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【本】巡査長 真行寺弘道(榎本憲男)感想・レビュー・解説

脳科学的に言うと、人間には「自由意志」というものはないらしい。

有名な実験に、こんなものがある。細部を省略してざっくり書くとこうなる。人間は、「何かをしようと思う」よりも前に「それをしている」のだ、と。

例えば、目の前にあるボールを掴むことを考える。普通に考えれば、「目の前のボールを掴もうと思う」という脳の判断が先にきて、それから「腕を動かす」という実際に動作に映る、となるはずだ。しかし何度実験してもそうはならない。実際には、「腕を動かす」という動作が先に起こり、その後で「目の前のボールを掴もうと思う」のだ。

そんな馬鹿な、と思うかもしれないが、現時点ではそんな風に考えられている。人間の脳というのは、「無意識」の領域が非常に広く、そして「意識」は「無意識」にアクセス出来ない。人間の行動のほとんどは「無意識」によって決定され、「意識」はただそれを追認しているだけなのだ、という。確かに僕らは、自分の脳で物事を考え判断しているのだが、判断のほとんどを「無意識」が担っており、さらにその「無意識」に「意識」はアクセス出来ないというのだから、自分の意思で何かを判断している、などと言えないという感覚になるだろう。

意思より行動が先にある、と書くとなかなか受け入れがたいかもしれないが、こんな状況を考えてみれば受け入れやすいかもしれない。例えば車を運転していて、事故を起こしそうになったとする。その時、「意識」で「あれをしよう」「こうしよう」と判断してから行動していたらとても間に合わないだろう。そういう状況になれば僕らは、何かを判断したという意識もないままで、ハンドルを切るとかブレーキを踏むと言った行動を取る。これはまさに、意思より行動が先にある実例と言えるだろう。それが、僕らのありとあらゆる行動に適応される、というだけの話だ。

『でもね、真行寺さん、自由なんてものはもうないと僕は思ってるんですよ。自由を守るって言うけれど、自由はどこかに行って消えちゃったんです。GoogleやFacebookやTwitterやクレジットカードやメールやカーナビでネットにつながれ、科学のメスで切り刻まれ、僕らはもう情報のレベルにまで解体されちゃってる』

脳科学の世界から離れて、僕らが生きているこの社会全体を考えてみても、確かに「自由意志」というものが個人の領域に留まりにくくなっている、と感じる。ネットの検索窓に打ち込んだ検索キーワードが収集され、それぞれの個人に合った検索結果や広告が表示される。SNSが発達し、インターネットによって世界が繋がったことで、「世界に対して自分をどう見せるか」という発想が行動原理の根幹になり得る。人間がそんな風に行動することは、もはや「自由意志」を自ら手放していることと同じなのではないかと思う。


『ジャンクフードを食って、満員電車で通勤し、広告に踊らされ、予算と売上を気に病み、テレビのバラエティ番組が語る薄っぺらい道徳になんの考えもなしに怒ったりうなずいたりしながら、次の休暇の旅行を楽しみに生きている会社員って、家畜じゃないんですか』

そうなのだ。そういう人生は、僕は家畜だと思うのだ。「自由意志」を自ら手放し、手放したことにさえ気づかないまま、インターネットという広い遊び場を手に入れたことで、自分が広い世界に住んでいるような気になって、本当は牢獄のような狭小な空間に閉じ込められているんだってことに気づかないままで生きていくのはゴメンだ、と僕は思っているのだ。

ただ、「自由意志」を手放すことは本当に不幸せなのか、という問いは慎重に考えなければならない。

『やさしく管理された畜舎で餌を与えられ、惰眠を貪りながら家畜として生きることが、過酷な自然環境の中で餌を求めてさすらいながら生きる人より不幸だってどうして言えるんです』

確かに、こう問われたら反論は難しい。私はそれで満足しているんだ、という理屈ほど堅牢なものはない。まだ知らない幸せがあるんだとか、もっと広い世界があるんだ、などとどれだけ説得しようとしたところで、そんなものを求めておらず、今の自分の立ち位置に満足しているとすれば、それを非難することはほぼ不可能だ。

