんなんぞ、この世にはおへんのんとちゃうか。』

彫千代をそう評する者がいる。狭い世界ながらも、揺るぎない名声を獲得するに至った彫千代は、傍から見るとなかなかに得体の知れない人物だった。しかし、彫千代には、自らが希求する、一本の真っ直ぐな道を常に見定めていた。幼い頃から、彫千代の胸の内にあったのは、その二文字だった。


「自由」だ。


彫千代は、いつどこにいようとも、「自由」を希求して生き続けた男だった。


内容に入ろうと思います。


メインとして描かれる時間軸は二つだが、冒頭はニューヨークから始まる。刺青を持つ女性の死体が発見され、警察が捜査を開始する。


舞台の一つは、彫千代のことを「千代兄ィ」と呼んでずっと慕っていた清吉が語るパートだ。異人相手に刺青を彫るという男が、ちょっとしたゴタゴタがあって清吉の父が持つ家に住むことになった。海岸通りのアーサボンドという商館に雇われていたのだが、その妾だったおフミさんと、その子どもであるおシヅちゃんと一緒に越してきた。最初こそ得体の知れない雰囲気に近寄れなかったが、やがて年下であるにも関わらず「千代兄ィ」と呼んで親しくするようになった。とてつもない腕とともに刺青師というヤクザな稼業を行いながら、家族を心底大切にする生活。穏やかで嘘のない生活に思えるが、時の流れが少しずつ、少しずつ色んなものを変えて行く。


もう一つの舞台では、若き頃の彫千代自身が語りてだ。まだ彫千代と名乗っていない、宮崎匡という少年時代から、いかに彫師を目指し、どのような経緯があって海外で名声を獲得するに至ったのか。その波乱に満ちた道中で、どんな人と出会い、それがどのように人生に関わっていくのか。


二つのパートが交互に描かれる中で、彫千代という得体の知れない男のことが少しずつわかったような気になる。そしてそれと同時に、どんどん霞の奥へと輪郭が消えていくような感覚にもなる。

本書の背景となる時代のことは詳しく知らないけど、いくら文明開化が急速だった神戸・横浜(共に彫千代が異人相手に刺青稼業をしていた)といえど、今とは「自由」に対する感覚が大きく違っただろう。彫千代を慕っている清吉でさえ、「戦が長引いてにでも取られた日にゃ、それこそ迷惑千万ってやつだぜ」と言った千代兄ィに対して、その言い草はないんじゃないかと反論する。しかし千代兄ィは、まじめな顔をして清吉に反論する。

『清公ョ、おめえは人が戦に出るってのがどういうことなのか、わかってるのかョ。死んでいく日本の兵隊は言うまでもねえ、清国人の兵隊にだって、親兄弟や子どもはいるんだぜ。もともとはかない命を、殺し合いでもっと短くするなんて道理はねえ。国と国との諍いなら、もっと別のやりようがありそうなもんじゃねえか』

こういう考え方は、子どもの頃から一本筋が通っている。学問所に通っていた宮崎匡は、周りの子どもが「ここで勉学に励んで国を背負って立つ人間になるんだ」と意気込んでいるのを、冷めた目で見ている。

『自分が貧乏侍の子として生まれたのもたまたまなら、駿河国に生まれたのもたまたまだ。そこに特別な意味を見出すことが、匡にはできなかった。まして、つい最近まで存在を意識してすらいなかった「日本」という大きなかたまりが、自分にとってなにものであるというのか』

結果的に彫千代は、時代に収まり切らない人間として評価を受けることになる。異人相手に彫師をして、海外で恐るべき名声を勝ち取るなど、当時を生きていた人間には想像もつかないことだろう。それは、彫千代自身もきっと同じだったはずだ。しかし、彫千代は、他の彫師と明らかに違った。これから書くことは、本書の中では決してメインで扱われるような話題ではないのだけど、僕の印象には強く残った。


伝統とサービスの話だ。


彫千代は、まだ無名の宮崎匡である頃、彫安という腕の立つ彫師から技術を学んだ。しかしやがて彫千代は、彫安のやり方(それは、この時代の彫師の一般的なあり方でもあったのだろうが)に疑問を抱くようになる。


彫安のような彫師は、「伝統的であること」に価値を見出す。彫る絵柄は不動明王や文覚上人など、刺青として古くから知られている絵柄であり、また刺青をする手法にしても、「痛みまで耐えてこそ刺青」「見本帳のようなものは要らない」というような古いやり方を踏襲している。


しかし、彫千代は、彫師としてのキャリアのスタートがそもそも異人相手だったこともあってか、刺青界のこうした古いやり方を、自らの手で変えて行く。誰にでも絵柄が分かりやすいように見本帳を用意し、痛がる客にはそっとモルヒネを打つ。


何より彫千代が好んで描いたのが、ヤモリやトンボと言った小動物だ。これらは、伝統的な刺青の世界では決して好まれない図案だが、異人たちには受けが良かったし、何よりも彫千代の刺青は、「まるで生きているように見えた」という。

