【本】ジャン=マリ・ブイス「理不尽な国ニッポン」感想・レビュー・解説
メチャクチャ面白い本だった!
フランス人から見た日本についての本だ。
大体こういう本は、著者も書いているように、
【日本についての西欧の書籍は一般的に、頭から決めつけて判断しているものが多い。むやみに称賛するか、一貫して批判するか、あるいは「西欧と違いすぎて理解できない」国として紹介する】
ということになりがちだ。それを避けるために著者は、自国であるフランスと徹底的に比較する。
本書が面白いのは、比較した結果、どういう結論を提示したいのか、ということだ。「理不尽な国ニッポン」というタイトルから、日本を非難するような作品に思えるだろう。もちろん、非難がまったくないわけではない。しかし、全体のトーンとしては、「フランスの常識からすれば、日本はあまりに理不尽だが、しかしこのやり方はうまくいっていると言わざるをえないのではないか」という論調になっている。
【しかし私たち(※フランス人)は自由をふりかざすあまり、国家の権力を低下させているのではないだろうか?】
【しかし、一部の改善は考慮するとしても、これらの統計が示しているのは、日本人もフランス人と同じほど気分が落ち込み、さらには絶望し、ときに暴力に出るということだ。それでも、共同体、社会、国家としては、フランスより団結しているように見える。これは事実なのだろうか、そしてもし事実だとしたら、なぜなのだろう?】
著者は日本に長く住んでいる人物だ。訳者のあとがきによくまとまっているので引用しよう。
【著者のジャン=マリ・ブイス氏は、1950年パリ生まれ。歴史家で専門は現代日本。フランスのグランゼコールを代表する名門パリ高等師範学校(ENS)出身。1975年、リセ・フランコ・ジャポネ・ド・東京(現在の東京国際フランス学園)に赴任する(1979年まで)ために初来日。その後、東京大学をはじめとする日本の著名大学で教鞭をとり、現代日本の政治や経済政策についての書物を数多く発表する。1982年から1984年まで、東京日仏学院(現在のアンティテュ・フランセ東京)付き研究員をつとめ、ついで九州日仏学館(げんざいのアンティテュ・フランセ九州)の館長となる(1984年から1989年)。
1990年、やはりグランゼコールの名門、パリ政治学院研究科長に就任するためにフランスに帰国。日本とフランスの大学の橋渡し役として日仏を往復するほか、各種の大学で教鞭をとる。2013年、パリ政治学院日本代表に就任して再来日、現在に至っている。日本在住歴は20年以上、その間、日本の政治、経済、社会、外交から漫画、ポップカルチャーまでの幅広い研究に加え、本書でも触れられているように、再来日後は、日本女性の妻と子どもを通して女性問題や子育て問題など、さらに研究のフィールドワークを広げている。】
幼稚園についたらやらないといけない煩雑な作業があって大変とか、地域の祭りで神輿をかついだとか、地域の掲示板に様々なことが書かれているという風に、日本での生活に密着した話も多々出てくる。驚くのは、九州にいた頃、樹脂製の小便小僧の像を取り出したヤクザから「本物の鑑定書を書いてほしい」と“頼まれたことがある”という話だ。しかも、日本のヤクザが地域や国においてどんな役割を担っているのかきちんと認識していた彼は、誰の顔も潰さないように適切に処理したという。凄い。スポーツや芸能や歴史など様々な方面に詳しくて、本書には、不倫したベッキーの本名が載ってたりする(本書で僕は初めて本名を知った)。