『もう自由なんてものはない。それでも自由って言葉だけは残っていて、真行寺さんみたいな人がそこにロマンを感じて、自由を守るんだって言う。言うとなんだか自由になった気持ちがするだけなんです』

自由か自由でないかは、本人の感覚次第で、それが家畜のような人生でも、本人が自由だと思っているのであればそれは自由なのだ。中島らもの奥さんが、中島らもを評して言った言葉を思い出す。正確な引用ではないが、「あの人は、頭の中が自由でありさえすれば何でも良かった」というようなことを言っている。どれだけ肉体的に不自由な環境にあろうとも、頭の中さえ自由ならそれでいい。確かに、そういう自由もあるし、自由であるかどうかは個人の感覚一つだ。

それでも僕は、この言葉を支持したい。

『不幸になる自由を手放すなって』

「科学とは何か?」という問いは、昔から発せられてきた。かつて科学は宗教と区別がなかったし、錬金術が科学として扱われていた時代もあった。今では、宗教も錬金術も科学ではないとされているが、じゃあ科学と科学でないものとの差は一体どこにあるのか。

科学を定義することは非常に難しかったが、ポパーという人が「反証主義」という主張をした。現在、科学を定義する二つの柱の内の一つが、「反証可能性」というものだ(もう一つは「再現性」、つまり、いつ誰がやっても同じ結果が得られる、というもの)。

「反証可能性」とは何か。それは、「これこれこうだったら、その理論は間違いだと判明する」という要素を持っているかどうか、ということだ。たぶんこの説明だと意味が分からないだろう。


例えば、あの有名な相対性理論は、天体現象の観測によってその正しさが証明された。正確には忘れたが、アインシュタインが相対性理論を元に、日食(だったかな?)の日に、太陽の周囲でこういう現象が観測されるはずだ、という予測をした。そして観測隊が実際に、その予想にぴったりと合う天体現象を観測した。それで、相対性理論の正しさが証明されたのだ。

この場合、もしアインシュタインが予想した通りの天体現象が起こらなければ、相対性理論は間違っていたと判定されることになる。これが、「これこれこうだったら、その理論は間違いだと判明する可能性」ということになる。

じゃあ、反証可能性を持たないものにはどんなものがあるだろうか。

例えば透視能力の実験をするとしよう。実験者と、透視能力を持つとされる被験者、そして観客がいるとする。さて実験者は実験を行う前に、観客に向かってこう宣言する。「この被験者の透視能力は、観客の中にその能力を疑っている者がいる場合発揮されない」

さて、この実験によって、被験者が透視能力を持たない、と判断される可能性はあるだろうか?透視が成功すれば、もちろん透視能力を持つという結論になる。一方、透視が失敗しても、実験者は「観客の中に被験者の能力を疑っている者がいたから能力を発揮できなかったのだ」と主張できる。

つまりこの実験の場合、どんな結果が出ようとも、被験者が透視能力を持たない、という結論が導き出される可能性はない。それはつまり、反証可能性がない、ということであり、つまりこれは科学ではない、と判定出来るのだ。

さて、話を戻そう。何故この反証可能性の話をしたのかと言えば、「不幸になる自由を手放すな」という言葉がきっかけだ。僕はこの、「不幸になる自由」と「反証可能性」を重ねて捉えている。自分の人生が絶対に不幸にならない、と知ることは、反証可能性がないことと近い。そして、科学が好きな僕としては、そういう状況はやはりちょっと気持ち悪く感じられる。それよりも科学のように、もしかしたらいつか間違っていると指摘されてしまう(いつか不幸になってしまう)という可能性がある人生の方が豊かなのではないか、と感じる。

もちろん、本書でも指摘されているように、現時点で莫大な不幸の中を生きている人もいるわけで、そういう人に「不幸になる自由」の話が出来るのか、と言われれば出来ないだろう。そういうことを考える余裕があるのは、今さほど不幸ではない人だけだ。今絶望的な不幸に閉じ込められている人には、恒久的な幸福を求めるだろうし、そのためになら多少のものは差し出してもいい、と考えるかもしれない。

