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【本】村上春樹「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」感想・レビュー・解説

僕が見ている世界が、他の人に同じように見えている、かどうかは正確にはわからない。というか、確かめようがない。


色一つとってもそうだ。僕たちは、誰もが同じ色彩の世界に住んでいる、と多くの人は思っていることだろう。しかし、それは「言葉」というものを介して同じだと認識しているわけで、もしかしたら、違う色を同じ言葉で認識しているかもしれない。僕には赤色に見えている色は、別の人には青色に見えていて、しかし二人ともその色を「黄色」という言葉で認識している。そんなことだって、全然普通にありえる。


僕は、こんな風に思うことがある。誰もが、誰かの物語の世界で生きているのではないか、と。


世の中にこれだけ物語があって、僕らはそれを読む。その中には、その中なりの生活やら世界があって、それは、僕らが本を読み始める瞬間から始まり、読み終えた瞬間に完結している、と思っているけど、実は違うのかもしれない。作家が物語を思い浮かべた時点で、その物語の舞台となる世界がどこかにぽっと現れ、世界が運行していく。作家は、自分の頭の中で世界の細部を規定しながら、その世界の一部と、その時間の一部だけを切り取って物語にしているだけで、物語の数だけ世界があってもおかしくはないと思う。
だから、僕らが生きているこの世界だって、僕らとは別次元の作家が作り出した物語の世界で、物語として発表された部分はとうに過ぎ、作家からも読者からもその存在を忘れ去られた世界なのかもしれない。覚えてくれる人が減れば減るほど、世界は崩壊する、というわけだ。


こんなことも考える。ABCという三人に、それぞれ別に実験をする。


実験には、ボールと、そのボールが入るくらいの箱が使われる。


Aには、まずボールと箱を見せ、そして箱の中にボールを入れるまでの過程を見てもらう。当然Aは、箱の中にボールが入っていると認識するし、事実もその通りだ。


Bには、まずボールと箱を見せ、そしてその段階で目隠しをする。しばらくして目隠しをとった段階で、Bの目の前には箱だけしかない。この場合、Bは高い確率で、きっと箱の中にボールが入ったのだろう、と思うだろう。ボールだけどこかに持って行ってしまったとか、始めにみたボールが幻覚だったとか、可能性はいろいろあるけれども。


さてCだが、Cには、箱しか見せない。この場合、Cはどう思うだろうか?
Cには、箱の中にボールが入っているかもしれない、と思う余地はどこにもない。実際に箱の中にボールが入っていても、Cはそのことを認識することは絶対にできない。


ここまでで一体僕が何を言いたかったのか。それは、「事実」と「真実」は違う、ということだ。これは僕がいつも思っていることでもある。


「事実」を「認識」する過程で「真実」が生まれる。「認識」できる範囲に限界があるからこそ、「事実」と「真実」は必ずしも一致はしない。


僕らは、主に視覚に頼りながら、あらゆる器官をを使って世界を「認識」している。しかし、「認識」できたものが世界の全てなわけでは決してない。誰にも、自分の外側を、もちろん自分の内側だって完全に理解し「認識」することはできないし、自分の「認識」を誰かと共有することすらできない。
だから、世界は、自分の外側は、一体どんな形をしているのか。僕は、時々それが気になる。自分に「認識」できることを全て捨て去って、世界の核のようなものを探りあてて、それを「認識」することなく自分の内側に取り込むこと。それができれば素敵だけれども、きっと哲学だって科学だって宗教だって、同じことを別なアプローチでやろうとして、まだそこに行き着いていないはずだ。


村上春樹は、世界の形を、自分の外側の輪郭をつかもうとして小説を書いているのではないか、と感じる。


村上春樹自身だって、現実の世界の形を知ることができているわけではないと思う。しかし、小説という媒体を借りることでそれをやろうとしている。
三次元に住む僕たちは、四次元の世界を理解することができない。その世界をイメージで理解するためにどうするかと言えば、二次元に住む生物が三次元の世界に触れたらどうなるか、という発想をするのだ。


村上春樹も、同じ手法でアプローチをしているように思う。現実の世界の形、というのは認識できない。しかし、自分でその形を設定し、その上で世界のあり方を定めた、村上春樹なりの「世界」を小説の中で作り出す。その「世界」の中に人を住まわせ、その人物にその「世界」の形を探らせ読み取らせようとする。あくまでも村上春樹が作り出した「世界」だけれども、そこから現実世界との繋がりを感じられるように、物語が描かれているような気がする。


