【映画】「淵に立つ」感想・レビュー・解説
一度何かが始まれば、それが終わる可能性をゼロには出来ないように、一度人を信じれば、裏切られる可能性をゼロにすることは出来ない。
他者と関わる時、僕はいつもそんなことを考えている。
人を裏切るような人間が元々いるのではない、と僕は思う。もちろん、そういうタイプの人間もいないわけではない。しかし基本的には、どんな人間だって人を裏切る可能性があるのだと僕は思う。
裏切りは、いつやってくるか分からない。どれほど信じた相手だろうと、どれほどの思いを持って信じようとも、裏切りというのは一瞬でやってくる。僕は、そういう事実を常に意識して生きている。僕の周りにいる誰が僕を裏切っても、まあ仕方ないだろうと考えている。それは、人を信じていないだけだ、と言われるかもしれないけど、僕の中では逆だ。「この人になら裏切られてもいいか」と思える人しか、信じることが出来ないというだけの話だ。
信じたい気持ちは、人を弱くする。裏切られたくない、という恐怖が、あなたを支配するからだ。裏切られた時の絶望を回避したいという思いが、あなたの行動を制約するからだ。
それでも、人は人を信じる。信じることでしか、他者との関係性を築くことが出来ないからだ。そんな風に、信じたいからだ。
時に、人を信じたことによる代償は大きい。
人を信じたい気持ちが、破滅を呼び込むのだ。
父親から受け継いだ金属加工工場で働く鈴岡利雄とその妻・章江。利雄は無口で、仕事や生活に関することを章江にほとんど言うことはない。娘の蛍は、オルガンのコンクールを間近に控えていて、日々練習に励んでいる。章江はプロテスタントであり、蛍と共に食事の前はお祈りを捧げている。
ある日工場に、章江の知らない男がいた。利雄の古い友人だという。利雄は章江に何も言わないまま、八坂章太郎というその男を工場で雇い、家に住まわせた。三週間だけだ、と利雄は言うが、章江にしてみればなんだか分からない男が同じ家にいるのは不快だった。
八坂は礼儀正しい男だった。蛍も八坂に懐き、オルガンを昔やっていたという八坂が蛍にある曲を教えることになった。章江も、真面目な八坂の姿を日々見る内に、当初抱いていた不快感を徐々に薄めていった。
教会への礼拝の帰り、喫茶店で八坂は章江に対し、かつて人を殺し、つい最近まで刑務所にいたことを話した…。
というような話です。
見ていてザワザワさせられる作品だった。好き嫌いは大きく分かれそうな気もするが、僕は凄く好きな映画だ。
映画の全編で、「どうしようもない気持ち」が描かれる作品だと感じた。登場人物たちの感情は、様々な理由によって覆い隠されているが、抑えきれずに溢れ出してしまう感情が時々間欠泉のようにして吹き出す。利雄・章江・蛍・八坂。誰もが、どこにもぶつけようのないやりきれない感情を内側に秘めながら、仕方なく続いていく日常を過ごしている。そういう雰囲気が絶妙に切り取られた作品だと思う。
蛍はともかくとして、僕は利雄にも章江にも八坂にも、共感できる部分があると感じた。
章江が抱えるやりきれなさは、誰しもが同じ状況に立たされたら感じるものだろう。章江に非がないとは言わないが、全体的に章江は被害者だ。章江の落ち度によって、この現実が引き寄せられたわけではない。章江はただ巻き込まれ、途轍もない現実が重くのしかかりながらも、なんとか懸命に前に進もうとする。
八坂に共感できる、とはちょっと言いにくいが、しかし分からないでもない。八坂の、このセリフは非常に印象的だ。
『なんでこの生活が俺じゃなくてお前なんだ』
八坂の衝動がなんであったのか、それは映画の中でははっきりとは描かれないが、その衝動が湧き上がるに至る手前までであれば、想像できるし理解できる。自分が置かれている状況を受け入れようとする自分と、理不尽だと感じる自分とが共存し、少しずつ積もるようにして、その衝動に至る何かが溜まっていったのだろう。八坂と同じ境遇に置かれた時、八坂と同じ感情を抱く可能性は、誰にでもあるのではないか。
利雄の気持ちも、分からないではない。彼には、そうせざるを得ない理由があった。ある意味で、すべての元凶は利雄にあると言っていいのかもしれないし、その事実をすんなりと許容していいとは思わないが、ただ、利雄の前に八坂が現れた時の衝撃に、動揺することなく対峙出来る人間はそう多くはないだろう。
この三人に、共感は出来るが、しかし許容したくない、という気持ちもある。彼らに起こった現実は、誰かが何かを諦めれば排除出来たかもしれない。三人がそれぞれ、自分自身の弱さみたいなものを隠し、否定すべきものを見ないフリをしたからこそ起こった出来事なのではないか、とも思う。
自分が同じ立場に立たされた時、彼らと同じことをしてしまうだろう、という予感もある。だからこそ、彼らのやったことを許容したくないと思うのだろう。自分がそうしたくないけどそうしてしまうかもしれない。彼らを見ていてザワザワさせられるのは、観る者が誰しも、そういう感覚に囚われるからではないかと思う。
後半は、それぞれがそれぞれのやり方で「贖罪」について考えることになる。起こってしまった出来事を、無くすことは出来ない。時間は、どんどん前に進んでいく。ただ立ち止まっているわけには行かない。進んでいく時に合わせて、どうにか自分たち自身も前に進ませなければならない。そういう中で、8年前のあの出来事が、彼らの前進を阻む重しとなっていく。8年前の出来事とゴムで繋がっているかのように、時を経れば減るほど、前進する際の抵抗は増して行く。それでも、騙し騙し前に進んでいく彼らに、予想だにしなかった出来事が起こるのだ。
「家族とは何かを考えさせられる」などというありきたりなことを書きたくはないのだが、やはりそういう映画でもある。家族である、ということは、喜びだけではなく苦しみも分かち合うものなのだろう。しかし、相手の得体の知れない様を実感してしまうが故に、相手と特に苦しみを共有することが出来なくなってしまう。
結局、どんなに家族であっても、他人のまま。家族というのは、「家族でありたいという共同幻想」につけることが許された呼称なのだろう。だからこそ、家族でなくなることは、少なくとも気持ちの上では、簡単だ。
『8年前、俺達はやっと夫婦になったんだよ』
裏切りは、いつも唐突にやってくるのだ。
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