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【本】松尾清貴「ちえもん」感想・レビュー・解説

内容に入ろうと思います。

1798年11月25日、オランダの交易船、エライザ・オブ・ニューヨーク号が、長崎湾で沈没した。船の重さだけで1500トン、さらに積荷もある。この沈没船をどうやって引き上げるか、大いなる難問だった。その引き上げを成し遂げたのが、本書の主人公である村井屋喜右衛門である。しかしそれは、本書のクライマックスである。本書は、喜右衛門の幼少期からの立身出世を描く物語だ。


廻船屋敷の二男として生を受けた喜右衛門は、腕っぷしではまったく頼りにならない子供だった。しかし幼い頃から頭の回転はずば抜けており、そのお陰で彼は若くして、生まれ故郷である櫛ヶ浜を豊かにすることになった。


そのきっかけが、近くの三田尻村の塩浜を買い戻したことにあった。生産過剰のせいで値崩れを起こし、しかしチキンレースのように生産を止められない現状にある中で、田中藤六という男は、塩浜で塩の生産を行わず放置していた。そして、塩浜を買い取るという申し出も断ったのだ。その背景には、藤六が推し進めようとしていた、三八替持法という生産協定である。3月から8月までしか塩の生産を行わないという取り決めを皆ですれば、過剰生産はなくなり、塩の価格は安定する。

しかし、誰か一人でも抜け駆けをすると成り立たない。藤六は、その信念を押し通すために、自ら所有する塩浜を手放さないまま塩の生産も行わないと決めていた。しかし、やせ我慢も限界だった。それを理解していた喜右衛門は、改めて藤六に塩浜の買い戻しを提案する。塩浜は潰し、漁場を作ると約束した。

こうして喜右衛門は、漁師でもない、長男でもないのに、自らの才覚で漁場を手に入れ、商売を進めることになる。櫛ヶ浜の二男三男坊、つまり跡継ぎではない厄介たちを集めて、中でも昔から仲良くしていた吉蔵を大いに頼りにしながら、新たな計画を次々に進めていく。二男三男に生まれたからには碌な生き方が出来ないと未来を儚んでいた吉蔵だったが、喜右衛門の逞しいまでの想像力と商魂に押し出されるようにして、目の前に広がる未来への道を歩んでいく。


その後大きな転機を迎えることになった喜右衛門は、色々な縁があって長崎に行き着くことになる。この世に存在するとは思えなかったあまりに条件が良すぎる漁場を前に、危険な橋を渡る決断をする喜右衛門だったが、長崎での彼の事業は軒並みうまく行っていた。しかし、何もかもうまく行くわけではない。喜右衛門は、仕方なしに続けざるを得なかったある行為の延長線上として、かなり危険な綱渡りをせざるを得なくなる。


そして、さらにその延長線上に、オランダ船の沈没が待ち構えていた。喜右衛門は、沈没船を引き上げたかったのではない。引き上げなければならなかったのだ…。


というような話です。

なかなか壮大な物語で、村井家喜右衛門という、己の才覚のみでぐんぐんとのし上がっていく男の姿は、爽快な感じがしました。

そもそも僕は、村井屋喜右衛門という人物や、オランダ船の沈没が史実として存在したのかどうか知りません。どこまで史実に基づいているのかよく分からないけど、ただこういう作品は、実在のモデルがいる場合が多いので、少なくとも村井屋喜右衛門という人物、あるいはそのモデルになった人物はいるんだろうな、と思います。

そもそも僕は、「長男がすべて持っていく」という仕組みがあまりに非情すぎて、よくもまあそんな社会通念が長いことまかり通っていたな、と思うのだけど、本書を読むと、とにかく長男に生まれなかった者は不遇な人生が”約束されている”のだなぁ、と改めて感じさせられた。

村という非常に狭い単位で生活が構成されているから、二男三男に生まれた者たちは、初めから何も得られない人生を覚悟して、受け入れている。自分の力でどうにか出来るレベルの事柄ではない、と思っているのだ。そこへきて喜右衛門は、そんなことまったく考えていない。ある場面で、櫛ヶ浜の厄介たちに声を掛けた際、喜右衛門は内心こんな風に思う。

