【本】高橋昌一郎「感性の限界 不合理性・不自由性・不条理性」感想・レビュー・解説
本書は、「理性の限界」「知性の限界」に続く、高橋昌一郎の<限界>シリーズ第三弾です。
まずこの<限界>シリーズがどんな感じの作品なのかについて書きましょう。
本書は、架空のシンポジウムが開かれ、そこに様々な専門家や一般人が交じり合って様々な学問分野についてあーだこーだ議論をする、という形態を取っています。本書には、「ロマン主義者」「哲学史家」「科学主義者」「軍事評論家」「美術評論家」「急進的フェミニスト」など、ありとあらゆる分野の専門家が登場し、それぞれが自らの立ち位置から様々な主張をします。その一方で、「会社員」「運動選手」「大学生A」など、専門家ではない一般人も多数登場し、ごく普通の目線から思ったこと・感じたことを発言していく。そしてそれらを「司会者」が交通整理し、今すべき議論に焦点を絞って議論を進めていく、という感じの作品です。こう書いても、なかなかイメージしにくいだろうから、本屋でパラパラってページをめくってみてください。色んな人が会話をしながら議論が展開していってるんだなぁ、というのがわかると思います。
これまでの限界シリーズでは、「理性の限界」では主に科学や数学など理系的な学問について、「知性の限界」では主に哲学的な分野について議論が展開されたのですが、本書ではメインとなるテーマは、「愛」と「自由」と「死」。特定の学問分野について特化することはなく、むしろ明確な学問領域を設定しにくい事柄(これを本書では、「感性の問題」という形で扱っているんだと思う)について議論される内容で、そういう意味でこれまでのシリーズ以上に様々な分野に議論が波及していく展開になります。
どんな内容なのかについては後で触れるとして、「おわりに」で著者が書いていた文章をまず引用します。
『それまでの「限界シリーズ」と同じように、本書の最大の目標は、なによりも読者に知的刺激を味わっていただくことにある。』
僕もまさに、このシリーズの素晴らしさはそこにあると感じています。扱われている内容ももちろん面白いし刺激的なんだけど、それ以上に、専門家と一般人が議論を展開していくというスタイルで様々な学問分野を切り取っていくというスタイルは実に斬新で、しかも効果的だと思う。まあ、このスタイルは、高橋昌一郎が訳を担当した、レイモンド・スマリヤンの「哲学ファンタジー」という作品で登場していて、恐らく高橋昌一郎オリジナルのアイデアではないんだろうけど、まあそんなことはどうでもいい。
正直僕は、「哲学ファンタジー」の中でされていた議論よりも、高橋昌一郎が<限界>シリーズの中で展開させる議論の方が、より洗練されていると感じるんですね。立場も考え方もまるで違う様々な専門家の立ち位置をそれぞれきちっと把握して発言させ、同時に全体としてきちんとした方向性のある議論になるように全体を調整するというのは、もの凄く才能を必要とすることだなとおもいます。そしてその高橋昌一郎が生み出す議論は、単一の学問領域について触れられている本、あるいは複数の学問領域に触れられていたとしてもそれぞれが有機的に結びついていない本を読むより、遥かに知的好奇心に満ちあふれている。
本書で扱われている内容それぞれには、読者の興味・関心によって好き嫌いは出てくるだろうと思う。でも、これほどまでに自然に一つの学問領域から別の学問領域へと有機的に興味を移行出来、また様々な立場の意見を同時に知りつつ、自分自身も議論に参加した気になれるような作品というのは他に思いつかないし、その議論のスタイルが生み出す知的興奮こそが本シリーズ最大の魅力だと僕は思います。
というわけで、内容に触れる感じで行きましょう。
本書の冒頭は、「会社員」の結婚披露宴会場から始まる。そこに出席した、過去二度のシンポジウムに参加した様々な専門家たちは、「結婚」や「愛」について、花嫁のお色直しの間に議論を始めてしまう。結婚披露宴の場でそんな話をするのもなんだから、じゃあ別に機会を設けましょう、って言って<限界>シリーズ三度目のシンポジウムが開かれる運びとなる。