そういうことも、一応頭の片隅で理解したつもりでいるという前提の上で、やはり僕は思う。「不幸になる自由」を手放すような人生はゴメンだな、と。

内容に入ろうと思います。
警視庁の捜査一課、いわゆる殺人などを扱う花形の部署にいる真行寺弘道は、53歳にして巡査長という異色の経歴を持っている。普通この年齢であればもう少し出世しているはずなのだが、真行寺は末端の末端だ。とはいえ、捜査一課に在籍し続けているのだから、決して能力が低いというわけでもない。実際真行寺は、信念を持って巡査長という立場に居続けているのだ。
日々様々な事件が起こるが、先日発生したのはいささか奇妙な事件だった。老人ホームで導入した介護ロボット<お孫さん>が、突然老人たちを罵倒するようなセリフを言うようになったのだ、という。それだけなら事件でもなんでもないが、その暴言に驚いてショック死してしまった高齢女性が現れ、もしかしたら殺人の可能性も捨てきれないと捜査することになった。しかし、コンピュータ方面の知識がかなり必要とされる事件で、捜査はなかなか進まない。
オーディオを趣味にしている真行寺は、休日に秋葉原のショップで真空管を買おうと思ったのだが、その店頭でちょっと気になる若者と遭遇した。アンプだけ自作してデジタルの音楽を聞くというのだが、それで良い音が出るという。じゃあ聞かせてくと、黒木と名乗った男の自宅まで一緒に行くことになった。黒木はハッカーだと名乗ったので、直近で発生した老人ホームでの事件について、推理小説を書いている、という体で相談に乗ってもらうことにした。
老人ホームでの事件が一段落ついた頃に、新たな事件が起こった。尾関という議員がホテルで変死していたのだ。デリヘルの女が部屋に出入りしているのを確認し、毒物も発見されたことから殺人に切り替えて捜査が始まるが、しかし真行寺は、この事件の背後に、壮大な構図を感じるようになり…。
というような話です。

物語の序盤こそ、よくある警察小説かなと思っていたんですけど、読み進める内に、これは斬新な警察小説だなと感じるようになりました。その斬新さは、いくつかの要素から生み出されているのだけど、まずは本書が、既存の警察小説のある種アンチテーゼとして描かれている、という点に触れてみましょう。

一般的な警察小説を乱暴に描写してみるとこんな感じになります。警察という組織の中で、出世争いや足の引っ張り合いなんかは色々ありつつも、組織の駒として足を棒にしながら歩き回り、その一方で多少の逸脱をしながら独自の路線を突き進む。聞き込み、現場百遍など、とにかく人に会ったり現場を見たりと動き回りながら、事件の概要を掴み、犯人を追い詰めていく…。
まあ、色々ありますが、大体こんな感じでしょう。

一方で本書は、それとはまったく違います。警察という組織の中で、駒としての立ち位置を完全に捨て去って好き勝手に動き回り、足を棒にするのではなく、凄腕のハッカーと組んで、バリバリの違法捜査を繰り返しながら、時には相手を罠に嵌めたりしながら犯人を追い詰めていく…。

もちろん、そういう要素を持つ警察小説もあるでしょう。組織に馴染まず一匹狼を貫いて、というような。しかしそういう警察小説は、方向性としてはハードボイルド的なベクトルを持ちがちですが、本書の主人公である真行寺は全然そんなタイプではありません。真行寺は元々一匹狼的ではあるんですが、今回の一連の事件ではそもそも違法捜査をしまくってるので、一匹狼にならざるを得ない、という側面があるのです。


また、バリバリ違法捜査を繰り返しているという要素からは、ノワール的な作品が連想されますが、本書はそんなこともありません。真行寺は、確かにルールは破っているし、正しくないことはしているんだけど、とはいえ真行寺にも彼なりのモラルがあり、そのモラルには沿っている、という感じがするんです。そういう意味で、本書はノワール的でもない。