さて、そんな日本に精通している著者が、フランス人と比較する形で日本人について書いてく。読めば、色んな立場の人が、「それはおかしい」「これは捉え間違いだ」と感じる部分はまああると思う(特に、日本の歴史について書いてある部分なんかは、きっと色々突っ込まれるのだろう)。僕は、全体的には「なるほどなぁ」と思いながら読んでいたのだけど、たまに気になる記述もあったりした。例えば本書には、【加えて、テレビは若者に影響力がある】とある。本書は、フランス本国で2018年に出版されたはずなのだけど、既にその頃には、若い人はあんまりテレビを見てないんじゃないかな、と思う。また、テレビ東京の「YOUは何しに日本へ?」は(著者の主観では)欧米人しか出ていない、欧米人から評価されることが日本人にとって重要だからだ、と書いていたり、同じくテレビ東京の「世界ナゼそこに?日本人」という番組が、外国で生活する日本人を不安を引き起こすような描き方をする(大変な生活をしている様を描く)のは、日本の方が良い国であることを描こうとしているからだ、と書いていたりする。個人的にはちょっと穿った見方な気もするなぁ、と思った。
まあでも、そんなことは些細な問題だ。全体としては、「理不尽なのに、何故かうまくいっている」日本について、非常に深い洞察をしている。
本書には、実に様々なことが描かれている。ただ、そのすべてを取り上げることは出来ないので、ぎゅーっと絞って、ある一点だけに焦点を当てよう。それは、「善悪を決めるのは社会だ」という主張である。
【フランスの人権宣言では、自由は「消滅することのない自然な権利」(第二条)で、「他人を害しないすべてのことをなしうる」(第四条)と、きわめて広く定義されている。法的に禁止されているのは「社会に有害な行為のみ」(第五条)である。日本では、自由は自然な権利でも、絶対的な価値でもない。憲法では全体的な定義は何も示されていないのだ。定義としてもっとも適当と思われるのは「避けたほうがよい混乱を社会に引き起こさないことをする権利」だろうか。そのため、法律を破らない行為で、とくに誰かに有害ではなくても、通常の社会的規範から見た許容度によって、厳しく条件づけられる可能性が生じることになる】
この点における日本とフランスの違いには驚かされる。本書の中に、日本の週刊誌のスクープによって失墜した人たちの例が多数載っているページある。不倫した山尾志桜里議員や乙武洋匡、覚醒剤所持のASKA、暴言の豊田真由子議員などだ。これに続いて、こんな風に書かれている。
【これらの報道内容は何一つ、フランスなら罰せられないだろう。しかし日本では、「罪人」は一時的とはいえテレビから消え、議席を失っている。どんな些細な事件でも永遠に罪の烙印を押され、全員が涙を流す謝罪に追い込まれているのである。】
僕も、不倫はどうでもいいと思っている。また、覚醒剤も他人に迷惑を掛けない限りは別にほっといてもいいんじゃないかと思っているが、まあこれは法を犯しているから仕方ないだろう。しかし、暴言(暴力もだったっけ?)の豊田真由子でさえも、フランスでは罰せられないというのは凄い。まあでも、本書に載っている例を読めば、まあ納得ではある。
【未成年の買春でスキャンダルを起こしたフランス・テレビ界の大物司会者(ジャン=マルク・モランディーニ)は、不起訴になったのを幸い、テレビ局社長の後押しを受け、その後も堂々と自分の看板番組に出演している】
凄い。日本だったら、不起訴だろうがなんだろうが、疑惑が出た時点でアウトだろう。
【彼らが受けた制裁は不当に厳しいと見ることはできるが、これらの象徴的な処分は法はおろか、社会の些末な批判も乗り越えられないという気持ちをすべての日本人のあいだに高め、維持することに貢献している。彼らは、不品行は割に合わないことを(少なくとも、代償を払わずには済まないことを)、人目を引く形で示している。そうしながらも、週刊誌は彼らなりのやり方で、日本社会の団結に一役買っているのである。フランスでは、このようなことが社会の団結に貢献することはない。なぜなら政治家の感情的、性的な異常行為は、伝統的に職務につきものと見なされてきたからである】
日本も日本だけど、フランスもフランスだ。「性的な異常行為は職務につきもの」って、凄くないか?