【彼らには郷里に残って得るものなどなにもなかった。嫁も取れず、家ももてない。不自由で、肩身の狭い居候として生涯を終えるだけだ。彼らが人生を切り開く道は、彼らを認めないこの故郷を捨てる他にないではないか。どれほど肩身が狭くとも、最低限の衣食住を保障された厄介でいたいのか。真っ当に生きられるのは跡取りだけだと分かっているのに、どうして賛同しないのか】

そんな喜右衛門に対し、村の一人はこんな風に言う。

【「全員が強ければ、村げなもんは成り立つまい」甚平が悟ったような顔で言った。「和主のごと生きられる者は少ない。他と違うことを自覚せねばならんよ」】

まあ確かに、それもそうだよなぁ、とも思う。

喜右衛門は、確かに実家がやっている廻船業に携わり、船に乗って故郷を離れることが多かった。見聞を広める機会も、他の人よりは多かっただろう。しかしそれにしても、喜右衛門の見通す未来は、狭い環境で育った人間のものとは思えないほどだ。

冒頭の方のエピソードだが、喜右衛門は塩浜を手に入れるのと同時に、大網もゲットしていた。「網元」という言葉は、その名の通り、網を持ち管理している人間のことを指す。つまり、網を持っている人間が漁業権を主張出来るということだ。しかし喜右衛門は、せっかく手に入れた大網、つまり漁業権を、あっさり手放してしまう。吉蔵はその事実を知って激怒する。普通に考えて、手に入れた網を手放すバカはいないのだ。

しかしそれは、櫛ヶ浜という実に狭い範囲内での思考だ。喜右衛門は、もっともっと広い世界を見ていた。彼は、櫛ヶ浜の漁業権などさっさとくれてやる、ぐらいにしか思っていなかったのだ。漁業権を手放す代わりに、喜右衛門はもっとデカイものを手に入れるつもりだった。その壮大さに、吉蔵は驚かされるが、そうやって大言壮語とも思える野望を口にし、それらをすべて成功に導くことで、喜右衛門は信頼を勝ち得ていく。

しかし、喜右衛門の物語は、ただの金儲けではない。そこが、この物語を決定的に面白くする点だ。喜右衛門は、確かに金儲けに邁進するが、常にその背後には明確な目的がある。最初は、自身の生まれ故郷である櫛ヶ浜を豊かにすることだ。それ以降も彼は、明確な目標を胸に、商売をし続ける。稼いだ金を、実に適切に的確に使っている。そしてそれがまた、別の商売を引き寄せることになる。出来る限り商売の正道を走り抜けようとする誠実さがとても良い。

かなり後半の話なので具体的には書かないが、喜右衛門は、うまく立ち回れば莫大なお金が手に入ることに片足を突っ込むことになる。しかし彼は、より簡単であるそちらの道ではなく、針の穴を通すほど困難な正道を通り抜けようとする。ある人物が喜右衛門に対し、世人に知られることのないその偉業を絶賛するが、まさにその通りで、喜右衛門はその才覚で徹底的に金を稼ぎながら、その行為が誰かのためになることを常に願っているのだ。

反面、もちろん本書には、ろくでもない輩もたくさん登場する。考えが足りないばかりに思いがけず他人に迷惑を掛ける者もいるが、悪意を持ってみずからの利のためだけに動くものもいる。泰平だった江戸時代といえども、様々な利権をめぐる争いはそこかしこであり、特に長崎では、外国との貿易を行っている関係上様々な軋轢が生まれる。そういうきな臭さ漂う環境で、可能な限り真っ当さを貫こうとした喜右衛門のあり様は見事だと思う。

残念だったのは、これは僕が悪いのだけど、沈没船の引き上げに仔細が全然分からなかったということだ。沈没船だけではなく、初めの方で喜右衛門が行っていた船曳き漁も、何をやってるんだか全然分からなかった。僕は、文章の記述から頭の中で映像化するのが極端に苦手なのが分かっているから、どうせ理解できないだろうと思って流し読みにしてるせいもあるのだけど、こういう描写に、簡単でいいから絵や図がちょっとでもあると、もうちょっとイメージしやすいんだけどなぁ、と思う。文章で説明されても、誰がどういう風に動いて、何がどうなってるんだか、まったく分からないから、喜右衛門のアイデアの凄さも理解できない、というのがちょっと残念だった。

400ページを超える長い物語で、しかも時代モノはあんまり得意じゃないのだけど、するすると面白く読める作品でした。


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長江貴士
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