真行寺という刑事は、一般的な警察小説ならむしろ脇役なんじゃないかというほど、彼自身の存在感は薄いのだけど、そんな男がひょいっと軽やかに違法捜査に手を染めている、というのが非常に違和感があって斬新なのだ。

また本書が普通の警察小説と異なるのは、そのスケールの大きさにある。もちろん、事件の背景にとんでもない事態が隠されていた、というような物語はよくある。しかしそういう物語の場合、物語の根幹は、そういう巨大な背景といかに闘っていくのか、という部分に移っていくことになる。

しかし本書はそうではない。巨大な背景といかに闘うかという一歩手前、つまり、その背景と闘うべきなのかどうか、という部分に焦点が当てられるのだ。これは非常に面白いと感じた。

確かに、本書の中盤以降で明らかになる、事件を貫く大きな背景は、非常に難しい問題を孕んでいる。僕自身は、直感的には大反対だが、しかしならば対案があるのかと言われれば返答に窮してしまう。この解決法は決して良くはないが、しかし他に選択肢はないのだ、と言われてしまえば、納得したくはないが納得せざるを得ないかもしれない、という感覚は持っている。いやだな、とは思うが、例えば、あることを受け入れるか、受け入れないならば死ぬか、という二択しかないとしたら、仕方なく受け入れる、というような感じで、この未来を受け入れざるを得なくなるのではないか、という予感がある。

巨大な背景が登場する場合、普通の警察小説であれば、それと如何に対峙するかが描かれる。そういう意味で本書は、警察小説の格好をしてはいるのだが、実際には警察小説ではないと言えるだろう。その背景は、あまりに巨大過ぎて、闘うことすら不可能に思えるものなのだ。それでも闘うべきか否かを、様々な段階で議論する本書は、警察小説の形を借りた思想小説(と言うと堅苦しいイメージになっちゃうかもだけど、そんなことは全然ない)とでも言うべきかもしれないと思う。

それは、こんな文章からも感じとることが出来るだろう。

『でも、なぜ僕らは音楽を聴くのかってことを考えてみましょうよ。キング・クリムゾンにせよ、バッハにせよ、ソニー・ロリンズにせよ、バリ島のガムランにせよ、僕らが音楽を求めるのは、それは言葉以外の方法で世界に触れ合おうとしているからです。つまり、意味の外、情報の外へと旅立って、世界と魂を共振させようとしているんですよ。
世界が奏でる調べに、魂が震えなくなった時、それは感情をなくした時です。感情がなくなれば、音楽は消え、なっているのは音の情報にすぎなくなり、記号とノイズだけが残る。
ある音の列なりを聴いて、これは音楽だと思い、そして、音楽を聴きたいと思い続ける限り、感情を持った存在として、僕らは嫌なものは嫌だと踏みとどまろうとしてもいいんです。踏みとどまれるかどうかはわからないし、それが正しいかどうかもわからないけれど』

こんな文章は、まず一般的な警察小説では見かけないでしょう。

僕らが今当たり前に存在していると思っていること(物質だけではなく、概念も含む)のほとんどは、先人たちの膨大な努力や闘争の堆積物だったりする。そして、その努力や闘争を止めてしまえば、すぐにではないにせよ、いずれどこかのタイミングで過去の遺物を使い切り、当たり前に存在するはずのものが当たり前ではなくなる日が来るだろう。

「自由」というのもその一つであって、過去様々な人間が「自由」のために言葉を尽くし、血を流し、剣で斬りあった、その果てに今がある。ただのその上に安寧としているだけでは、僕らは「自由」を守りきることは出来ないだろう。しかし、様々な環境の変化によって、人類は恐らく史上初めて、「自由であるべきなのか?」という、今まで追い求めることが当たり前だった「自由」という概念への疑問を抱くようになった。その時代の揺らぎみたいなものを、警察小説という仮面を被った物語が描き出そうとしている。その挑戦的な冒険心が、非常に斬新だと感じられる物語だった。


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