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【本】旗手啓介「告白 あるPKO隊員の死・23年目の真実」感想・レビュー・解説

僕が生まれ育った町の名は、川の名前から取られている。その川は、今でこそ穏やかな流れだが、かつては毎年氾濫して、周辺に大打撃を与えるような、そんな荒々しい川だったという。


どうにかしようということで、その川に堤防を作ることになった。しかし、その工事は難航する。何度チャレンジしてみても、その川の勢いに押し流され、その度に作業に従事している多くの者の命が奪われたのだという。
そこで、人柱を立てる、という話になったという。


生きたまま地面に埋められ、節を取った竹筒だけを地面に伸ばして呼吸をする。確か志願したのは坊さんだったと思うのだが、その坊さんは穴のそこで木魚を叩く。木魚の音が聞こえなくなったら死んだという合図なのだ。
人柱のお陰なのかどうか、ようやくその難工事はやり遂げられ、川の氾濫が人々の生活を脅かすようなことはなくなった。

というようなことを、小学生の頃学校で習った記憶がある。一応ネットで調べてみると、概ね合っているのだけど、人柱に選ばれた人物とその経緯が違うようだ。

工事には50年の歳月が掛かったようで、それだけ時間を掛けて作った堤防は壊れてしまっては困る。そこで人柱に頼ることにしたようだ。さてその人柱はどのように選ばれたか。なんと、堤防を作った後でその堤防を通った1000人目の人間に頼んだ、という。
江戸時代の頃の話だそうだ。

まあ、いずれにしても、人柱が行われたという伝説は残されている。本当にそのようなことがあったのかどうかは分からない。とはいえ、このような伝説が生まれるのだから、当時としては「人柱」という発想はよく聞くようなものだったのだろう。

「人柱」というのは、要は「神頼み」みたいなものである。「神頼み」なんていう非科学的なやり方の是非はともかくとして、僕は考えてしまう。
個人の命を犠牲にしなければ成り立たない現実など、果たして価値があるのか、と。

話がめんどくさいので、先の堤防の話では、人柱のお陰で堤防が崩れずに済んだ、ということにしよう。つまり、人柱を立てなければ堤防が壊れていた、ということを受け入れるということだ。堤防が壊れれば、人命や作物や建物などに甚大な被害が出る。そういう意味で、「たった」一人の犠牲によって、その多大な被害を防ぐことが出来たのであれば、仕方ないと考えたくなる気持ちも、もちろんある。

しかし、でもなぁ、と思ってしまう自分もいる。

「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日」(門田隆将)を読んだ時にも、似たようなことを考えた。

吉田昌郎は、東日本大震災当時、福島第一原発の所長を務めていた人物だ。そして本書を読むと、彼が自らの命と引き換えるようにして、福島第一原発の暴発を防ぎ、日本を壊滅から救ったのだ、と感じることが出来る。本書を読めば分かるが、吉田氏は、死を覚悟する以外に福島第一原発を止める術を持たなかった。原発が暴発していれば、その被害は想像を絶するものとなっていただろう。そういう意味で、「たった」一人の犠牲によってその甚大な被害を回避することが出来たとも言える。

しかし、でもなぁ、と思ってしまうのだ。

「人柱」の場合は、所詮神頼みなので、してもしなくても結果は変わらなかったかもしれないが、吉田氏の場合は、吉田氏が決断し行動しなければ状況は収めることが出来なかった。そして、結果的にそれを吉田氏に強いたのは、安全対策を十分に行ってこなかった政治と組織だ。あらかじめ、もっと十分な準備と対策が出来ていれば、吉田氏は命を落とす必要はなかっただろう。

安全対策を十分に行ってこなかった政治と組織が個人を殺す―それは、本書で扱われている「カンボジアPKO」における文民警察官の死と同じ構造だ。

『文民警察に求められた役割は、現地警察の「指導」や「監視」だった。そして文民という名が示すように、「武器の非携行」が原則だった』

カンボジアPKOで初めて導入された「文民警察」という役割は、存在理由や定義が曖昧なまま見切り発車された。

『隊員たちのストレスの大きな要因のひとつは日本を発つ前からずっと曖昧なままだった「文民警察官とは何なのか」ということだった』

役割は曖昧だったが、確定していたことが一つだけある。それが「武器の非携行」だ。

カンボジアPKOは、1991年のパリ和平協定を受け、プノンペン政府・シアヌーク派、ソンサン派・ポルポト派の四派が停戦合意をした後に、国連が主権国家の行政を代行し、民主主義的選挙を導入することで民主国家の基礎を作るという壮大な実験だった。このカンボジアPKOに参加するために制定された「PKO協力法」には、「PKO参加五原則」が定められており、そこに「紛争当事者間の停戦合意の成立」という項目がある。

つまり、戦闘が行われていない地域に派遣するんだから、武器なんかいらないよね、という発想が根幹にあるのだ。

しかし、彼ら文民警察官が派遣された地域には、そんな建前を吹き飛ばすような現実が展開されているところもあった。


『アンピルは無法地帯というべき地域です。毎日のように殺人事件が起こっていますが、捜査はされておらず、訴追されることもなければ、罰を与えられてもいません。カンボジアの中で最も困難な地域のひとつです』

そんなところに身一つでいかなければならない―それが、文民警察官と呼ばれる人たちの役割だったのだ。

カンボジアPKOで、日本が国内だけでなく世界的に注目されたのは、やはり自衛隊だった。「PKO協力法」の国会論争でも、議論はほぼ自衛隊に関してばかりであり、その後のカンボジアPKOの報道も自衛隊に話題は集中する。

『同メモには山崎の感想が綴られている。
「政治家にとっては、実際に苦労している文民警察よりも、やはり憲法論議や次の法律改正を見据えた自衛隊施設大隊に関心が高いのかなという感想を持った」』

