【映画】「CURED キュアード」感想・レビュー・解説
僕なら、耐えられない。
自らの意志ではなく人を殺してしまった記憶を抱えて生きていくことは。
しかし、冷静に考えれば、そういう状況は現実にあり得る。
不幸な交通事故、電車への飛び込み自殺、救命救急で治療しきれなかった患者。自らそう望んだわけではないが、自分の目の前で誰かが亡くなることはあるし、それを「自分が殺してしまった」という感覚で捉えてしまう人ももちろんいるだろう。
しかし。
そういうものとも、また違うような気がするのだ。
この物語は。
どうしてこんなに、心がざわざわするんだろう。
やはりそれは、「見えないものへの恐怖」が付随するからだと思う。
「見えないものへの恐怖」に、人類は度々脅かされる。地下鉄サリン事件、福島第一原発事故、コロナウイルス。ブラックマンデーやサブプライムローンなど金融の世界も「見えないものへの恐怖」と呼んでいいかもしれない。
目に見える対象がある場合、人間の恐怖は、見えない場合と比べて少し落ち着くように思う。しかし、「見えない」というだけで、恐怖は倍加する。実際の危険度を冷静に分析してみれば、見えないものよりも見えるものの方が危険だったとしても、やはり見えないものの方が恐怖を駆り立てるだろう。
人類はこれまでも、肌の色や性差など、目に見える特徴で区別・差別を行ってきた。しかしそれらは、目に見えるが故に、知識を塗り替える教育によって改善していくことが出来る。目に見えるものは、目に見えるが故に捉えやすい。それは、差別のしやすさにももちろん繋がるが、差別の改善の可能性にも繋がっていく。
しかし、目に見えないものは、改善の可能性を見出すことが非常に困難だ。
今振り返ってみれば頭が悪いとしか言えないけど、子供の頃、嫌われているクラスメイトに触れた場合、「◯◯菌」と言ってふざけていたのを思い出す。そもそもそんな「◯◯菌」なんてものは存在しないのだけど、存在しないはずのものに名前が付くと、さも存在するかのように感じられてしまう。そして、存在しないからこそ目に見えないのだけど、目に見えないが故に「存在しない」と否定することもできなくなってしまう。それ故、「◯◯菌」といういじめを根絶することは難しい。
障害者に関しても、もちろん「目に見える障害」が楽だなんて言いたいわけではまったくないが、しかし、「目に見えない障害」は、世間から「怠けている」「努力しないだけ」という風に見られてしまう難しさがある、と見聞きする。例えば脳機能の障害を持つ場合、外から見てなかなかそれを理解することは難しい。映画『ジョーカー』で、突発的に笑ってしまう発作を持つ主人公は、「笑ってしまう病気です」というようなことが書かれた紙を常に持っていた。これも、目に見えないが故の難しさだ。
「目に見えない」ということが、分断を生む。まさか「ゾンビ映画」が、これほどの社会性を描く物語として昇華されるとは、驚きだった。
内容に入ろうと思います。
ヨーロッパを中心に、「メイズ・ウイルス」という新種の病原体が蔓延した。感染すると凶暴化し、他者を噛み殺す。さらに噛まれた人間もウイルスに感染してしまうのだ。特にアイルランドでの被害が壊滅的だったが、パンデミックから数年後、画期的な治療法が発見された。これにより、感染者の75%は回復し、経過観察の後<回復者>として社会復帰することとなった。一方、この治療法によっても効果が出ない25%については、軍の隔離施設に収容されたままである。
<回復者>として社会復帰を目指すセナンは、身元引受人であるアビーの元へと向かう。アビーは、セナンの兄・ルークの妻であり、感染のパニックの最中ルークを喪ったアビーは、一人息子であるキリアンと二人で暮らしている。ジャーナリストであるアビーは、<回復者>の社会復帰を良しとしない風潮に日々接しつつも、セナンを温かく迎え入れ、共に暮らす。
しかしセナンは、アビーへの罪悪感を拭えないでいる。
<回復者>は、治療に成功し回復したが、しかし、ウイルスに感染していた時の記憶は残ったままだ。セナンは、ルークを殺したのが自分であるという事実をアビーに告げられず、苦しんでいる。しかし社会復帰を果たすため、彼は医師のライアンズ博士の元で助手として働き始める。彼女は、残った25%の感染者は安楽死させるしかない、という政府の方針に反対すべく、「301」という番号がつけられた患者で治療法の確立に挑んでいる。セナンは、感染者が<回復者>を攻撃してこないことに気づく。
隔離施設で一緒だったコナーは元弁護士で、出所後に掃除夫の仕事をさせられることを不満に感じている。街では<回復者>への反対運動が激化し、<回復者>が襲撃されるまでになっている。コナーを中心とした<回復者>のメンバーは、回復者同盟を立ち上げ、権利の獲得に動こうとするが…。
というような話です。
凄い話だったなぁ。正直、設定だけで勝ちでしょう。よくもまあこんな設定を考えたものです。普通ゾンビ映画と言えばファンタジー的な、現実離れした設定で描かれることがほとんどでしょうが、この映画は、「メイズ・ウイルス」というウイルスの存在以外は非常に現実的で、圧倒的なリアリティーを感じさせられる作りになっています。
