【本】デボラ・インストール「ロボット・イン・ザ・ガーデン」感想・レビュー・解説
※このnote全体の索引は以下より
<索引>【乃木坂46】【本】【映画】
https://note.com/bunko_x/n/naf1c72665742
名前の付く人間関係が、苦手だ。
家族、同僚、先輩後輩、恋人、夫婦…。
こういう形に押し込められると、しんどくなる。
「友達」というのは僕にとって、「他に名前を付けようがないけど一緒にいる人」のことを指すと思っている。そういう意味で僕は、どんな人とも「友達」になることを目指している(その中でも、これは友達と呼べるのか?というような関係性だとさらに楽しい)。
型や外枠から関係性が始まる、あるいは、始まった関係性がそういう型や外枠に落ち着いていくと、僕は、その型に自分を合わせていかなくてはいけないような気持ちにさせられる。それが、とても窮屈だ。
「息子」という型に。
「恋人」という型に。
「後輩」という型に。
僕は自分自身を、そういう型にはめ込まなくてはいけないと思ってしまう。
どうしてそう思うのか。それは僕が、「自分」というものを捨てたからなのだけど、この話は長くなるのでここではしない。簡単に言うと、「自分」というものを捨てて、常に場や状況に合わせ続けるという生き方を選択することで、生きる負担を減らそうとしたのだ。その選択自体、間違ったことだと思ったことはないし、僕の中では良い判断だったと思っているのだけど、しかしその副作用として、名前のある人間関係が窮屈に感じられるようになってしまった。
「場」や「状況」は瞬間的なものだから、一時的にそれらに合わせることはあまり負担にならない。しかし、「関係性」というのは基本的にある一定の長さを持つから、それに合わせ続けると、少しずつしんどさが積み重なっていくのだ。
でも、型や外枠から関係性を始める人たちも、結局僕と同じように、生きる負担を減らそうとしているだけなのではないか、と思っている。
型があるというのは、ある意味で楽だ。みんなが似たような型に自分をはめ込もうとすれば、他人の意見や経験も参考にしやすいし、本やネットの集合知を取り込むことも出来る。「理想の息子」「理想の恋人」「理想の後輩」というような型を一度身につけてしまえば、他者との関係性においては、個別の微調整を加えるだけで対処出来るようになってしまうかもしれない。型があることの楽さは、想像しやすい。
でも、だからこそ僕は、そんな関係の何が面白いんだろう?とも考えてしまう。
「理想の息子」「理想の恋人」「理想の後輩」のような型を自身にも他者にも求める態度というのは、ある意味で、「人間そのもの」を見ていないとも言える。そういう人たちにとっては、型からどれぐらいはみ出していないかが大事なのであって、目の前にいるのがどんな人間なのかを見ていないのだと思う。
型先行の関係性は、やはりここが辛い。名前の付く関係性が決まると、同時に型もいくつかのパターンが提示される。そのどれを選ぶのか、という「個性」は存在しうるけど、それは、人間が本来持っている個性と比べれば些細なものでしかない。
考えすぎだ、と思う人もいるだろう。僕自身も、そう思わないでもない。でも、こうも思わないだろうか。相手に、「なんでこうしてくれないの?」「なんでこうじゃないの?」と思ったり言ったりしてしまうのは、相手そのものを見ているのではなく、相手がはまるべき型を見ているからだ、と。そしてそれは、人間の関係性に名前が付いているからだ、と。
そういう意味で、広義の「友達」という関係性も、ちょっと辛い時がある。「友達なのに、どうしてこうしてくれないんだ?」という言説は、容易に成り立ち得るからだ。やはり僕は、もっと狭い意味、つまり「普通には友達と呼ぶのは不自然だけど、でもそれ以外に呼び方はないから友達と呼んでいる」という関係性が理想だな、と思う。
『僕たち、お互いのことをあまり理解できてなかったよな。僕は君が何を求めているのかを理解せず、君は僕が何もせずにぼんやり過ごしている理由を理解できなかった』
この物語は、ある夫婦がお互いに対して見ていた「型」を捨て去る物語だ(この要約は乱暴だしかなり不正確だが、しかし、そういう風にも読める)。彼らはお互いに、「自分にとっての理想の夫」「自分にとっての理想の妻」という「型」を見ていた。「型」ではない、人間そのものである相手が、何を考え、何を求めているのか、理解しようとしなかった。当然だ。お互いに、相手は、自分が理想だと考える「型」にはまっているのが当然だ、と考えていたのだから。
この物語の変わっている点は、彼らが「型」を捨てるきっかけになったのが「ロボット」、しかも、「アンドロイド」という有能な人工知能が社会の隅々に行き渡っている世界における旧型の「ロボット」である。
イギリス南部の村に住むベン・チェンバーズは、妻・エイミーと二人暮らし。エイミーは有能な法廷弁護士であり、様々な案件を抱えて日々飛び回っている一方で、ベンは亡き両親の遺産を受け継いだために働く必要を感じていない。だから、無職である。基本的にボーッとしていて、家事もさほど手伝わない。フルタイムで働いている妻が、合間合間で家事もこなしている状態だ。
そんなある日、庭先でベンは、変わったものを見つける。
旧式のロボットだ。高さは130センチ弱。幅はその半分ぐらいで、金属製の四角い胴体と頭で構成されていた。学校の工作作品みたいなロボットだった。
なんでこんなものが家の前にいるのか分からない。とりあえず声を掛けてみるが、「名前が“アクリッド・タング”らしいこと」「今を八月だと思っているらしいこと」しか分からない。
タングの登場によって、ベンとエイミーの関係性には決定的な亀裂が生まれてしまう。ベンはタングの登場を面白がり、どうやら壊れているらしいタングを治すためにはるばるカリフォルニアまで行こうと考えている。そんな夫をエイミーは冷ややかな目で見る。いくら働かなくていいからって、そんな子供じみた無駄なことに時間を使ってどうするの、とでも言いたげに。