とはいえ、当然だが、フランス人だって性的な異常行為を許容しているわけではない。というか、ジェンダー的な部分では、日本とはまったく違う方向を向いている。
【こうして電車内の痴漢問題は、法的、社会的罰則を越えた実用的な解決法が研究され、いまや敵なしになったと言える。ラッシュ時に女性専用車両を提供する路線が、どの後どんどん増えているのである。また、女性客のために女性が運転するタクシーや、一部のホテルでは女性専用の階を確保しているところもある】
女性専用車両だけではまだ痴漢問題は解決していないだろうが、確かに日本はこういう解決の方向性を取っている。著者は、【しかし、現に実行されているところを見ると、日本女性はこの措置を圧倒的に支持しているようなのである】と、疑問含みで書いている。どういうことか。
【フランス人の女性の友人にこのこと(※上述の、日本の解決法)を話すと、多くは反対の叫び声をあげる。いわく「解決法は、女性を男性の手の届かないところに閉じ込めることではなく、女性に敬意を払うように男性に教えることよ!」、「女性専用車両は形を変えた女性差別です!」。原則的な視点では、私もそれに賛成だ】
確かに原則的な視点では、僕もこれに賛成だ。賛成だが、しかし日本女性が、上述の解決法に不満を抱いていないとしたら、それにはそれで納得できる。これも、個人が優先されるか社会が優先されるかの違いなのだろう。そのことを著者は、日本の「世直し」という言葉を捉えてこんな風に書く。
【社会問題に対して、フランス人と日本人のアプローチは正反対である。フランス人は変えることを望むのに対し、日本人は治療を望む。私たちフランス人は、(中略)害悪は完全に排除するか、または再教育して、社会を開放しようと闘うのである。
いっぽうの日本人は、機械を直す、間違いを正す、病気を治療する、悪い習慣を取り除くのと同様の動詞を使う。「生活、社会、世界」を立て直すときは、それら全体を一言にして「世」を立て直すという言い方をする。悪というよりは、機能不全に陥った共同体全体を立て直すという意味で、壊すのではなく、再出発するために活力を取り戻すという意味だ】
なるほどなぁ、という感じだ。
宗教についても、同じ視点で捉えている。神道、儒教、仏教、七福神が柔軟に混じり合い、しかし国民の半分以上が「無信仰である」と答える日本における宗教の役割を、フランスと比較してこう書く。
【宗教の重要な役割の一つは、信者に善と悪の概念に基づいた行動の規律を示すことである。それが現在、フランスでは問題になっている。ところが日本ではそうではないのである。善と悪を合法的に決められるのは、唯一社会だけだからだ。その意味で、日本では、社会が神の役割を担っている】
フランスなどの欧米では、宗教が善と悪の基準だ。だから異なる宗教同士が、善と悪を間に挟んで対立してしまう。しかし日本では、宗教が欧米のような働きをしない。善と悪は社会が決める、という基本的な合意がなされているから、分断が発生しないのだ、と分析する。さらにこの文章の後にこう続く。
【それがよくわかるのが、社会にテロ戦争を挑んだオウム真理教の指導部が、無残にも皆殺しにされたことだ。2018年に執行された集団絞首刑は、世界では少なくとも法的行為としてよりは悪魔払いと見なされている】
なるほどなぁ。確かに、死刑が同時に行われたことに対して違和感はあったが、当時確か、「同一の事件における死刑判決に対しては、同時に執行しなければいけない」みたいな報道を見かけたことがあって、それで納得していた。「悪魔祓いと見なされている」という捉え方は、日本にいる限りまず不可能だろう。本書にはこんな風に、「世界の視点で日本がどう見られているのか」という描写もあるので非常に面白い。
宗教に関連して、政教分離の話が出てくる。日本でも、政教分離は原則とされているが、”周知の通り”、それは全然守られていない。一方フランスでは、
【ある市庁舎に設置されたキリスト生誕の情景や、公共広場の十字架を撤去させるため、市民は裁判や国家権力にまで働きかけている】
という。大変だ。著者はこう続ける。