もしかしたら、全然的外れかもしれないけれども。


本作は、とても面白い構造になっている。「世界の終わり」と「ハードボイルド・ワンダーランド」という二つの話が交互に織りあがっている。それぞれの世界は、話の進行とともに繋がっていく。


「世界の終わり」は、「僕」の物語である。周りを高い壁に囲まれ、一度入ったら二度と出ることのできない、そんな「世界の終わり」に何故か行くことになった僕。その事情は全然思い出せない。それまでの記憶が思い出せないのだ。彼は門で影を切り取られ、図書館で夢読みの仕事をするようになる。悪意や憎しみのない、穏やかでゆったりとした生活。行動に意味を付与されず、目的のないままに行動のできる純粋で完結した世界での生活。一角獣の頭骨から古い夢を読み、図書館の女性と親しくなり、チェスをする大佐に出会い、地図を作り、影に会う。そんな、「世界の終わり」での、僕の生活を描く物語。


「ハードボイルド・ワンダーランド」は、「私」の物語。彼は計算士であり、クライアントの依頼により、大事な情報をその自身の脳で乱数化し、情報を守る、という仕事をしている。彼は「組織」というところに属しており、そこは、情報を解読して奪おうとする「工場」というところと対立している。


彼はある依頼人に呼ばれ、エレベータ・長い廊下・暗闇と川・滝なんてものを乗り越えながら、ある研究所へ向かう。そこは、ダヴィンチのように一つの分野に留まらず様々な研究をしている博士がいて、そこで彼は計算士としての仕事をし、家でする分の仕事を残して部屋に戻る。プレゼントとしてもらった箱の中には、どうやら一角獣らしい頭骨が入っていて、それを調べるために寄った図書館のリファレンスの女性と仲良くなる。


彼はそのまま、まるで鵜飼の鵜のように、主体性をまったく失ったまま、よくわからない世界に、よくわからない事情で放り込まれていく。意識の核に思考回路を組み込まれた「私」と、それを仕組んだ老博士、そしてその周囲を巻き込んだ物語。


まず感想は、よくこんな話を思いつくものだ、ということです。一見、論理的でない、無秩序な世界の物語のように思うのだけれども、見事に整合性が取れているように見えました。無駄はあるかもしれないけど、矛盾も無理もない、と思いました。どんなにありえなさそうなことでも、村上春樹の文章で読むと、あるかもしれないと思わされてしまうのです。


もちろん、一回読んで何もかもわかった、なんてことは言いません。正直わからない部分は多いです。特に「世界の終わり」の方で出てくる様々な物事や現象は、一体何を象徴しているのか、うまくわかったと言える自信はありません。


それでも僕は、読んでよかったな、と思っているし、いつかまた読み直そうか、とも思っています。結構好きな話でした。描写が緻密すぎてうんざりしてしまうような部分も結構あるのだけれども、それは村上春樹の特徴として踏まえておけばいいだけの話です。


本作を読んで、普遍性、ということを考えました。村上春樹の作品には、普遍性、というものが備わっているような気がします。それは、昔の文豪達が残した作品にもきっとあるはずのもので、間違いなく村上春樹は、後世まで名を残す作家になるでしょう。


本作では特に、登場人物に名前がありませんでした。それだけが全てではないけれども、きっとそれも、普遍性を備えるための一つの条件なのだろうと思いました。


僕は、登場人物の中では、図書館のリファレンスの女性がいいなと思いました。村上春樹の作品にはこういう、状況の変化に特に驚くことなくついていくことができ、頭がよくて知識があって発想の面白い女性がよくでてきて、結構そういう人は好きだったりします。


「世界の終わり」のような世界は、たとえ僕らに「認識」できなくても、きっとあるのだろうと思います。永久機関のように、完全だけれども間違っている世界。そんな場所に逃げてしまえるなら、それでもいいかもしれない、と正直思いました。なんだか、現実よりもよく映るのは、やっぱ僕自身が疲れているからでしょうかね…


きっと、一読しただけでは掴みきれない大きな作品です。もちろん一読でも、ぼんやりと何かを掴むことはできるだろうと思います。うまく説明できないけど、いい作品だと思います。読んで欲しいと思います。


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