<回復者>というのは、本当に絶妙な設定だと感じます。彼らは、「メイズ・ウイルス」から回復したとみなされている。しかし、”本当に”回復したのかどうか、そんな保証は誰にもできない。もちろん、市民はそういう心配をしている。さらにそれとは別に、「そもそもあいつらは人殺しじゃないか」という感情がある。病気だったのかもしれないが、愛する人間の命を奪ったやつだぞ、と。だから<回復者>に対しては、「クズ」「人殺し」「人間じゃない」と散々な言葉が投げつけられる。
そこまで強硬ではない人は、<回復者>を受け入れたいと思う。思うけど、やっぱり恐怖はある。一度感染したら二度と感染しないと言われている。しかし本当だろうか?いつまた発症するか分からない。そういう気持ちは、どうしてもある。
一方、<回復者>の側もしんどい。メチャクチャしんどい。なにせ、自分の意志とは無関係に人を殺してしまったという過去を、明確に記憶しているのだ。それが、見知らぬ誰かだろうが、愛する人であろうが、その罪悪感は凄まじいものだろう。「病気だったから仕方ない」と言い聞かせる以外に、正気を保つ方法はないだろう。現に<回復者>のほとんどは、治癒した後も悪夢を見る。自分が衝動を抑えきれず、目の前にいる人間を噛み殺す場面を、繰り返し繰り返し見るのだ。地獄でしかない。実際、<回復者>の社会復帰の試みは、セナンたちの前にも行われていたという設定で、インタビューの中で「<回復者>だった叔父は去年自殺した」と語る若者が出てくる。分かる気はする。僕も、ちょっと耐えられないような気がする。
しかし<回復者>も、生きなければならない。市民から拒絶に遭いながら、真っ当な仕事にも就けず、役人(軍人?)からも低い扱いを受ける彼らからは、「ここまで憎まれるなんて、ムショの方がマシだ」という嘆きが出てくるほどだ。
この映画で描かれる分断は、様々なところで起こってきたはずだ。魔女狩りやハンセン病など、目に見えないが故に払拭出来ないマイナスなイメージを抱えて社会の中で生きざるを得なかった人々は、古今東西様々に存在しただろう。この物語は、ゾンビ映画という定型を借りつつ、普遍的な分断を描き出しているのだ。
しかし、ここまでで書いたことは、この映画の背景にすぎない。この映画で本当に描かれているものは、<回復者>同士の分断なのだ。この点については詳しく触れないが、「何を」「どのように」守るべきか、という意見の違いから、<回復者>も一枚岩ではない。<回復者>同士の分断の中心にいるのがセナンで、彼には<回復者>として恵まれていることに、身元引受人がいる。しかし、実はセナンがその身元引受人の夫を殺してしまっている。こういう複雑な要素が絡み合う中で、セナンやセナンの周りにいる人たちが何を考え、どう決断するのかに焦点が当てられていく。メチャクチャ考えさせられる映画だった。
この物語では、立場の違いによって考え方や判断が容易に変わりうるということを実感することが出来る。例えば、政府の立場に立てば、残りの感染者たちの安楽死はやむなし、と判断するしかないように思う。<回復者>の立場に立てば、自衛のために組織化するしかないと思ってしまうだろうし、また、回復するかもしれない感染者たちの安楽死には反対の立場になるだろう。一般市民の立場に立てば、安全かもしれないけど100%安心とは言えないと考えて、<回復者>たちを遠ざけてしまうという判断になるかもしれない。対立や分断という状況が目の前にある場合、自分の価値判断の中でどちらかに肩入れするような感覚を持つこともあるだろう。しかしこの物語の場合、それぞれの立場における判断に、やむを得ないと感じられる。実際に世の中に存在する、あるいは起こりうることをモチーフに選ぶと、どうしても基準としての価値判断が人によって生まれうるだろうが、この物語は、ほぼ絶対にありえないだろう設定の上に成り立っているからこそ、どの立場からの判断も許容しなければならないような状況を生み出せている。どんな立場・来歴・価値観の人であっても、それぞれの立場の難しさみたいなものを等しく感じられる、非常に良い物語だと感じた。
最後の展開は、まあそうならざるを得ないか、と思いつつも、そうであってほしくないというような、悲惨な展開になる。誰にとっても正しくはない。しかし、どの立場の人も、その立場なりの正しさを追求した結果生まれた悲劇でもある。それが分かるからこそ、誰のことも悪く言いたくないように思えるし、そうまとめてしまってはいけないが、「仕方なかった」と感じてしまった。
とにかく、恐ろしく秀逸な設定を絶妙に活かして、ゾンビ映画でありながら対立や分断が蔓延する現実を引き写し、さらに、現実的な設定では描き出せない混沌を描像する、見事な作品でした。
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