『兄ィ小さい生き物を彫ると、本当にそれが肌の中で生きているみたいに見える。だが、たとえば水滸伝の武将みたいなものが、人の肌の中に収まる道理はない。彫ったとしても、どこか嘘くさくなってしまう。兄ィは、それが気に入らなかったんじゃないだろうか』

彫千代は何度か、彫師としてのあり方を批難される場面がある。それはそれは様々な立場の人間から批難されるのだが、こと技術とサービスという点に関して彫千代はこんな風に語っている。

『俺がまっとうに技を磨くのを忘れているってあの人は言うがョ、俺に言わせりゃ、あの人が忘れていることもあるのョ。技に溺れちゃだめだ。俺の彫』りものは、今日もそうだが、少なくとも人を喜ばせてるじゃねえか。異人の客だって、みんな喜んで帰っていくじゃねえか。あの人の腕はなるほどてえしたもんだが、どこかでその大地なことを忘れちいまったんでえ。俺は、そうはならねえ』

また彫千代自身は、自らが彫る刺青に対して、こんな風に言っている。

『清公、考えてみろ。俺が彼奴らの白い肌につけた図がョ、海を渡って広い広い世界に散らばっていくんでえ。俺の絵に手足が生えていて、えげれすやらめりけんやらふらんすやらの街中を勝手に歩いていくのョ。考えただけでこう、胸がぞくぞくしてきやがらねえかい』

『俺の彫りものは、言ってみりゃ血を分けた子みてえなもんョ。俺は異国には行ったことがねえが、俺の子どもたちがかわりにあっちこっち行って、挨拶してくれるんでえ。日本でどれだけ名が上がっても、それはこの狭え島の中だけの話ョ。そんなもんより俺は、世界中に俺の子どもを撒き散らしてえのサ』

たぶんこの感覚も、彫千代自身がずっと求め続けた「自由」という在り方とか関わってくるのではないかと思う。自分自身が自由に生きていくことももちろんだが、自分が生み出した作品であっても、狭いところには留まって欲しくはない。結果論の後付かもしれないけど、それでも、そんな考え方は実に彫千代らしいと感じられる。

『それは、自由への憧れだ。しがらみを振りほどき、自分の思いを貫き通すこと。今まではこうだったからとか、普通はこうだからといったつまらないしきたりやならわしのようなものに背を向けて、自分だけの力で道を切り拓き、思うがままの方向に足を進めていくこと。
なにものにも囚われず、己の信ずるところに従いなさい―いつか母から聞かされたその言葉が、胸の奥底で鼓動を打つように大きく躍った。』

自由を求め続けた男は、生まれ持っての大器と共に、どんどんと高みへと登っていく。彫師としての技術と名声が高まれば高まるほど、彫千代はより自由でいられるはずだった。少なくとも、彫千代はそう考えていたに違いない。


しかし、そうもうまくはいかなかった。目に見えるきっかけは、言ってしまえば些細な出来事ではあった。彫千代がそれまでの苦難の人生の中で経験したことに比べれば、何ほどのことでもなかったはずだ。


しかし、それによって彫千代は気付かされたのだ。


自分が抱えているものの重さを。


手放すことの出来ないものの輪郭を。


今までそれを意識せずにいられたからこそ、彫千代は自由だったと言っていい。しかし、それに気付いてしまった以上、そのことを考えずには居られなくなってしまった。自由を求め続けて生きてきたはずなのに、いつの間にか自分が囚われていたことに気づく。囚われていることは、決して不愉快ではないが、しかし、自分の中に異物が残る。こんなはずじゃなかった。

今が幸せかどうか、ということとは関係なく、こんなはずじゃなかった、という感覚が強くある。若い頃は、無鉄砲でいられた。守るものもなく、何ほどでもない自分の存在など、消えてしまってもどうということもなかった。しかし今は、守るものがあり、そして自分自身が自分だけの存在ではないことにも気付かされてしまう。今自由を希求しようとすれば、多くのものを手放さなければならないということを知ってしまった。

『大事にしようがどうしようが、この手から逃げちまうもんは逃げちまうってことなんだよな』

この気持ちは、彫千代と同じレベルで理解することは出来ないにせよ、僕にはとてもよく理解できる。僕は、いつか失われることが確実なものには、なるべく深入りしたくない。自分の弱さを知っているから、それが失われた時の喪失感に耐えられる気がしないからだ。

だから、意識的に「好きなもの」を作らないようにしている。「それなしでは生きていくことが出来ないもの」をなるべく作らないようにしている。それは、彫千代のように、手放せないものが増えた時にはたと気づく、なんていう状況に陥りたくないからだ。

『もともと俺は、何より自由でいてえ人間なのョ。ふるさとも、日本って国も、俺にしてみりゃその自由を縛るよけいな囲いみてえなもんでしかねえ。ただョ、人ってのは、長く生きれば生きるほど、いやでもなんでも、抱えるものが多くならぁな。その分、自由も利かなくなってくるわけだ。それでも、抱えたもんを大事に思う気持ちは、重石みてえに日増しにぐいぐいと心を締めつけてきやがる。その兼ね合いの、いっとういいところを探すのが難儀なんでえ』