第一章は「行為の限界」
この章は、他の章と比べても、様々な学問領域へと次々と移行していくところが凄い。スタート地点は、「知覚」からであるが、そこから「行動経済学」→「動物行動学」→「情報科学」→「認知科学」と、「行動」や「認識」などをテーマに議論が展開されていく。
人間や動物が「行為」を行う際、どんなものに強く影響を与えられるのか、何故矛盾するような行動を取ってしまうのかなどについて、興味深い具体例が提示される。特に「行動経済学」(人間は必ずしも合理的な判断によって経済活動を行なっているわけではない、という前提に立った経済学)や「二重過程理論」(人間が行動する際の二つの別系統の行動システム)などの学問領域で知られている実例には、非常に面白いものがたくさんあった。具体的には後で書くけど。
第二章は「意志の限界」
ここでは、「人間に自由意志は存在するのか?」というのを大きなテーマとして、「ミルグラムのアイヒマン実験」などを実例とした「服従」のシステムと、「ドーキンスの利己的遺伝子」などをメインにした「遺伝子」による支配について主に語られていきます。
「服従」のシステムについては、ナチスのホロコーストの最高責任者であったアイヒマンが、何故あれほどまでに残虐なことが出来たのかを解明しようと行った、ミルグラムによる有名な実験を引き合いに出し、また人間がどれだけ環境や権威などに弱く、いとも簡単に服従してしまうのか、という点を明らかにすることで、自由意志のぎ論が展開される。
また「利己的遺伝子」については、「生命の基本は個体(肉体)である」という常識的な発想を超えて、「生命は遺伝子の乗り物で、種全体としての遺伝子が最大限利益を教授出来るように生命の行動は規定されている」というドーキンスによる知見から、そんな遺伝子に支配された乗り物である人間に自由意志が存在するのか否かが議論される。
第三章は「存在の限界」
ここでは、「死」がテーマになる。遺伝子的な意味の死、あるいは「ミーム」というものを考えた時の死など、色んな観点から、「肉体の消滅」というだけではない「死」というものについて議論する。
そしてその後、「不条理」というものが、カミュの作品を引き合いに出しながら議論される。カミュは、「死へ向かう一方で生きなければならない人間」自体が「不条理」な存在であると言い、カミュが主張した、不条理に対処するための「形而上学的反抗」について触れられる。
その後、テロリストやカルト集団が何故死に身を投じてしまうのかという話になった後で、「意識」に関する衝撃的な実験結果を提示しつつ、「「意識」を持つ「私」こそが「存在」であるのに、その「意識」がそもそも「脳」による幻想であるならば、「私」の「死」とは一体どういう意味だろう?」というような展開になって行きます。
大体の流れとしてはこんな感じです。いかに、特定の学問領域に収まらないで議論が展開されていくのか、という点が少しでも伝わるといいなぁ、と思います。
さてここからは、個別に面白かった話題についてあーだこーだ書いてみます。
まず、本書で僕が一番好きな「アンカリング」の話から。
これは、「行動経済学」の分野において発見されたもので、「アンカー」というのは「錨」という意味。例えば、「5000円」という値札をつけるより、「1万円だったところ5000円に値引き」と書く方が、「1万円」という数字が「アンカー」となって、「5000円」と数字が安く思える、というようなものです。
「アンカリング効果」を発見したカーネマンとトヴェルスキーは、このアンカリング効果が、ランダムな数値に対しても生じることを発見して、「アンカリング効果」を含む「プロスペクト理論」でノーベル経済学賞を受賞しました。
彼らが行った実験は「国連実験」と呼ばれました。