日本政府は、自衛隊の任地については早くから相当の根回しをし、比較的安全な地に決めることが出来た。しかし、文民警察については逆だった。様々な決定の遅れから、カンボジアPKO参加32カ国中、31番目の参加となったために、日本の文民警察に残されていた任地は、誰もが行きたくないような「ヤバイ」地域ばかりだった。隊長である山崎は、日本の自衛隊が根回しによって安全な場所を確保したことを各国が冷笑していることを知っており、それ故、どんなに危険な任地でも文句を言わず受け入れようと決めていたという。

しかし、結果として、そんな危険な任地の一つで、文民警察官の一人だった高田晴行氏が、銃撃に巻き込まれて死亡してしまった。現場にいた10名の内、1人死亡、7人重傷、という過酷な惨状だったが、しかし日本政府は「停戦合意は崩れていない」として、PKOからの引き揚げを決定しなかった。

何故か。

それは、湾岸戦争がトラウマになっていたからだ。

湾岸戦争において日本は、自衛隊の派遣を行うことが出来ず、その代わり総額130億ドル(1兆7000億円)の戦費負担をした。しかし、湾岸戦争におけるこの行動は、世界から一切評価されなかった。

日本は、世界第二位の経済大国として、きちんと世界から認められる国際貢献をしなければならない―外務省がそう考えているタイミングだったのだ。だからこそ政府としては、是が非でもカンボジアPKOで一定以上の成果を出さなければならなかった。

見方によれば、ある意味で日本の行動は、一定以上の成果と言えるものだったようだ。

『(当時、国際平和協力本部事務局長だった柳井俊二氏の話)カンボジアPKOの後、UNTACの関係者と話す機会がありました。オーストラリアの軍事部門の司令官のジョン・サンダーソンです。1993年5月4日の事件(※高田晴行氏が死亡した事件)のとき、「自分はものすごく心配した」と。「日本が遅ればせながらPKOに参加してくれるようになって、いろいろと貢献してもらっているけれども、これで撤退してしまうのではないかと思った」と言うのですね。そして彼はこういう表現をしました。「毛糸のセーターから毛糸がほつれてきて、それを引っ張るとセーター全体が崩れてしまう。もし日本があのときに撤退してしまったならば、ほかの国も撤退するところが出てくるかもしれなかった。つまりPKO全体が崩れたかもしれない。しかしよく踏みとどまってくれた」という話をされました』

カンボジアPKOについては、『UNTACによって有権者登録を行ったカンボジアの人びとの数は470万人以上。投票率は九割近くに上った。世界中のメディアが歴史的な成功だと報じた』と書かれている。そして、この大成功を結果的に導いたのは、隊員の死がありながらも日本がPKOから撤退しなかったからだ、という見方がある。

しかし、でもなぁ、と思ってしまうのだ。

高田氏の死は、カンボジアPKOを取り巻く様々な状況が生み出したものだ。国際貢献に焦っていた日本政府、PKO協力法を尊守しているという「建前」を守るために、ヘルメット一つ持って行かせないような雰囲気。政治的背景からカンボジアPKOにおける自衛隊の動向ばかりに注目していた政治家やマスコミ。それら一つ一つに、もっと冷静で真っ当な判断が出来ていれば、高田氏の死は避けられただろうと思う。しかし、文民警察官の安全を確保しようとすればするほど、「何かが失われる」と感じる人が国内外に多くいた。そのために、文民警察官の安全は考慮されず、そしてその結果として高田氏の命は奪われることとなった。

『そして隊員のひとりが村田(※国家公安委員長・大臣)に対し、こう言った。
「大臣。われわれがあと何人死んだら、日本政府は帰国させるのでしょうか」』

『「亡くなったのがひとりでよかった。複数だったら政府はもたなかった」
「亡くなったのが警察官でよかった。自衛官だったらもはや世論はもたない」
日本政府関係者の声だった』

政治や国際貢献の話は僕には分からないが、恐らく、カンボジアPKOに「きちんと」参加したことが、結果的に良い流れを生み出したのだろうとは思う。全体的に見れば「成功」だったのかもしれない。しかしそのために、「成功」を捨てさえすれば喪われずに済んだだろう命が奪われた。果たしてそれは、釣り合いが取れる論理なのだろうか、と僕は感じてしまう。

『私たちは、今回、高田晴行殺害事件に関係した人びとを取材するため各国を訪ねたが、「日本は検証を行わない国である」ということを改めて痛感することになった。
スウェーデンでもオランダでも、カンボジアPKOに関する一定の検証がなされ、そして報告書が当たり前のように公表されている事実に驚愕した』

本書はまさに、過去一度も行われたことがない「日本のカンボジアPKOの検証」と言える内容だ。カンボジアでPKOが行われたことも、自衛隊派遣が話題になったこともなんとなく覚えている。「文民警察官」という名称も、なんとなく漠然と記憶にはある気がする。しかし、「カンボジアPKOで文民警察官が殺された」というのは、明確な記憶としてはそんざいしなかった。当時僕は11歳、まあニュースをきちんと理解できなくても仕方ない年齢だと言えるかもしれないが、こういう出来事があったことを知らないでいる、ということは、やはり恥ずかしいことであるように感じられる。

『誰もが最初は「話していいのかどうか」逡巡していた。隊員のほとんどが、自身の経験を各都道府県県警の同僚はおろか、自身の家族にさえ話してこなかったからである』

23年ぶりに開かれる、その重い口から発せられる、あまりに生々しく、そして非現実的とも思えるエピソードの数々は、教科書やニュースでは決して知ることが出来ない「現実」の歪みと重みを伝えてくれる。


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長江貴士
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