本書は、「自由を希求し続けた男」が、「その希求の結果手放せないものを抱える」ことになり、そのジレンマに苦悩する物語だと言っていい。そう、非常に地味な物語ではある。物語上の起伏は、さほど多くないと言っていいだろう。劇的なことはほとんど起こらない。


それでもさすが平山瑞穂である。読ませる力は圧倒的だ。起伏のあまり多くない、しかも決して馴染みがあるわけではない明治という時代を背景にした物語を、するすると読ませる。彫千代という魅力的な男を、本人視点と他者視点で丁寧に描き出しつつ、彫千代の周囲にいる人物にもきちんと光を当てていく。彫師というヤクザな稼業ではありながら、一見すると穏やかな日常でしかない彼らの生活を、その些細な変化を掬い取って描き出すところはさすがだと思う。


また、作品を発表する度に異なるジャンルの作品を生み出し続ける平山瑞穂の筆さばきも見事である。著者初の時代物(時代物という表現はあまりしっくり来ないけど)らしいのだけど、息遣いが良い。別に、明治時代の空気感を知っているわけではないのだけど、その時代の空気を絶妙に切り取っているような感覚がある。


それには理由が二つあるように僕には感じられる。


一つは、歴史的な出来事を作品にあまり登場させない、ということだ。僕があまり、昔の時代を舞台にした作品を読まないから、あまりこの話には自信はないけど、時代性を描き出そうとして歴史的な出来事を散りばめるやり方は、僕はあまり好きではない。なんというか、違和感がある。


例えば、今から500年後に、今僕らが生きている時代を舞台にした「時代小説」を誰かが書くとして、その作中に、「ガザ地区への侵攻」みたいな出来事が出てきても、どうなんだろうと感じる。少なくとも僕は、日常を生きていて、「ガザ地区への侵攻」について意識することはほとんどない(その態度がどうかはともかくとして)。

ごく一般的な市井の人間を描くとして、そのキャラクターが関心を持ちうる歴史的な出来事が描かれるのはいいのだけど、そこからかけ離れていると感じられる出来事では、うまくその人物が生きている時代感みたいなものを切り取れないように思う。その点本書は、街中がどう変化したとか、こんなものが流行り始めているなんていう風俗的な描写は多いけど、歴史的な出来事はほとんど出てこない。「大津事件」が出てくるのだけど、これもなかなか驚くような形で登場する。その時代っぽさを出そうとして安易に歴史的出来事を組み込んでいないように感じられて、そこがまず良いのではないかと思う。


そしてもう一点。平山瑞穂が描く明治時代には、「よくわからない人間が生きていける隙間」がきちんと描かれているように感じられる。


僕の勝手な印象なのだけど、時代を古く遡るのと比例して、「よくわからない人間」が「よくわからないまま生きていける隙間」というのが増えていく印象がある。逆に、現代に近づけば近づくほど、その隙間はどんどん減って言ってしまっているようにも思う。


どちらがいいと言う話ではない。近代化するということの一つの側面が、そういう隙間を無くしていくということなのだと思う。だから、その隙間がなくなるのと同時に、僕らは良いことを享受していると考えるべきだ。しかし、感覚的にはどうしても、そういう「よくわからない人が生きていける隙間」のある社会の方がいいんじゃないかなぁと思えてしまう。個人的な好みだ。


昭和や明治を舞台にした作品を読む時、僕は割とこの隙間について考える。いや、そうではなくて、巧く描写されている作品を読むと、あぁ「隙間」があるな、と感じることが多い、ということだ。子どもがその辺の通りで親からほったらかしにされて遊んでいるとか、博打打ちや将棋の真剣で生きていける世界があるなど、どことなく「きっちりしていない余白」みたいなものが、巧いなと感じる作家の小説からは漂ってくるように思う。そして、その雰囲気が平山瑞穂の作品からも染みだしてくるようにも思う。


それは、彫師を主人公にした、という部分ももちろん大きいだろう。しかし、何をモチーフに描こうとも、「時代の隙間」を描くことはなかなか難しいと思う。形あるものは、その輪郭を捉えて描けばいいだろうけど、「隙間」はどちらかと言えば、何かがないことによって輪郭が際立つような印象がある。ドーナツの穴のようなものだ。この作品には、その捉えどころのない「隙間」がうまく描かれているように思う。


繰り返すが、起伏には乏しい物語だ。ジェットコースターのような物語を求めている人にはあまりオススメはしない。しかし、野心や苦悩をそれぞれに抱えた人間が、ささやかな日常の中で織りなす重層的な物語を楽しみたいという人には非常に読み応えのある作品ではないかと思う。

彫千代というのは、実在した彫師であったようだ。どんな人物だったのかは僕は知らないし、本書がどこまで現実に基いて描かれているのかそれも分からないけど、「自由を追い求める気持ち」、そして「大切なものを守りたい気持ち」の間で揺れ動く人間の生き様が活写された物語だと思います。是非読んでみてください。


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長江貴士
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