【映画】「ワンダーウォール」感想・レビュー・解説

自粛期間中よく考えていたことは、「古いものを新しく作ることはできない」ということだ。店や施設を開けられない、という状態が長く続いたことで、個人が頑張って継続させてきた、大資本とは無縁の古き良きものが、どんどんと消えていってしまうのではないか、と思っている。

確かに、お金があれば「建物」や「空間」を作ることは出来る。「古びたような内装」や「レトロな雰囲気」なんていうのも、作ることはできるだろう。しかし、「時間の堆積」や「伝統」と言ったものは、新しく作ることは出来ない。どれだけお金を用意しても、「時間の経過」が必要なものは、パッとは生み出すことは出来ないのだ。

もちろん、古いものがすべて良い、などと暴論を言うつもりはない。悪しき伝統や、時代に合わないものも、そりゃあたくさんあるだろう。そして、その線引きを誰がどのように行うのかという部分にどうしてもファジーさが残る。だから、古いものを残す議論は難しい。

広島に、原爆ドームがある。原爆投下という歴史的事実を後世に伝えるシンボル的な存在だ。しかし実は、長崎にも、原爆ドーム的なものとして残されてもおかしくないものがあった。浦上天主堂というキリスト教の教会だ。広島の原爆ドームと同じく、完全には倒壊することなく残っていたが、取り壊されてしまった。その陰には、「キリスト教の教会をアメリカの爆撃機が壊したということが後世に残るのはマズい」と考えたアメリカの思惑がある、とする本を読んだことがある。

東日本大震災でも、同じようなことがあった。どこかの市の庁舎が津波で流されずに残っており、市民は震災の記憶を伝える遺構として残すべきと訴えたが、結局取り壊されてしまったのだと思う。

これらは、厳密な意味では「時間の経過」ではなく、瞬間的な出来事の記録とでも言うべきだろうが、しかしそこに明確な歴史が刻まれていることは確かだ。こういうものも、後から生み出すことは出来ない。

資本主義や経済至上主義は、「お金を出しさえすればいい」というような雰囲気を生む。でも、お金では絶対に生み出せないものもある。もちろん、古いものを維持するためにもお金は掛かる。お金が要らないわけではない。しかし、お金では生み出せないものを世の中から消滅させてしまう時、この映画の登場人物の一人が言っていたように、「本当にそれでいいのか?」と問う人間がいてほしいと思う。そして、痛みを感じながら消滅させる決断をしてほしい。

内容に入ろうと思います。
京宮大学には、近衛寮という学生寮がある。1913年に竣工され、2017年時点で築103年。老朽化が進んでおり、近衛寮を管理する学生自治も、大学側も、何らかの対策が必要だ、という点では合意している。
しかし、両者は2008年から激しく対立している。学生自治側は、補修しつつ存続させることを望んでいる。しかし大学側は建て替えを主張。いっときは、学生部長が学生自治側の主張を受け入れたが、数週間後その学生部長は体調不良により学生部長を辞任、大学も去った。そして次の学生部長が、話し合いなど一切しないという態度で、最終的には寮からの退去を命じてきた。
そんな学生自治と学生課の間には、心理的な壁だけではなく、物理的な壁も存在する。ある時から、学生課に「壁」ができ、壁越しにしか話が出来なくなってしまったのだ。また壁の向こうには、学生が「テラトポッド」と呼ぶ職員(名前の「寺戸」とテトラポッドを掛けた造語)がいて、責任者と話せる機会はまったくない、という有り様だ。
高校時代にこの近衛寮の存在を知り、絶対に入寮すると決めて入学した三回生のキューピーは、学生自治のリーダー的存在である三船や志村、そして一回生だが近衛寮を愛するマサラらと共に、強制退去を命じた学生課に抗議に向かった。三船は、最近反対運動の矢面に立たなくなってしまったが、久々に顔を出してくれた。いつものように「テラトポッド」が出てくると思いきや、誰もが予想しなかった美人が登場。その美人の登場と共に、三船は一言も発せず退散し、志村も弱々しい声で反対を訴えるばかり。その姿を「情けない」と感じたマサラは、近衛寮に戻ってから大暴れするが…。
という話です。