そしてエイミーはベンの家を出ていってしまう。離婚を突きつけられたベンは、仕方ないかと受け入れる。
そしてタングを治すべく、結果的に地球を半周するほどの長旅を始めることになる…。
この物語は、
「ベンとエイミーの関係が悪化する」
「ベンとタングが旅をする」
「戻ってきたベントエイミーの関係性が変化する」
という形で展開していく。
物語のメインになるのは当然、真ん中の「ベントタングが旅をする」という部分だが、作品全体の核はその前後のベンとエイミーの関係性の方にあるように感じられた。
ベンは、タングとの旅の過程で、様々なきっかけから自身の良くない点を見つめ直すことになる。そしてそれは、ベンとタングの関係性が「名前の付かない関係」だったからこそ起こり得たことなのだと僕は思う。
ベンとタングは、出会った時にはほとんど他人だった。ベンは、タングを治す使命感に燃えてはいたが、しかしそれは、後々振り返ってみれば、タングのためというよりは、自分自身に新たな踏ん切りをつけさせるための行動だった。強いて言えばベンはタングの保護者だった。
しばらくしてベンは、タングに愛着を抱くようになる。しかしタングは、血の繋がった子供でもないし、モノ言わぬペットでもない。意思の疎通はほとんどままならないまま、それでもベンは、タングを守るべき存在だと認識するようになっていく。
やがてベンは、タングから様々なことを教わるようになる。直接タングがベンに何かを教えるわけではないが、タングとの、人間同士では成立し得ないコミュニケーションを数多く経験することで、ベンは自分自身について様々な認識を獲得していくことになる。タングはメンターでも指導者でもないが、しかしベンにそれまでの人生では得られなかった様々な価値観を与える。
最初から最後まで、ベンとタングの関係には名前が付かない。どんな名前で呼んでみても、どうにも重要な何かがすり抜けてしまうように感じられる。
そして名前が付かない関係性だからこそ、特にベンの方は、タングに対してどうすればいいのか、常に考えさせられることになる。そこには、手本となるような「型」は存在しない。世にアンドロイドは溢れているが、ロボットはほとんどない。ホテルや飛行機でも、「アンドロイド専用」「ロボットお断り」「ロボット専用料金はありません」などと表記される。人間とロボットがどういう風に関係性を築いていけばいいのかというロールモデルが、既に失われてしまっているのだ。タングとどう接すればいいのかと考えるベンの姿勢、努力が、二人の関係性を、そしてベン自身を大きく変化させていくことになる。
さらに彼らの関係性に大きな影響を与えるのが、タングのその特殊な特性だ。詳しくは書かないが、タングは、普通のロボットではない。その普通ではない点を少し理解してもらうために、アンドロイドの話を書く。
アンドロイドは、ある限定的な機能に特化した任務をこなすようにプログラムされている。車の運転用なら運転専門、というわけだ。そうやって、様々な作業や仕事をアンドロイドに肩代わりしてもらうことで社会を回している社会だ。
これらのアンドロイドは、特化された機能については驚くほど正確で高いパフォーマンスを提供するが、しかしそれ以上成長することはない。安定的に、決められた任務をこなすだけだ。
しかしタングは、成長するようにプログラムされている。その背景には様々なものがあり、タングの出生や登場の秘密でもある。ベンとのやり取りによってタングが成長し、成長したタングとのやり取りでベンが成長する。タングが一定の場所に留まるのではなく、常に成長し続けているのだ、という事実が、彼らの関係性をより特殊なものにしているのは間違いない。
そしてベンは、タングとの「名前の付かない関係性」にとことん付き合い続けることで、大きく変化を遂げる。
『旅をしながら、君のことをたくさん考えてた。離婚に至った責任は僕にもあった。それを謝りたくて。当時は何がいけなかったのか理解できなかったけど、今ならわかる。少しは君の立場から僕自身を振り返れるようになってきた。僕との生活が君にとってどれほどのストレスだったか、今なら理解できる。』
ベンは(そしてエイミーも)、自分が相手の「型」を見ているのだということにもはや気づいていなかった。しかし、タングという「型」が通用しない相手との長旅によって、今まで見えなかった「型」が見えるようになった。そして、「型」なしでやり取りを続けたタングとの経験から、「型」を取り去ってエイミーと関わる未来のことを考える。
『君はまだ、自分が望んでいる男が本当に僕なのか、わからないでいる。僕自身がいまだに僕という男をわからずにいるのに、二度目はうまくいくなんて言い切れるはずがない』
これは、後ろ向きな発言ではない。結婚という「型」にこだわらない、という宣言だ。結婚という「型」にはまれなかったとしても一緒にいよう、という決意だ。とても前向きで、力強い意志なのだ。
ベンとタングの長旅の部分については、「タングが可愛い」という感想に尽きる。僕自身は、そのタングの可愛さにそこまで強く惹かれはしないのだけど、こういう部分にキュンとなる人は多いのではないか。正直、タングの行動や物事の判断の仕方が面白い、という以外は、ベンとタングの長旅の部分はそこまで読ませる部分はなかったかな、という気はする。決してつまらないわけではないけど、ストーリー展開自体に強い魅力があるようには思えない、という意味だ。地球を動き続けて壮大な人探しをしているだけなので、もう少し何か展開を用意するか、あるいはもう少し分量を圧縮するかした方がいいんじゃないかな、という印象も受けた。
この長旅の部分は、確かに、映像で見てみたい気はする(2016年のベルリン国際映画祭で、「映画化したい一冊」に選ばれたそうだ)。