【しかし日本はこの種の緊張からは免れている。新年には、地区の交番は何の問題もなく、習慣上欠かせないからと神道の飾りをつけている。仏陀の誕生日には、私が利用するスーパーマーケットは毎年、売り場の中央に供物台を設置するのだが、客は誰一人、不快には思っていないようだ。むしろ逆。お盆には、ほぼ全員が果物の入った供物用の籠を買っているのは、家の仏壇の前に置くのだろう。この光景を見て、意識の自由がないがしろにされ、さらには違いを認められる権利が踏みにじられていると、不満を述べる人はほとんどいないのである】
うん、確かに不満はない。例えば、神道の飾りや、供物台が強制されているのであれば不満を抱くだろう。でも、別に強制されているわけではない。しかしフランス人からすれば、それが強制であろうがなかろうが、「意識の自由がないがしろにされている」「違いを認められる権利が踏みにじられている」となるのだろう。どっちが正しいか、という問題ではないが、確かにそれは窮屈だろうなぁ、と思う。
しかし著者は、僕が今書いた「強制されているわけではない」という主張を否定する。日本には季節ごとのイベントがたくさんある。それこそ毎月ある。著者は、10/31までハロウィンだったのが、11/1になると”魔法のように”クリスマスに変わる、と驚いている。このような行事が、ある種の「圧力」を与えているというのだ。
【毎年毎年、祭りを連続させる小細工は、日本人が自分たちの時間の習慣や、感性までも先取りするよう仕向けている。社会的にも商業的にも連続する時間は、学校の時間と同じように詰め込み主義のようになっている。そうして、興味や行動の中心となるものに圧力を与え、フランスと比べて、個人が自由に使える暇な時間を取り上げている。この圧力は日本人に、全員が同じ時に同じことをしなければならないというイメージを押しつけている。その気のない者は隔離されたように感じ、さらには社会に不適合と見なされ、社会や仕事でもハンディになるのである】
僕自身はあまりこういう感覚を抱かないけど、でも、指摘していることは理解できるように思う。日本人が、自らの意識では「楽しんでやっている」と自覚している事柄も、フランス人からすれば「強制されている」ように見えるのだろうし、現にそうやって僕らは同じ方向を向くように調整されているのだろう。
他にも著者は、日本のメディアや歴史の語られ方、「謝罪」という文化、ヤクザとの関係、移民問題への対処など様々な観点から日本の在り方を捉える。それぞれの題材から、様々な結論を得るが、やはりそれらは究極的には、
【善と悪の問題は、日本では社会が状況に応じて決めるもので、それ自体、国家のアイデンティティの重要な要因の一つとなっているのである】
という部分に帰着する。
また、それとは別に、日本人にとっての「幸せ」についてもこんな文章がある。日本を含むアジアの国において、「あなたは幸せですか?」と聞かれて、幸せだと答えられない者が多いらしいのだけど、その理由を著者なりにこう分析している。
【一般的にいって、アジアの文化は、個人の幸せを安定した状態ととらえておらず、最終的な人生の目的にもしていない。日本語ではこの不確かで、変わりやすい状態をあらわすのに、状況に応じていくつもの言葉がある。10個以上はあるだろうか。もっともよく使われるのは「幸せ」で、意味はまず第一に「状況が…のとき」、「物事の流れ」、「運」で、結果が「幸福」なときだけだ。したがって状況に応じて突然あらわれる瞬間を指すことになる。結果、日本人は「あなたは幸せですか?」と聞かれても答えることができず、「あなたは幸せを感じる瞬間がありますか?」と聞くと答えられるというわけだ】
確かに、「あなたは幸せですか?」よりも、「あなたは幸せを感じる瞬間がありますか?」という質問の方がポジティブに答えられるなぁ、と思う。そう考えると、なるほど、日本人は「幸福」というものを「瞬間」で捉えていて、安定的に持続するものだと思っていないのかもしれない。なるほどなぁ。
とまあそんなわけで、記述のすべてに納得できるかどうかはともかく、普段とはまったく違う視点から「日本や「日本人」を捉えることが出来る一冊だ。非常に面白い。この感想に書ききれなかった面白い記述がたくさんあるから、是非読んでみてほしい。