めちゃくちゃミニマムな話だけど、めちゃくちゃ面白かったです。

映画を観終わった後、映画館内にあった「ワンダーウォール」に関する新聞の紹介記事などを見ると、この映画は「モデルは存在しない」としているようです。でも、事前情報をまったく知らない僕でも、「これは京大がモデルだろう」と映画を観始めてすぐに感じたし、新聞記事の中でもそう推測されていました。映画で描かれている情報は間違いなく、京都大学の「吉田寮」をモデルにしているだろうと思います。

この映画で描かれているのは、「ある種の青春」と「権力との闘争」です。両者はある意味では交錯する部分もあるのだけど、現代では別物と考えていいでしょう。

「ある種の青春」というのは、まさにこの近衛寮の存在が体現しています。近衛寮は、魅力を感じられない人にはただのボロくて汚い建物でしかないでしょうが、僕はここに惹かれる気持ちはとても分かります(実際に住めるか、と言われたら、ちょっと考えちゃいますけど)。

なんというのか、この「近衛寮」という空間には、この空間内でしか成立させられない関係性や時間の流れがあると思います。近衛寮は、敬語禁止だったり、トイレは男女区別なしなど、自由を体現するようなルールがそもそも存在するということも大きいのだけど、やはりこの雰囲気を作り上げているのは、「この近衛寮という空間が現在も存在していて、そしてそれは、この近衛寮に住み続けてきた先達たちの存在があったからだ」という共通認識が存在しているからだろう、と思います。

まったく同じ人が、別の建物に住んでいても、同じような雰囲気が生み出されるということはないでしょう。もちろん、そこに今まさに住んでいる人という意味で、構成員の存在は大事だけど、それ以上に、近衛寮という空間そのものが、確実に何かを成立させています。登場人物の一人は、近衛寮に対する思いを「言葉にできない」と感じているのだけど、それは分かる気がします。その空間に何故か魅力を感じてしまう人たちによって連綿と受け継がれてきた何かがそこにはあり、でもそれが何であるのかうまく明言は出来ない。そういう魅力が、この空間にはあると感じさせられます。

近衛寮は汚いし(ここには女性も住んでいるから驚きだ!)、個室みたいな概念はないし、住環境としては決して優れてはないだろうけど、大学時代の数年間を過ごす場所としては、確かに普通ではない魅力を発しているだろうな、と。近衛寮での日常生活の描写というのは、映画全体の中でさほど多くはないのだけど(というか、そもそも映画が69分と短いのだけど)、「青春だなぁ」と思わされるような雰囲気が、凄く良かったなと思います。

もう一方の「権力との闘争」については、「学生自治 vs 大学」というような狭い話ではなくて、もっと広い現代性を感じさせられました。

映画の後半で、学生課に乗り込んだ時に何をどう感じたのか、そして近衛寮存続に対してどう感じているのかについて、志村がキューピーに話す場面が描かれるのだけど、そこで志村が喩えに出した「闘いの構図」は、今の日本全体(そして、もしかしたら世界全体)を覆っている雰囲気を象徴するようなものに感じられました。「僕たちは誰と闘えばいいんだ?」というキューピーの問いに対して、「敵はこの中にはいない」と志村が答えるのだけど、これは本当に、今の時代性を表している感じがします。何か問題が起こった時、末端の弱者には、声を上げるという方法しかない。しかし、権力側は、巧妙に対立軸をずらしてくる。そしてそのことに気づけないと、「今自分たちは声を上げているのだ」という事実に対して満足感を得てしまい、結局、そもそも対立の形にさえ持ち込めていない、ということにもなりかねないだろう、と思います。

この映画は、モデルは存在しないということになっているわけですが、実際には京都大学が舞台のはずです。だから、寮に住む学生たちは、地頭はメチャクチャ良いでしょう。そんな彼らが、諦念を抱くような闘争の展開に、これからの社会の未来を見るような気がしました。

物語は、「その時、恋が始まった」というナレーションから始まります。最後まで見ると、なるほど上手いなぁ、という感じだし、後半、おぉそんな展開になるのか、という感じになってとても面白いと思いました。近衛寮のモデルだろう、京都大学の吉田寮は、とりあえずこの文章を書いている現在まだ存続している。大変みたいだけど。注目度が高くなると、京都大学もなかなか強制的なことをしにくくなるだろうから、この映画を観てみよう!

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