二人は大学の教室に、1から100までの数字があるルーレットを持ち込み、学生の前で回します。そして、数字が出たら(実験結果をわかりやすくするために、このルーレットは10か65のどちらかで止まるよう細工されていたけど、学生はルーレットの数字をランダムだと認識していた)、「10という数字が出ました。さて、国連にアフリカ諸国が占める割合は、10%よりも高いか低いか、どちらでしょう?」と質問する。この結果、ルーレットで10が出たグループは占める割合を平均25%だと推定し、ルーレットで65が出たグループは占める割合を平均45%と推定した。これは明らかに、まったくなんの関係もないルーレットの結果に引きずられて答えが変わったと見ることが出来ます。
そしてこのアンカリング効果の最も衝撃的な例は、アメリカでも悪評の高い裁判だとして有名な「マクドナルド訴訟」で、これはもの凄く面白かった。
マクドナルドでコーヒーを買った老婦人が、自分の不注意からコーヒーをこぼして重度の火傷を負ったのだけど、それに対しこの老婦人は、マクドナルドのコーヒーが熱すぎたからだとして裁判を起こす。結果この裁判で老婦人は286万ドルというとんでもない損害賠償を勝ちとるのですが、その背景に、アンカリング効果を絶妙に使った弁護士の存在がありました。
弁護士は、賠償金額をどう算出するかという議論の際、「マクドナルドの全店のコーヒーの売上高を基準にしてはどうか」と主張します。これによって裁判員には、「マクドナルドのコーヒーで火傷を負ったのだから、全店のコーヒーの売上の一日か二日分ぐらいは、懲罰的な意味であげてもいいのではないか?」という刷り込みがなされ、結果とんでもない賠償金額になった、というわけです。
このアンカリング効果、様々な実験によって裏付けられているようで、僕たちも、うっかりしていると、何らかの「アンカー」の存在に引きずられて、自分の行動が決定されているのかもしれません。
そして次に、「フレーミング効果」。これも具体例が非常に面白い。
『二つのボウルがあって、「ボウルA」には白玉9個と赤玉1個、「ボウルB」には白玉92個と赤玉8個が入っているのが見えていて、各々の個数も被験者にハッキリと告げられているとしましょう。被験者はボウルに手を入れて、かき混ぜてから一つの玉を取り、それが赤玉だったら景品を獲得するというゲームです。さて、あなただったら、どちらのボウルから玉を取りますか?』
これは不思議なもので、確率で考えたらどう考えても「ボウルA」から取るべきだと分かっているのに、なんとなく「ボウルB」から取りたくなってしまいますよね。実際の実験結果でも同じような傾向が見られたんだそうです。
またこんな事例もある。
『あなたは主要国の厚生大臣で、ある感染症の病気に対策を講じようとしているとします。この病気には、すでに600人が感染していて、このまま放っておけば死亡することが推定されています。この感染症に対して、二つの対策が提案されます。
「対策A」を採用すれば、200人が助かります。「対策B」を採用すれば、600人が助かる確率が1/3、一人も助からない確率が2/3です。
さて、あなたが大臣だったら、どちらの対策を採用しますか?』
まずこの問いについて考えてみてください。
そして次にこれ、
『あなたは主要国の厚生大臣で、ある感染症の病気に対策を講じようとしているとします。この病気には、すでに600人が感染していて、このまま放っておけば死亡することが推定されています。この感染症に対して、二つの対策が提案されます。
「対策C」を採用すれば、400人が死亡します。「対策D」を採用すれば、一人も死亡しない確率が1/3、600人が死亡する確率が2/3です。
さて、あなたが大臣だったら、どちらの対策を採用しますか?』
さてどうでしょうか?大体の人は、初めの問いで「対策A」を、後の問いでは「対策D」を選ぶのではないでしょうか?
しかし、問いをよく読むと分かりますけど、この二つの問いはまったく同じことを別の表現で書いているにすぎません。だから、「対策A」と「対策C」を、あるいは「対策B」と「対策D」を選ばなければ一貫性がありません。でも、なんとなく、「対策A」と「対策D」を選びたくなってしまいますよねぇ。
また、法定心理学会に所属する心理学者と精神科医479名を対象にしたとある実験の話も載っているのだけど、それはより不思議だし、専門家でさえフレーミング効果に騙されてしまうという恐ろしさを感じました。
『人間には「得をするフレームではリスクを避け、損をするフレームではリスクを冒そうとする」傾向があるとする』
本書の様々な場面で取り上げられる「二重過程理論」の話も凄く面白い。直感的(無意識的)な処理システムを「自律的システム」と、論理的な(意識的な)系統的な処理システムを「分析的システム」と呼び、それらがお互いに様々な形で拮抗するからこそ、矛盾した行動を取ったり、意志に反する行動を取ってしまう、という話は実に面白いと思いました。
またこの二つのシステムについて、「自律的システム」は遺伝子の利益を優先し、「分析的システム」は個体の利益を優先していると解釈することで、「利己的遺伝子」との話とも結びついて、なるほど、という感じがしました。僕たちが意識的に制御出来るのは、意識によってコントロール出来る「分析的システム」だけであって、これは個体の利益に利する。それはそうで、僕たちが意識して行なっている行動のほとんどは、遺伝子を残そうと思ってやっていることではない。その一方で、無意識によって支配されている「自律的システム」は、種としての遺伝子全体の利益を優先するように行動する(行動させる)システムであって、その個体の利益と遺伝子の利益が、多くの場合相反しているように思えるという点が、人間が矛盾した行動を取ってしまう理由なのだ、という話は、凄く納得出来ました。
「利己的遺伝子」に関係して、苦味物質を好んで摂取するのは地球上でヒトだけである、という話から、スタノヴィッチという人物の発言としてこんな言葉が載っている。
『私たちはロボット―複製子の繁殖に利するように設計された乗り物―かもしれないが、自分たちが、複製子の利益とは異なる利益を持つということを発見した唯一のロボットでもある。』
最後は、「意識」の話。ここでも、なかなかに衝撃的な事例が取り上げられている。
それまでの運動生理学の常識では、「ヒトが指を動かせる」のは、まずヒトが「指を動かす」ことを「意識」して、その指令が「脳」の「随意運動野」に伝わり、そこで「運動準備電位」が上昇して、電気信号が運動神経を通じて指の筋肉に届くからだ、というのが常識でした。
しかしとある実験によって、それが覆されてしまったのです。
その実験によれば、「人が指を動かせる」のは、ヒトが「指を動かす」ことを「意識」するよりも350ミリ秒から500ミリ秒前に、すでに指を動かすための司令が「無意識」的に発せられている、というのです。
つまり僕たちは、「指を動かしたい」と「意識」して指を動かしているのではなく、「無意識」が「指を動かす」と指示を出した後で、「指を動かしたい」と「意識」しているというわけで、これはなかなかに衝撃的な実験ですよね。
巻末の「おわりに」で、原子力に関するシンポジウムで司会をした、というような話を著者がするのだけど、そこにこんな文章がある。
『「充分に進化した科学技術は、魔法と見分けがつかない」というアーサー・クラークの有名な言葉がある。それに付け加えたいのは、現代の科学者は「科学」を行なっているが、一般大衆は「科学」ではなく「魔法」を期待しているということである。』
そういう感覚は、なかなか捨て去ることは難しいだろうと思います。特に、「科学」というものに特別関心がなかったり、触れる機会がなかったりした場合、それはより顕著になるでしょう。それに対処するためにも、本シリーズはうってつけだと思います。本シリーズでは、様々な学問領域の『限界』について触れられる。それぞれにどんな『限界』が存在しているのかを知ることは、物事を深く理解する手助けにもなる。
個人的な感覚では、やっぱり一番好きなのはシリーズ第一作目の「理性の限界」ですけど(物理とか数学の話がメインだったからだろうなぁ)、シリーズ通してやっぱり、知的興奮に満たされる作品だと思います。シリーズを読まずにいきなり本書からでももちろん大丈夫だけど、本書の中には「理性の限界」「知性の限界」に言及する箇所がいくつか出てくるので、読んでいるとより面白いかもしれません。是非読んでみてください!